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スポーツ用品は工芸になれるのか

今日も違和感を見つけた。

ミズノのシューズが、LVMH メティエ ダールの展示に出るというニュースを見た。

展示の名前は、WASHI ~ the art of crafting paper, where tradition unlocks innovation。

LVMH公式サイトでは、この展示について、和紙を中心に、日本の職人技や素材実験、そしてより工業的な応用までを扱うものとして紹介している。

FASHIONSNAPによると、ミズノはこの展示に、和紙を用いた特別仕様のウエーブプロフェシーモックを出展している。

この組み合わせが、少し不思議だった。

ミズノ。

スポーツブランド。

ランニングシューズ。

競技。

機能。

軽さ。

反発。

耐久性。

一方で、LVMH メティエ ダール。

ラグジュアリー。

素材。

職人技。

工芸。

文化。

時間。

この二つは、一見かなり遠い場所にある。

スポーツ用品は、もっと速く走るためにある。

もっと高く跳ぶためにある。

もっと長く耐えるためにある。

そこでは、美しさよりも性能が優先される。

少なくとも、そう見えていた。

しかし、そのスポーツブランドのシューズが、和紙という古い素材をまとい、LVMHの工芸文脈に置かれている。

これは単なるコラボレーションではなく、もっと大きな問いに見えた。

スポーツ用品は工業製品なのか。

それとも、工芸になれるのか。

スポーツ用品は、工業製品だった

スポーツ用品は、基本的に工業製品である。

速い。

軽い。

丈夫。

疲れにくい。

滑りにくい。

壊れにくい。

記録が伸びる。

身体の負担が減る。

スポーツ用品に求められるのは、かなり明確である。

性能である。

ランニングシューズなら、反発性、安定性、軽量性、フィット感が問われる。

スパイクなら、グリップや推進力が問われる。

ラケットなら、重量、しなり、打感が問われる。

ウェアなら、通気性、速乾性、伸縮性、耐久性が問われる。

つまりスポーツ用品は、身体の能力をどう拡張するかという道具だった。

そこでは、文化や物語よりも、まず機能が優先される。

もちろん、スポーツ用品にもデザインはある。

ブランドのロゴもある。

憧れの選手が履いていたモデルもある。

限定カラーもある。

しかし、それでも根本には機能がある。

速く走れるのか。

疲れにくいのか。

勝てるのか。

壊れないのか。

そこから逃げられない。

その意味で、スポーツ用品はかなり近代的な存在である。

身体を測定し、課題を分解し、素材を改良し、構造を最適化し、量産する。

感性よりも、検証。

伝統よりも、更新。

一点物よりも、再現性。

そこにスポーツ用品の強さがあった。

和紙という違和感

だからこそ、和紙という素材が気になった。

和紙は、最新素材ではない。

むしろ古い素材である。

紙である。

繊維である。

手仕事の記憶がある。

地域や技術の歴史を持っている。

大量生産や競技性能の文脈だけで見れば、少し遠い素材に見える。

なぜスポーツ用品に和紙なのか。

なぜ工業製品であるシューズに、工芸的な素材を重ねるのか。

ここに違和感がある。

もちろん、和紙にも機能はある。

軽さ。

通気性。

独特の質感。

繊維としての強さ。

自然素材としての表情。

しかし今回面白いのは、単に和紙が機能素材として使われていることだけではない。

和紙が、スポーツ用品をラグジュアリーや工芸の文脈へ接続していることである。

同じ靴でも、素材が変わると、見え方が変わる。

合成繊維のシューズなら、競技や都市の道具に見える。

しかし和紙をまとった瞬間、それは素材の記憶を持ち始める。

誰が作った素材なのか。

どんな技術があるのか。

なぜこの素材なのか。

どんな文化から来たのか。

そういう問いが立ち上がる。

つまり和紙は、単なる素材ではなく、文脈を連れてくる。

ここが重要だと思う。

工業製品と工芸は、本当に対立するのか

普通に考えると、工業製品と工芸は対立しているように見える。

工業製品は、量産される。

工芸は、一点性や手仕事に価値がある。

工業製品は、効率を求める。

工芸は、時間をかける。

工業製品は、再現性を重視する。

工芸は、揺らぎや個体差を含む。

工業製品は、スペックで語られやすい。

工芸は、素材や背景で語られやすい。

だから、スポーツ用品と工芸は遠く見える。

しかし、実際にはそこまで単純ではない。

工芸にも技術がある。

工業製品にも美意識がある。

工芸は感性だけで成立しているわけではない。

素材理解、加工技術、身体感覚、道具の扱い、工程の積み重ねがある。

逆に、工業製品も単なる機械生産ではない。

設計、素材開発、試作、検証、職人の調整、身体への理解がある。

つまり、工芸と工業は完全な別物ではない。

どちらも、素材と身体と技術の関係である。

違いは、どの価値を前面に出すかである。

工業製品は、性能や再現性を前面に出す。

工芸は、素材や手仕事や時間を前面に出す。

しかし、根の部分ではかなり近い。

どちらも、人間が素材をどう扱うかという問題なのだ。

機能が極まると、物語が戻ってくる

スポーツ用品は長い間、機能競争をしてきた。

より軽く。

より速く。

より強く。

より反発する。

より疲れにくい。

より快適に。

これは非常に分かりやすい競争である。

数字で語れる。

比較できる。

改善できる。

市場にも伝えやすい。

しかし、機能競争には限界がある。

ある程度まで性能が上がると、差が見えにくくなる。

どのシューズも軽い。

どのウェアも速乾する。

どのブランドも反発素材を持っている。

どのメーカーも身体データを見ている。

機能差が消えるわけではない。

しかし、一般の人が感じ取れる差は少しずつ小さくなる。

そうなると、人は別の価値を求め始める。

素材。

手触り。

背景。

物語。

思想。

文化。

なぜそれを選ぶのか。

なぜそのブランドなのか。

なぜその一足なのか。

機能だけで差別化しきれなくなると、物語が戻ってくる。

これはスポーツ用品に限らない。

ファッションでも同じことが起きている。

以前、服は自己表現から気候適応装置へ変わるのか、という記事を書いた。

猛暑が進むほど、日常着は機能へ寄っていく。

しかしその反動で、ファッションは意味や儀式の方向へ濃くなるのではないか、という話だった。

今回のミズノの和紙シューズも、近い構造に見える。

機能が進化しきった領域に、素材の物語が戻ってくる。

工業製品が進んだ先で、工芸が再び必要になる。

ラグジュアリーは、性能だけを売っていない

ラグジュアリーは、性能だけを売っていない。

もちろん品質は重要である。

縫製がいい。

革がいい。

素材がいい。

仕立てがいい。

長く使える。

そういう実質的な価値はある。

しかしラグジュアリーの本質は、性能だけではない。

歴史。

職人技。

文化。

時間。

希少性。

物語。

それらが重なって、ラグジュアリーになる。

高い素材を使えばラグジュアリーになるわけではない。

手間がかかればラグジュアリーになるわけでもない。

そこに、なぜそれが作られたのか、なぜそれが残るのか、なぜそれを持ちたいのかという文脈が必要になる。

LVMH メティエ ダールは、まさにその文脈を扱っている。

LVMH公式サイトでも、今回の展示は、和紙を通して日本の職人技の創造力を現代的に見せるものとして紹介されている。

ここにミズノのシューズが置かれることの意味は大きい。

スポーツ用品が、単なる性能の道具ではなく、素材文化の器として見られ始めている。

これは、スポーツブランドがラグジュアリーに寄せているという単純な話ではない。

工業製品の中にも、工芸的に読める余地が出てきたということだと思う。

日本素材は、懐古ではなく更新の入口になる

ここで気をつけたいのは、日本礼賛にしないことである。

和紙だからすごい。

日本の手仕事だから尊い。

伝統素材だから価値がある。

そう言ってしまうと、少し浅くなる。

伝統は、それだけでは価値にならない。

古い素材を使えば新しいわけでもない。

大事なのは、伝統素材が現代の構造の中でどう更新されるかである。

和紙が、床の間や工芸品の中に留まるのではなく、スポーツシューズに入る。

走るための道具に入る。

都市を歩くための靴に入る。

量産や機能の文脈に接続される。

ここに面白さがある。

伝統は、保存されるだけでは弱い。

使われることで更新される。

違う領域に持ち込まれることで、別の意味を持ち始める。

和紙がシューズに使われることは、単に古い素材を現代的に見せることではない。

素材の居場所を変えることでもある。

紙だったものが、靴になる。

工芸だったものが、スポーツ用品になる。

伝統だったものが、都市の身体に触れる。

この移動に、かなり現代的な面白さがある。

スポーツ用品が工芸になる条件

では、スポーツ用品は工芸になれるのか。

何でも工芸になるわけではない。

高い素材を使えばいいわけでもない。

限定品にすればいいわけでもない。

職人という言葉を足せばいいわけでもない。

スポーツ用品が工芸に近づくには、いくつか条件があると思う。

まず、素材に必然性があること。

なぜその素材なのか。

見た目だけなのか。

機能のためなのか。

文化のためなのか。

身体との関係のためなのか。

そこが弱いと、単なる装飾になる。

次に、機能を捨てていないこと。

スポーツ用品である以上、身体の道具であることから逃げられない。

見た目だけが工芸的でも、履き物として成立していなければ弱い。

工芸へ寄せることで、スポーツ用品としての身体性が消えるなら、それはただの展示物になる。

そして、背景が商品説明で終わらないこと。

素材の物語が、販売文句だけになってしまうと薄い。

誰が作ったのか。

どう受け継がれてきたのか。

なぜ今この形で使うのか。

そこまで含めて、初めて工芸的な厚みが出る。

つまり、スポーツ用品が工芸になるには、性能と物語の両方が必要である。

どちらか一方では足りない。

機能だけなら工業製品で終わる。

物語だけなら雰囲気で終わる。

その間に立てるかどうかが重要になる。

ポスト産業主義的なものづくり

今回のニュースを見て、少しポスト産業主義的だと思った。

大量生産を否定するわけではない。

工業製品を否定するわけでもない。

むしろ、工業製品の力を前提にしている。

そのうえで、素材、手仕事、文化、時間をもう一度接続する。

これが今っぽい。

産業化以前の工芸に戻るわけではない。

完全な量産効率だけに進むわけでもない。

工業製品でありながら、工芸的な文脈を持つ。

機能を持ちながら、物語を持つ。

量産可能性を持ちながら、素材の固有性を持つ。

この中間領域が、これからかなり重要になる気がしている。

以前、一点豪華主義について書いた。

全身ボロくても、靴だけCCP、メガネだけJMMみたいな人が好きだという話である。

そこでも書いたが、人は性能や価格だけで物を選んでいるわけではない。

人生のどこに異常投資するか。

どこだけは妥協しないか。

どの物に自分の執着を預けるか。

そういう選び方がある。

和紙のシューズも、単に機能的だから選ぶものではない。

そこには、素材への関心、文化への接続、ラグジュアリーへの問いがある。

つまり、スポーツ用品であっても、人はそこに執着や物語を見出す。

速さの道具が、時間を持ち始める

スポーツ用品は、本来かなり現在形の道具である。

今、走る。

今、跳ぶ。

今、打つ。

今、勝つ。

今、記録を出す。

競技の世界では、時間は未来へ向かう。

次の大会。

次の記録。

次の性能。

次のモデル。

次の素材。

だからスポーツ用品は、更新され続ける。

新しいモデルが出る。

前作より軽くなる。

反発が増す。

サポートが変わる。

常に前へ進む。

しかし工芸は、少し違う時間を持っている。

過去から来る。

受け継がれる。

手が入る。

素材が育つ。

技術が蓄積する。

長い時間の中で意味を持つ。

和紙のシューズが面白いのは、この二つの時間が重なるからである。

スポーツ用品の未来へ進む時間。

工芸の過去から続く時間。

この二つが、一足の靴の中で重なる。

速さの道具が、時間を持ち始める。

ここに、かなり大きな意味があると思う。

スポーツと工芸は、遠いようで近い

スポーツと工芸は遠いように見える。

片方は競技である。

片方は手仕事である。

片方は記録を追う。

片方は時間を積む。

片方は身体能力を拡張する。

片方は素材と技術を深める。

しかし、よく考えると、どちらも身体の話である。

スポーツは、身体をどう動かすか。

工芸は、身体を使ってどう作るか。

スポーツ用品は、身体を支える道具である。

工芸品は、身体の技術が残った物である。

つまり、どちらも身体と技術の関係でできている。

違うのは、身体の向きである。

スポーツは、身体を外へ向かわせる。

走る。

跳ぶ。

投げる。

打つ。

工芸は、身体を素材へ向かわせる。

切る。

貼る。

編む。

漉く。

磨く。

縫う。

どちらも、身体なしには成立しない。

だから、スポーツ用品が工芸に近づくことは、そこまで不自然ではない。

むしろ、身体という共通点を通して、再接続されているようにも見える。

結論

スポーツ用品は工業製品なのか。

それとも工芸になれるのか。

私は、なれるかもしれないと思う。

ただし、それはスポーツ用品がラグジュアリーの雰囲気を借りる、という意味ではない。

高級素材を使えばいいわけでもない。

限定展示に出ればいいわけでもない。

スポーツ用品が工芸に近づくのは、機能と素材と文化が、同じ場所で結び直された時である。

工業製品と工芸は、対立しない。

機能が極まると、再び文化や素材の物語へ戻っていく。

軽さや速さだけではなく、なぜその素材なのか。

性能だけではなく、どんな時間をまとっているのか。

量産品でありながら、どんな手仕事の記憶を持っているのか。

そういう問いが立ち上がる。

ミズノの和紙シューズが面白いのは、スポーツ用品を工芸っぽく見せたからではない。

工業製品の中に、素材と文化の物語が戻ってくる瞬間を見せたからである。

人は、性能だけで物を選ばない。

速いだけでは足りない。

軽いだけでも足りない。

便利なだけでも足りない。

その物が、どこから来て、どんな身体に触れ、どんな時間を連れているのか。

たぶん、これからのデザインは、そこまで問われる。

スポーツと工芸は遠いようで、実は同じ場所へ向かっているのかもしれない。

どちらも、身体と素材と時間の話だからである。

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