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服は自己表現から、気候適応装置へ変わるのか

今日も違和感を見つけた。

WWD JAPANのサマーテック特集を読んだ。

サマーテック。

最初は、少し聞き慣れない言葉だった。

しかし内容を読むと、かなり今の空気を捉えていると思った。

PR TIMESに掲載されたWWD JAPAN最新号の告知では、猛暑対策グッズや夏に売れるファッション、ビューティアイテムをサマーテックと定義している。そこでは、遮熱、冷却、UV対策、冷感コスメ、さらにペルチェ素子による直冷ウエアまで扱われていた。

WWD JAPAN本誌の特集でも、ワークマンの着る遮熱、花王ビオレの猛暑対策、気象データを売り上げ創出に結びつけるウェザーマーケティングなどが取り上げられている。

https://www.wwdjapan.com/articles/2391621

重要なのは、猛暑で服が売れない、という話ではない。

猛暑そのものが、商品開発と販売戦略の起点になっていることだ。

かつて夏服は、暑い季節に何を着るかという話だった。

今は少し違う。

暑い季節をどう生き延びるか、という話になっている。

これは、かなり大きな変化だと思う。

服はこれから、自己表現のためのものではなく、気候へ適応するための装置になっていくのではないか。

そんな違和感が残った。

昔の服は、季節を楽しむものでもあった

もちろん、服は昔から気候に対応してきた。

冬には厚い生地を着る。

夏には薄い生地を着る。

雨の日には濡れにくいものを選ぶ。

風が強ければ羽織る。

服は最初から、身体を環境から守るためのものだった。

だから、気候適応そのものは新しい話ではない。

ただ、昔の服には、もう少し季節を楽しむ感覚があった。

春には軽い色を着る。

夏にはリネンや白を着る。

秋には重ね着が始まる。

冬にはコートやニットの質感が出てくる。

季節は、単なる環境条件ではなく、装いの変化でもあった。

暑いから薄着をする。

寒いから厚着をする。

それだけではなく、季節ごとに身体の見せ方、素材の選び方、色の使い方、街の空気との距離感が変わっていた。

服は、気候に対応しながら、同時に季節を表現していた。

そこには、少し余裕があった。

暑いけれど、夏らしく着る。

寒いけれど、冬らしく重ねる。

季節は、身体にとって負荷であると同時に、美意識のきっかけでもあった。

しかし今、その余裕が少しずつ削られている。

夏は、夏らしさを楽しむ季節というより、危険な季節になりつつある。

今の服は、季節を乗り切るものになりつつある

最近の夏は、暑いというより、身体に対して攻撃的である。

少し外に出るだけで汗が出る。

日差しが痛い。

アスファルトの熱が下から来る。

駅まで歩くだけで疲れる。

昼間に外出すること自体が、軽い消耗になる。

そうなると、服に求めるものも変わる。

きれいに見えるか。

自分らしく見えるか。

世界観があるか。

そういうことより先に、まず涼しいか、乾くか、焼けないか、汗染みが目立たないか、洗いやすいか、という問題が来る。

遮熱。

冷却。

速乾。

UVカット。

軽量化。

通気性。

洗濯耐性。

これらは、かつてアウトドアやスポーツ、ワークウエアの領域に近かった。

しかし今は、普通の生活の服に入ってきている。

ここで起きているのは、単なる機能服ブームではない。

服の前提が変わり始めている。

服は、見せるものから、耐えるものへ。

飾るものから、守るものへ。

季節を楽しむものから、季節を乗り切るものへ。

少しずつ重心が移っている。

自己表現より先に、生存が来る

ファッションは長い間、自己表現の言葉で語られてきた。

何を着るかは、どう見られたいかである。

どのブランドを選ぶかは、どんな美意識に属するかである。

黒を着るのか。

ロゴを着るのか。

古着を着るのか。

スーツを着るのか。

ストリートを着るのか。

アルチザンを着るのか。

服は、自分と世界の距離を調整するためのものだった。

この話は、以前の記事でも書いた。

41歳で大阪文化に入って、服はただの布なのに、人間の感情、階級、人格、所属、欲望、自己認識を異常なほど左右していると感じた。

服は、単なる防寒や装飾ではない。

人間が自分と世界の距離を調整するためのインターフェースなのかもしれない。

その感覚は今も変わっていない。

ただ、猛暑が進むと、そのインターフェースの前提が変わる。

自己表現の前に、身体が来る。

どれだけ好きな服でも、暑すぎて着られない。

どれだけ美しい服でも、汗で不快なら日常には入らない。

どれだけ世界観があっても、真夏の移動に耐えられないなら選ばれにくい。

これは、ファッションにとってかなり厳しい現実である。

服は思想である前に、身体に触れる物体である。

肩に乗る。

肌に当たる。

汗を吸う。

熱を持つ。

擦れる。

洗われる。

乾く。

毎日着る服は、どれだけ意味があっても、身体が拒否すれば続かない。

つまり、猛暑はファッションに対して、かなり根本的な問いを突きつけている。

服は、自己表現のためのものなのか。

それとも、気候へ適応するための装置なのか。

服は二極化していく

たぶん、答えはどちらか一方ではない。

服はこれから、二極化していくのだと思う。

一方には、気候適応の服がある。

ユニクロ。

ワークマン。

スポーツブランド。

アウトドアブランド。

テックウェア。

機能素材。

冷感インナー。

UVカット。

遮熱ジャケット。

速乾パンツ。

ここでは、服は生活インフラに近づいていく。

毎日着る。

洗える。

安い。

強い。

涼しい。

疲れにくい。

管理しやすい。

この領域では、服は自己表現というより、身体を維持するための道具になる。

もう一方には、意味や物語の服がある。

Yohji Yamamoto。

Rick Owens。

アルチザン。

一点物。

古着。

クラフト。

作家性の強い服。

そこでは、快適性だけでは説明できない価値が残る。

なぜそれを着るのか。

なぜその黒なのか。

なぜその重さなのか。

なぜその不便さまで受け入れるのか。

なぜその服に時間をかけるのか。

以前、ファッションとは自己分析なのではないかと書いた。

服を選ぶことは、似合う服を探す行為ではなく、自分が何を信じ、何を拒み、どんな時間を生きたいのかを探る行為なのではないか、という話である。

その意味で言えば、気候適応の服と、意味の服は対立しない。

むしろ役割が分かれる。

日常着はインフラ化する。

ファッションは儀式化する。

毎日の服は、どんどん合理化される。

しかし、だからこそ特別な服は、より意味を持つ。

普段は機能で生きる。

でも、ある瞬間には意味を着る。

この分裂が、これからかなり強くなる気がしている。

日常着はインフラ化する

日常着の未来は、かなりインフラに近い。

服を選ぶというより、環境に最適化する。

今日は暑いから、これ。

紫外線が強いから、これ。

汗をかくから、これ。

洗濯が楽だから、これ。

移動が多いから、これ。

冷房が強いから、これ。

こうなると、服は水道や電気に近づく。

あることが前提になる。

不快を減らすための基盤になる。

自分を表現するというより、自分の身体を破綻させないための仕組みになる。

これは、悪いことではない。

猛暑の中で、無理におしゃれをする必要はない。

身体を守ることは、かなり重要である。

特に日本の夏は、もはや気合いで乗り切るものではない。

熱中症の危険もある。

紫外線の問題もある。

汗や湿度による不快感もある。

その意味で、サマーテックのような発想はかなり現実的である。

服が環境対応の道具になることは、生活にとって必要な進化でもある。

ただ、その一方で少し寂しさもある。

服がどんどん正解に近づいていくからだ。

暑い日はこれ。

汗をかく日はこれ。

焼けたくないならこれ。

効率的には正しい。

しかし、正しすぎる服は、少しだけつまらない。

ファッションは消えるのではなく、儀式化する

では、ファッションは消えるのか。

私はそうは思わない。

むしろ逆だと思う。

日常着がインフラ化するほど、ファッションは濃くなる。

ただし、場所が変わる。

毎日の中に薄く広がっていたファッションは、特別な時間や場面に集まっていく。

ライブに行く時。

展示に行く時。

誰かに会う時。

写真を撮る時。

自分を少し変えたい時。

世界との距離を変えたい時。

そこでは、服は単なる快適性ではなくなる。

服は儀式になる。

なぜ今日はそれを着るのか。

なぜこの暑さの中で、それでもその服を選ぶのか。

なぜ便利な服ではなく、意味のある服を選ぶのか。

そこに、その人の美意識が出る。

以前、AI時代にファッションは何を作るのかについて書いた。

画像生成やスタイル生成が容易になるほど、服そのものより、なぜそれを作るのかが問われ始めるという話だった。

これは気候の話にも近い。

機能が最適化されるほど、意味が問われる。

涼しい服は増える。

軽い服も増える。

速乾の服も増える。

UVカットの服も増える。

でも、その中でなぜその服なのか。

なぜそのブランドなのか。

なぜその不便さを選ぶのか。

そこに、ファッションの残る場所がある。

普段は機能的な服を着る。

でも、ある日だけ重いブーツを履く。

普段は涼しい服を着る。

でも、ある日だけ黒を着る。

普段は洗いやすい服を着る。

でも、ある日だけ扱いにくい素材を選ぶ。

それは非合理である。

しかし、人間は非合理なものを完全には手放せない。

むしろ、生活が合理化されるほど、非合理な選択には意味が宿る。

猛暑は、服から余白を奪う

猛暑が怖いのは、服から余白を奪うことだ。

好きだから着る。

気分だから着る。

なんとなく今日はこれ。

そういう曖昧な選択が、暑さによって削られていく。

今日はこれを着たい。

でも暑すぎる。

このジャケットを着たい。

でも無理。

このブーツを履きたい。

でも蒸れる。

このレイヤードをしたい。

でも危険。

こうして、服の選択肢は気候によって狭められる。

これは、自己表現の問題であると同時に、生活の問題でもある。

気候が変わると、街の見え方も変わる。

人の動き方も変わる。

買う服も変わる。

売れる服も変わる。

ブランドの作る服も変わる。

つまり、気候はファッションの外部条件ではない。

ファッションそのものを作り替える力である。

この点で、サマーテックという言葉はかなり象徴的だと思う。

猛暑は、単なる季節の問題ではなく、市場の構造になり始めている。

気候適応の先に、何が残るのか

服が気候適応装置になるとして、その先に何が残るのか。

たぶん、残るのは意味である。

機能は、どんどん共有される。

涼しい素材。

焼けにくい服。

乾きやすい服。

軽い服。

安くて便利な服。

これらは、大量生産と技術開発によって広がっていく。

すると、機能だけでは差がつきにくくなる。

どのブランドも涼しい。

どのブランドも軽い。

どのブランドも洗える。

どのブランドもUVカットする。

その時、最後に残るのは、なぜそれを着るのかという意味である。

どんな思想で作られたのか。

どんな身体観を持っているのか。

どんな距離感で世界と関わる服なのか。

誰が、どんな場所で、どんな理由で着るのか。

機能が標準化されるほど、意味が問われる。

これは、ファッションに限らない。

生活のあらゆる領域で起きていることだと思う。

便利なものは増える。

快適なものも増える。

正解も増える。

しかし、正解が増えるほど、人はなぜそれを選ぶのかを問われる。

以前、モバイルオーダーに感じる違和感について書いた。

効率化されるほど、逆に人は関係の痕跡や人間的な余白を求め始めるのではないか、という話だった。

服も同じである。

機能が増えるほど、便利になる。

でも、便利になった先で、人はそれだけでは満たされない。

涼しい。

軽い。

乾く。

焼けない。

それは大事である。

しかし、それだけなら服はほとんど設備になる。

ファッションとして残るのは、その設備化された服の外側にある意味なのだと思う。

結論

服は、気候適応装置になっていく。

これはかなり避けにくい流れだと思う。

猛暑が続く限り、服は涼しさ、軽さ、遮熱、冷却、UV対策、洗いやすさへ向かう。

日常着は、自己表現というより生活インフラに近づいていく。

しかし、それはファッションが消えるという意味ではない。

むしろ、日常着がインフラ化するほど、ファッションは意味の側へ濃くなる。

機能は普段を支える。

意味は特別な時間に残る。

快適性は生活を守る。

儀式性は人間らしさを残す。

未来のファッションは、おしゃれではなく、儀式に近づくのかもしれない。

暑さに耐えるための服を着ながら、それでも人は、どこかで意味を着ようとする。

その矛盾が、これからの服を面白くする気がしている。

関連して読める記事

服が人間の感情や自己認識に与える影響については、この記事で書いた。

ファッションが自己分析に近いという話は、この記事に近い。

AI時代にファッションが何を作るのかについては、この記事で掘った。

効率化されるほど人間的な余白が気になる、という話はこちら。


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Void Labは、服に現れる時代の変化を観測する小さな研究室です。

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週刊服飾観測・月刊服飾観測を中心に、ファッション、ブランド、消費、カルチャーの違和感を読み解きます。

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