ファッションとは自己分析であることに気づいた
1. 服を選ぶたびに、自分が出る
41歳で大阪文化、現Voutrailに入って2ヶ月目。
最近、かなり面倒なことに気づき始めている。
ファッションとは、自己分析なのではないか。
しかも、かなり高額な自己分析である。
服を買うたびに、自分が何を欲しがっているのかが出る。
何を隠したいのか。
何を見せたいのか。
どんな人間に見られたいのか。
どんな場所に所属したいのか。
逆に、どんな場所から距離を取りたいのか。
そういうものが、服を選ぶたびに出てしまう。
もちろん、服はただの服である。
TシャツはTシャツであり、ジャケットはジャケットであり、靴は靴である。
しかし、実際には人は、ただ布を買っているわけではない。
少なくとも私は、最近そう思うようになった。
服を買っているようで、自分を見ている。
似合うかどうかを考えているようで、本当は自分がどう見られたいのかを考えている。
価格を見て悩んでいるようで、本当は自分がその服にそこまで払う人間でありたいのかを問われている。
かなり厄介である。
服は便利で、美しく、楽しい。
しかし同時に、こちらの内面をかなり雑に暴いてくる。
2. 服を買っているようで、自分を見ている
人は服を選ぶ時、単に布を選んでいるわけではない。
強く見られたい。
静かに見られたい。
知的に見られたい。
怖く見られたい。
優しく見られたい。
普通に見られたい。
普通から外れたい。
目立ちたい。
でも、分かりやすく目立つのは嫌だ。
高そうに見られたい。
でも、成金っぽくは見られたくない。
服選びには、欲望と不安がかなり出る。
たとえば、黒い服を選ぶ時。
それは単に黒が好きだから、だけでは終わらない。
黒は合わせやすい。
黒は汚れが目立ちにくい。
黒は身体を締めて見せる。
そういう実用性もある。
しかし、それだけではない。
黒には距離がある。
黒には沈黙がある。
黒には拒絶がある。
黒には守りがある。
同時に、黒には強さがある。
だから黒を選ぶ時、人は単に色を選んでいるだけではない。
自分が世界とどれくらい距離を取りたいのかを選んでいる。
あるいは、自分のどの部分を隠し、どの部分を濃く見せたいのかを選んでいる。
服は、身体の上に乗る。
しかし実際には、身体だけではなく、自己認識の上にも乗ってくる。
だから厄介である。
3. 高い服ほど、逃げ道がない
安い服なら、なんとなく買ったで済む。
安かったから。
必要だったから。
とりあえず使えそうだったから。
セールだったから。
失敗しても痛くないから。
そう言える。
しかし高い服は違う。
高い服は、こちらに説明を求めてくる。
なぜそれを買うのか。
なぜそのブランドなのか。
なぜその色なのか。
なぜそのシルエットなのか。
なぜそこまで払うのか。
なぜ似たような服では駄目なのか。
なぜ今なのか。
こういう問いが、かなり容赦なく出てくる。
だから高い服は怖い。
財布に痛いだけではない。
自分の言い訳を壊してくる。
安い服なら、失敗してもまあいいかで済む。
高い服は、そうはいかない。
自分がその服に惹かれている理由を、自分で理解していないと落ち着かない。
ラグジュアリーとは、単に価格が高いことではない。
その価格を払う自分を、どう説明するかの問題でもある。
ここで自己分析が始まる。
本当に欲しいのか。
それとも、欲しい人間に見られたいのか。
そのブランドが好きなのか。
それとも、そのブランドを着ている自分が好きなのか。
服が欲しいのか。
服によって補強される自分が欲しいのか。
かなり嫌な問いである。
しかし、そこがファッションの面白さでもある。
4. Yohji Yamamotoと黒
Yohji Yamamotoの黒に惹かれる時、それは単なる色の好みではない。
もちろん、黒は美しい。
シルエットを強く見せる。
布の揺れを際立たせる。
身体の輪郭を曖昧にする。
光の当たり方で表情が変わる。
しかし、Yohji Yamamotoの黒は、ただ便利な黒ではない。
それは、社会に対する距離の取り方でもある。
黒は隠す。
黒は守る。
黒は拒む。
黒は沈黙する。
黒は周囲に溶けるようで、同時に強く立ち上がる。
黒は情報を減らす。
しかし、存在感まで消すわけではない。
むしろ、余計な情報を削ることで、身体や布の動きが残る。
この黒に惹かれるということは、自分の中にも何かしらの距離感があるということだと思う。
分かりやすく愛想よくしたいわけではない。
派手に説明したいわけでもない。
でも、完全に消えたいわけでもない。
静かにいたい。
しかし弱く見られたいわけではない。
社会の中にいる。
でも、少しだけ外側にも立っていたい。
黒には、そういう矛盾を引き受ける余白がある。
だから、黒を選ぶことは自己分析になる。
何を隠したいのか。
何から守りたいのか。
何を拒みたいのか。
どれくらいの距離で人と関わりたいのか。
Yohji Yamamotoの黒は、服の話であると同時に、生き方の話でもある。
5. 服飾学校に入って、余計に分からなくなる
服飾学校に入れば、服のことが分かるようになると思っていた。
もちろん、分かることは増える。
素材。
縫製。
パターン。
シルエット。
仕様。
歴史。
身体。
用途。
価格。
服を構成する要素が、少しずつ見えてくる。
しかし、見えるものが増えるほど、逆に分からなくなることも増える。
服が好きというだけでは済まなくなる。
なぜその素材なのか。
なぜその縫い方なのか。
なぜその分量なのか。
なぜその丈なのか。
なぜその色なのか。
なぜその価格なのか。
なぜその服に惹かれるのか。
服がどんどん分解される。
そして、服が分解されるほど、自分の好みも分解される。
私はなぜ、この形に惹かれるのか。
なぜ、このブランドを見てしまうのか。
なぜ、同じような黒い服を何度も見てしまうのか。
なぜ、装飾より余白に惹かれるのか。
なぜ、分かりやすい服より、少し説明しにくい服に惹かれるのか。
服飾学校に入って感じるのは、服を学ぶほど、服が単純ではなくなるということだ。
そして、服が単純ではなくなるほど、自分も単純ではなくなる。
好きだから好き、で済ませられなくなる。
それは少し面倒である。
でも、かなり面白い。
以前、41歳で服飾専門学校に入った理由については、この記事に書いた。
▶ なぜ41歳で服飾専門学校へ入学したのか
今はそこからさらに、服を作る以前に、なぜ人は服にここまで意味を与えるのか、という問いの方へ進んでいる。
6. AI時代に、似合うだけでは足りない
AIでスタイル画像はいくらでも作れる。
こういう服が似合いそう。
こういう組み合わせが良さそう。
この体型ならこう。
この雰囲気ならこう。
こうした提案は、今後ますます簡単になる。
画像生成もできる。
コーディネート提案もできる。
ブランド比較もできる。
似合いそうな服を探すこと自体は、かなり効率化されていく。
しかし、ここで問題が残る。
似合う服を提示されても、それを着て生きる理由までは決まらない。
AIは似合いそうな服を出せる。
しかし、その服を着た自分が、どんな時間を生きたいのかまでは決められない。
実際に服を着るのは、自分の身体である。
その服で歩く。
人に会う。
仕事をする。
食事をする。
疲れる。
汗をかく。
皺が入る。
汚れる。
気分が変わる。
AIが作った画像は、そういう時間をまだ通過していない。
だから、AI時代に服の意味はなくなるのではなく、むしろ別の方向へ深くなると思っている。
見た目の提案が簡単になるほど、なぜそれを着るのかが問われる。
似合うかどうかだけでは足りない。
自分が何を信じ、何を拒み、どんな距離で世界と関わりたいのか。
そこまで含めて、服を選ぶ必要が出てくる。
この話は、以前書いたAI時代のファッション論にもつながっている。
▶ AI時代に、ファッションは何を作るのか
AIで画像やスタイルが作れる時代だからこそ、服は画像ではなく、身体と時間の問題として立ち上がってくる。
7. 消費から編集へ
以前は、服を欲しいかどうかで見ていた。
今欲しい。
かっこいい。
安くなっている。
使えそう。
合わせやすそう。
気分が上がりそう。
そういう理由で買っていた。
それが悪いわけではない。
消費には瞬発力がある。
その場の気分で買う楽しさもある。
偶然の出会いもある。
でも最近は、それだけでは買いにくくなってきた。
この服は、この先の時間まで含めて欲しいのか。
この服を何年後も着るのか。
修理してでも使うのか。
着込んだ後の姿まで好きでいられるのか。
自分の生活に本当に入ってくるのか。
そういうことを考えるようになった。
服を買うことは、自分の未来を少し編集することに近い。
買うということは、その服がある未来を選ぶことである。
クローゼットの中に残る。
朝、それを選ぶ可能性が生まれる。
その服に合わせて、他の服も変わる。
行く場所も変わる。
立ち方も変わる。
気分も変わる。
服は、買った瞬間だけで終わらない。
その後の自分の時間に入り込んでくる。
だから、服を買うとは、未来の自分を少し編集する行為である。
消費とは、今欲しいかである。
編集とは、この先の時間まで含めて選ぶことである。
この違いを考えるようになってから、服を見る目が少し変わった。
8. 所有と時間
服は買って終わりではない。
着る。
汚れる。
直す。
馴染む。
飽きる。
また着る。
手放す。
誰かに渡る。
その時間まで含めて服である。
新品の状態だけが服ではない。
むしろ、服は使われることでその人のものになっていく。
革が柔らかくなる。
布が身体に馴染む。
皺が入る。
色が落ちる。
擦れる。
修理跡が残る。
そういう変化には、その人がその服と過ごした時間が出る。
patinaとは、単なる劣化ではない。
時間が表面に現れたものである。
服が自己分析になるのは、買う瞬間だけではない。
所有し続ける中でも、自分が出る。
大事にするのか。
雑に扱うのか。
修理するのか。
すぐ手放すのか。
飽きても残すのか。
新しいものに入れ替えるのか。
どんな服を残し、どんな服を手放すのか。
そこにも、自分の価値観が出る。
Byakuyaで考えていることも、ここにつながっている。
所有を、購入の瞬間だけで捉えない。
誰が買ったかだけではなく、どう使われ、どう修理され、どう受け継がれたのかを考える。
所有とは、権利だけではなく、時間の積み重ねである。
▶ なぜByakuyaが必要だと思ったのか
服は、自己表現である前に、自己との長期契約なのかもしれない。
買った時の自分だけではなく、未来の自分にも残る。
そこが怖い。
そして、面白い。
9. 服は自分と世界の距離を決める
ファッションは、自己表現だと言われる。
それは間違っていない。
ただ、最近は自己表現という言葉だけでは少し足りない気がしている。
服は、表現するためだけのものではない。
守るためのものでもある。
隠すためのものでもある。
近づくためのものでもある。
距離を取るためのものでもある。
制服は、個人を役割の中に入れる。
スーツは、身体を社会に接続する。
ラグジュアリーは、階級や欲望を可視化する。
黒い服は、情報を減らしながら存在を濃くする。
ストリートの服は、所属や反抗を示す。
服は、世界との距離を調整するレイヤーである。
近づきたい時の服がある。
隠れたい時の服がある。
強く見せたい時の服がある。
何者でもないように見せたい時の服がある。
分かる人にだけ分かればいい服がある。
誰にも説明したくない服がある。
この距離感に、自分が出る。
自分はどこまで見せたいのか。
どこから先は隠したいのか。
誰に分かってほしいのか。
誰には分かられたくないのか。
服は、そこをかなり正直に出してくる。
以前、服がただの布なのに人間を支配しすぎている、という話も書いた。
▶ 41歳で大阪文化入ったけど、最近「服って布のくせに人間支配しすぎやろ」って思ってる
今回の話は、その続きでもある。
服は人間を支配する。
ただし、その支配は外側から来るだけではない。
自分の内側にある欲望や不安が、服を通して形になってしまう。
だから、服は怖い。
10. 人間っぽさは、効率の外側に残る
服を選ぶ行為は、かなり非効率である。
似合うかどうか悩む。
サイズで迷う。
価格で迷う。
ブランドで迷う。
自分に必要なのか分からなくなる。
試着して、違うと思う。
買って、失敗する。
手放して、また似たようなものを探す。
かなり面倒である。
AIやレコメンドが発達すれば、この面倒はある程度減るかもしれない。
しかし、面倒が完全になくなると、何かも失われる気がしている。
人間は、効率だけで服を選んでいるわけではない。
迷うこと。
触ること。
試すこと。
違和感を持つこと。
なぜ惹かれるのか分からないまま見続けること。
買った後に、自分の中で意味が変わっていくこと。
そういう非効率な過程の中で、自分の輪郭が少しずつ見えてくる。
以前、モバイルオーダーに感じる違和感について書いた時も、近いことを考えていた。
効率化されるほど、人は逆に関係の痕跡や人間的な余白を求めるのではないか、という話である。
▶ モバイルオーダーに感じる違和感
服も同じである。
最短で似合う服を提示されることと、自分がその服にたどり着くことは違う。
効率よく正解を出すことと、その正解を自分のものとして生きることは違う。
ファッションの面白さは、たぶんその非効率の中にある。
11. ファッションは自己分析である
ファッションとは自己分析である。
ただし、これはメンタル系の自己分析とは少し違う。
性格診断をするような話ではない。
自分の強みを見つける話でもない。
もっと身体的で、消費的で、現実的で、時にかなり痛い自己分析である。
お金を払う。
身体に乗せる。
他人に見られる。
生活に入れる。
時間を通過させる。
その中で、自分が何を選び、何を拒み、何に耐えられず、何を残したいのかが見えてくる。
服を選ぶことは、似合う服を探す行為ではない。
それだけなら、診断やAIでかなりできるようになる。
本当に厄介なのは、その先である。
自分は何を信じたいのか。
何を拒みたいのか。
どんな距離で世界と関わりたいのか。
どんな時間を生きたいのか。
どんな自分なら、少し納得できるのか。
ファッション、結局どう生きたいか問題すぎる。
だからこそ、面白い。
服は軽い。
でも、軽くない。
たかが布である。
でも、その布を選ぶたびに、自分の欲望、不安、距離感、美意識、時間の使い方が出てしまう。
ファッションは、似合う服を探す行為ではなく、自分が何を信じ、何を拒み、どんな時間を生きたいのかを探る行為である。
服を買っているようで、自分を見ている。
服を選んでいるようで、生き方の輪郭を少しずつ選んでいる。
そう考えると、ファッションは怖い。
そして、やっぱり面白い。
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