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レニ・リーフェンシュタール監督 『民族の祭典』『美の祭典』・ベルリンオリンピック二部作 : 美の虐殺責任

映画評:レニ・リーフェンシュタール監督『オリンピア』二部作(1938年/ドイツ映画)

プロパガンダ映画として名高い作品である。『オリンピア』二部作として製作され、日本では、サブタイトルの訳題として第一部と第二部がそれぞれ民族の祭典』『美の祭典のタイトルで公開され、こちらの名称の方が有名だ。

それぞれの内容はというと、おおよそ次のようなものである。

『男性的な陸上編。
躍動する若者の像、この回からはじまった聖火リレーは数万の観客がどよめく51か国選手の開会式へ。
ドイツが国家の威信を賭け、記録映画の先駆者リーフェンシュタール女史はダイナミックな映像表現を駆使して、すべてを一瞬に賭ける若者たちが織りなす栄光と名誉の競技を記録する。
クライマックスはマラソン。走る、したたる汗をぬぐう腕、大地を蹴る足。
孫(現韓国籍)が優勝、日の丸がはためき「君が代」が流れる。』

(IVC版DVD『民族の祭典』のケース裏面紹介文)

(日本統治下の朝鮮半島出身のマラソン選手・孫基禎

『流動美の第2部。日本は金メダルを合計7つも取った大奮闘ぶり。
「民族の祭典」とは対照的に、死力をつくす若者たちの白熱のつばぜりあいを躍動の視点からとらえる。
水上競技、飛び込み、ヨット、体操、ピストル、クロス・カントリー、ホッケー、ポロ、サッカー、自転車、馬術、漕艇、一部の陸上決勝と閉会式。男子200m競泳で葉室優勝。
閉会式の夜空に浮かぶスタジアム。編集に2年近くを費やし、ショットの積み重ねが見事な迫力を生む。』

(IVC版DVD『美の祭典』のケース裏面紹介文)

葉室鉄夫
(馬術競技に出場した、1932年のロスオリンピックのチャンピオン西 竹一は、終戦を目前にした「硫黄島の戦い」で1945年に戦死することになる。映画『硫黄島からの手紙』でも、好漢として登場する)

要は、ベルリンオリンピックの公式ドキュメンタリー映画である。

だが、このような作品が、どうして「プロパガンダ映画」だと言われるのかといえば、内容的に自国ドイツの活躍に偏っているから、というわけではない。
そんなことなら、どこの国でも、公式映画やテレビ番組で、いつもやっていることでしかない。

では、競技の判定にインチキでもあったということなのか?
一一どうやら、そういうことでもなさそうだ。私が見たかぎりでも、ドイツがやたらに勝ちまくっているという印象はなく、むしろドイツが活躍した競技を中心に紹介するという、これまたどこの国でも、いつもやっていることを、やっているだけにすぎない。

実際、第一部の『民族の祭典』の方では、貴賓席で観戦するアドルフ・ヒトラー首相(当時)の様子がしばしば映されるが、ドイツ選手が負けて悔しがる姿なども含まれている。
無論、開催国のトップの様子が映されているからと言って、それをして「プロパガンダ映画」と呼ぶのは、根拠として弱すぎる。

では、どうして「プロパガンダ映画」だと呼ばれるのだろうか?

まず『民族の祭典』の方に明らかなことなのだが、競技内容を紹介している部分については、特別「プロパガンダ映画」だというわけではない
その点で本作を「プロパガンダ映画」と呼ぶのなら、他の国のそれもすべて、そう呼ぶべきものだというのは、前記のとおりである。

したがって、問題となるのは、たぶん本編の競技内容の紹介部分ではなく、その前の「オープニング映像」なのだ。
これが、わかりやすくアーリア・ドイツ民族」の美しさと優秀さという、ナチスドイツの「人種思想」を表現したものとなっているためであろう。

無論それが、当時のドイツの「流行思想」であり、それに共感し、その美意識を支持していたリーフェンシュタール監督が、それに沿って『民族の祭典』のオープニング映像を撮ったということになるのだから、ある意味では、当時のドイツの流行を追っただけとも言えないことはないのだが、しかしそれが、人種的な偏見に基づく「思想」の表現であり、その思想を称揚する作品なのであれば、これは、ナチスの思想であろうとなかろうと、「プロパガンダ映画」と呼ばれてしかるべきところでもあろう。

リーフェンシュタール監督本人としては、単に「自分の美意識にそって作った作品」であり「自身の美を表現した作品」だということになるのかも知れない。
だが、問題は、その「美意識」が「人種的な偏見」に由来するものであり、単なる「個人的な美意識」とは言い難いもの、あるいは「個人的な美意識」では済まされない(社会的な)もの、だったのだ。

『民族の祭典』のオープニング映像を、可能なかぎり簡単に紹介しておこう。

・ 作品タイトル
・ 近代オリンピックの創始者クーベルタンへの献辞
・「世界の若人たちの名誉と栄光のために」という献辞
・「製作 レニ・リーフェンシュタール」以下のスタッフロール

以下、オープニングのイメージ映像

・ ギリシャ神殿の風景
・ ギリシャの美を体現した人体彫刻の映像
・ 円盤投げ男性の彫刻が、人間男性とオーバラップして、人間男性の映像に切り替わり、その男性が円盤を投げる。
・ 別の、砲丸投げ、槍投げなどの男性の姿が続く。男性たちは、ギリシャの彫刻と同じく、腰布だけの美しい半裸体。
・ 女性たちの踊る姿が映される。女性も上半身は裸体。
・ 聖火から松明に火を移して走り出す男性
・ 聖火リレーの様子
・ ギリシャから、ハンガリーやオーストリアなどを経て、聖火がベルリンへと届く。

そしてここからが、オリンピックの開幕式のドキュメンタリー映像ということになる。

上に紹介したとおりで、このオープニングは、一応のところ「世界の若者」という建前を堅持してはいるものの、ギリシャとドイツとの「肉体美」における関連性を示唆している。そして、この関連こそが「アーリア人種の優越」説によるものなのだ。
ナチスが言うところの「アーリア民族」というのは、北方ゲルマン民族の末裔であり、その点で、ギリシャとドイツは祖先を同じくしている、というわけである。

ちなみに、この「アーリア人種」「北方ゲルマン民族」というのは、あくまでも、当時の一部ドイツ人のための、願望充足的な「仮説」であって、「学説」ではない
そもそも「人種」なるものは、いまや学問的には否定されている

「人種」なる「区分」など論理的にはあり得ず、当然のこと、すべての民族間には混血的な中間(グラデーション)が存在して、どこで「民族の線引き」をするかは、必ず恣意的なもの(思想的なもの)とならざるを得ないためである。

したがって、本作が「プロパガンダ映画」だとされるのは、ナチスの政治思想というよりは、ナチスが称揚した「人種差別的な思想」の宣伝になっているからなのであろう。
それは単に「ドイツ人は素晴らしい」と言っているだけではなく、「ドイツ人は、他のすべての民族に優れて、肉体的に美しく、優れてもいる」という「差別思想」なのだ。
そして「ゆえに我々は、選ばれた支配民族なのだ。そうでなければ人類は滅ぶ」と考えられたのである。

無論「日本は素晴らしい」も「日本人は優秀だ」というのも、厳密に言えば「差別思想」である。
なぜなら、他国や他民族との比較なしに、我々は優秀だもヘチマもないからである。

ただし、個人でも国家でも、自分に自信を持つということまでは、否定することはできない。
それが「客観的な事実」ではなかったとしても、やはり人間は、ある程度の自信なしには生きていけないからである。

だから「日本は素晴らしい」も「日本人は優秀だ」も、そこまでなら許される。
他国や他国民と比較して「客観的に優れている」と言わないかぎり、まあお互い様で、勝手に国内で内々で言っている分には、許されているのである。

で、そうした観点からいうと『民族の祭典』のオープニング映像は、微妙なのだ。

露骨には語っていないが、映像によって暗示的に語られているのは明らかであり、まして、リーフェンシュタールが、ナチスの宣伝ドキュメンタリー映画『信念の勝利』(1933年)と『意志の勝利』(1935年)を撮って、それがヒトラーに高く評価されたおかげで、ベルリンオリンピックの公式映画の監督にも抜擢され、さらに「彼女の望むとおりに、便宜を図って撮らせてやれ」と、ヒトラーから直々のお達しがなされて作られた映画(『オリンピア』とあらば、戦後、ナチスによるユダヤ人虐殺の事実を知った人たちにとっては、リーフェンシュタールは明らかに、ナチスの人種思想の支持者であり、ナチスから利益を得ていた人であり、その点で明らかにナチスの協力者だったのだから、彼女のナチ関連の仕事は、ナチスのプロパガンダ映画『信念の勝利』『意志の勝利』の2作だけではなく、本作『オリンピア』二部作も当然「ナチ協力映画」であり、その意味で「プロパガンダ映画」だというのは明らかだと、そうなるのも当然のことだからである。

だが、それでも『オリンピア』二部作の評価というか、レニ・リーフェンシュタールという映像作家に対する世間の評価は、二分されるところがあった。

なぜなら、彼女が、ナチスの支持者であり、彼女の作品が「プロパガンダ」性のあるものだとまで認めたとしても、それでも彼女の「作家的力量=芸術的な才能」は明らかで、それを、その「思想」において、完全に葬ってしまっても良いのか、という疑問が湧くし、「才能と思想は、分けて考えるべきだ」という立場も、当然出てくるからである。

例えば、少年を何人もなぶり殺しにした、少年愛性癖のある殺人鬼に、芸術的な才能があって、彼の描いた「少年の裸体画」が、とても美しいものだったとしたら、私たちは、その作品を、作者から切り離して「素晴らしい」「美しい」と評価すべきなのだろうか?

仮にそうだとすれば、その殺人鬼の彼は、その絵を売って金儲けをすることも、名声を得ることも、あるいは、その才能を惜しまれて、死刑を免れるということも、「あり」なのだろうか?

このように考えていくと、たしかに「才能と思想」は、「分けて考えるべき」ではあるのだが、現実にはそれは「分けられない」というところが、問題なのだ。

一一そしてこれは、近年問題となっている「キャンセルカルチャー」の問題にも通じてくるのである。

何か「犯罪」なり「反道徳行為」なりを為した者は、法的あるいは社会的な「処罰」を受けるべき、なのだろうか?

こう問えば、多くの人は「そりゃあ、適切に処罰されるべきだろう」と、そう考えるのだが、ここでも問題は「処罰すべきか否か」という二者択一的な二分法では、現実には済まないところである。

つまり、「法的に規定された犯罪」は罰せられるとしても、それには満たない「非倫理的な行動」を罰する場合、どこまでを罰するのか、注意警告に止めるのか、批判して本人の自覚反省に任せるのか、あるいは、特に何もしないで容認するのかといった、その対応に必要な「線引き」は、誰がどのような価値観において、それをする「権利」を有するのか、といった難しい問題があるからである。

当然、そうした「処罰基準決定権」みたいなものを保証されている個人など(民主主義社会においては)存在しない。
だからこそ、民主的な手続きを経て法律が制定されて、その下での断罪処罰が行われてきたのである。

だがまた、それだけでは十分ではない、というのも明らかななのだ。
だから、だからこそ、「作家的力量と思想は、区別して考えるべき」という、一見「当たり前」に思える問題は、決して一筋縄では済まされない難問となっているのである。

そもそも「芸術的才能」の有無によって、人を差別しても良いのかと問えば、当然「良くない」というのは明らかなのだが、現実に私たちは、才能の有無によって、人を差別している

ではなぜ、そこまで「芸術的な才能」というものが珍重されるのかと言えば、それは私たちに「快楽」を与えてくれるからであり、そのため、そうした「快楽提供的な才能=芸術的な才能」は、「優れた商品」にもなるためである。

閑話休題。
ここで話をレニ・リーフェンシュタール戻すと、彼女の映像作家としての才能は、まったくのところ、否定し難いものである。

それは『オリンピア』第一部の『民族の祭典』の本編である「競技内容の紹介」部分ではわかりにくいし、前述のオープニング映像でも、十分に伝わりやすいとは言えない。

むしろ、彼女の映像作家としての力量は、第二部の『美の祭典』の方で、数倍もよく表現されていると言って良いだろう。
それくらい『美の祭典』は、映像作品として素晴らしい。

一般に『民族の祭典』の方が有名なのは、無論そちらが「第一部」だからということもあろうが、最大の理由は、ヒトラーが登場しているからであろう。

なぜ、リーフェンシュタールの映像作家としての才能は、『民族の祭典』よりも『美の祭典』の方で、よりハッキリと表現されているのか?
一一その理由は、わりあい明らかである。

リーフェンシュタールの「美」とは、抽象的なものではなく、「具象の美しさ」であり、見ればわかる「美しさ」にある。要は、今でいう「ルッキズム」の一種である。

そして彼女は、その「美しいものを、美しいかたちで切り取ることにより、その対象の持つ美しさを際立たせる」ところの才能を持っていた。
だから、リーフェンシュタール『オリンピア』で描きたかった「美的対象」とは、端的に「人間の磨き上げられた肉体美と、その躍動」ということだった。

そのため、『オリンピア』において一貫しているのは、オリンピック選手の鍛え上げられた美しい肉体を、じっくり見せるための「スローモーションの多用」ということだった。

(リーフェンシュタールの好みとして「仰角の多用」ということもある。これは、天や偉大なる山嶺を見上げる際の「崇高」感覚に由来するものではないだろうか)

自然速度で見せたのでは、肉体の一瞬一瞬の躍動を捉えることが、常人の目には十分には出来ないからである。
だから、リーフェンシュタールは、肉体を「アップ」で捉え、それを「スローモーション」でじっくりと見せたいのだ。

ところが、第一部の『民族の祭典』では、陸上競技が中心に紹介されており、そうした競技において、一般の興味の中心となるのは、「肉体美」ではなく、「勝敗」であり「記録(数値)」ということになってしまう。

つまり、短距離走でも長距離走でも、まず問題のなるのは、ライバルたちとの勝敗であるから、個人を切り取り、それをずっと映しているというわけにはいかず、複数人による競い合いを見せることになる。その複数人による「勝負」が問題だからだ。
したがって、この場合、個人の肉体の躍動をじっくり見せるというわけにはいかない。また、スローモーションなど、入れても邪魔なだけなのだ。

その結果どうなるのかというと、当たり前の競技映像と大差のない「試合を見せるための、フラットな映像」となってしまい、リーフェンシュタールお得意の「凝った構図」は抑制されることになるのである。

そうした事情から『民族の祭典』は、オリンピックの公式映画としては、「わりと普通(当たり前)」という印象を与える仕上がりとなっているのだ。

また、同様の理由からであろう、『民族の祭典』の特徴は、『美の祭典』に比べると、格段に「応援する人々」の様子を映すカットが多い。
これは、『民族の祭典』に求められたのが、「民族の勝利」ということだったからであろう。
個人の「美しさ」よりも、民族の「勝利=強さ」ということの表現が求められたからこそ、『民族の祭典』は、意外に普通な記録映画になったのである。

したがって、言い換えれば、『美の祭典』の方は、「勝ち負け」よりも「美しさ」を重視する競技を中心に描いたからこそ、リーフェンシュタールの本領が発揮された
その典型的な競技が、「体操」「馬術」「飛び込み」などであり、「馬術」の場合は、馬の躍動美が表現されており、またそこが陸上競技にも似た「勝負」こそが問題となる、「競馬」との違いだとも言えよう。

(『士官が参加』と言うところが興味深い。民間人は参加していないという意味か?)

無論、「体操」や「飛び込み」とて、実際には、その美や技を「数値化する」ことで競技化されているわけなのだが、もはやこの第二部『美の祭典』においては、「体操」や「飛び込み」のような「美を競う」競技においては、得点や順位などは紹介されることもなく、ひたすらその「躍動する美しい肉体」が、凝ったアングルで次々と紹介されていく
そして、これらの映像こそが、映像作家レニ・リーフェンシュタールの本領であったことは、一見して明らかなのである。

ちなみに、当然のことだが、そうした第二部『美の祭典』においても、「勝負」や「順位」や「記録(数値)」の紹介がなされる競技も扱われている。
だが、それでも第一部『民族の祭典』て扱われた陸上競技に比べれば、映像に凝っているとは言えるだろう。

そうした意味では、陸上競技というのは、個人の美意識など立ち入らせる余地のない、良くも悪くも運動機能のみに徹した、ストイックな競技だと言えるのかもしれない。なにしろ、コンマ0秒(以下)を競うような世界だからである。

ともあれ、そんなわけで、リーフェンシュタールの作家性がよく現れた第二部『美の祭典』だったとは言え、それでも「ナチス・イデオロギーのプロパガンダ映画」と言って良いのは、やはりそのオープニング映像には、「ナチスのイデオロギー」が意識的に込められているからである。

その内容を紹介しておくと、一一タイトルを含むスタッフロールの後、競技が紹介されるまでのオープニング映像は、次のような「イメージ映像」なのだ。

・ 自然豊かな森、そこには虫や鳥などの豊かな生命が息づいている。
・ 朝靄に包まれたの中をランニングする、ドイツのアスリートたち。
・ ランニングを終えてサウナに入り、その後、横の池で水遊び。

(ここまでが、たぶん後撮りのイメージ映像)
(ここからが選手村のドキュメンタリー映像)
(宿舎でリラックスした様子の日本選手たち)

つまり、ここには「北方ゲルマン民族」以来の伝統である、自然への傾倒、「黒い森」への愛着の思想、つまり「血と土」の思想が語られているのである。
そしてそれが、「我々の優れた血は、その母たる土地を、決して放棄するものではない」という意識にもつながっていく、危険な思想だったのだ。

ちなみに、このあとは、選手村での各国選手団の様子がドキュメンタリー映像で紹介されるのだが、そこで最初に登場するのがイタリアの選手であり、その次が日本の選手だというのは、決して偶然ではないはずだ。

ベルリンオリンピックが行われたのは1936年であり、当然、第二次世界大戦は始まっておらず、だからこそこの映画には、参加国として、アメリカやイギリス、フランスなども登場して、活躍しもする。

(ロードレースは、フランス人選手の優勝。
しかし、このパートで注目すべきは、いかにも映画的な映像編集がなされている点だろう。特に最後の正面斜め上からのカットは、後方に流れる街路樹の仰角カットからオーバラップする)

一方、「日独伊三国同盟」が締結されるのは、戦争が始まってからの、つまり、ドイツがポーランドに電撃戦をしかけた1939年の開戦翌年の1940年のことだから、ベルリンオリンピック当時は、イタリアも日本も、まだドイツの同盟国ではなかった。

だが、本作『オリンピア』が完成して公開されたのは、オリンピックから2年後の1938年であり、開戦の前年、三国同盟の前々年なのだから、その頃にはすでに、日本とイタリアはドイツに接近しており、そのあたりの事情の反映された結果だと見て、まず間違いないだろう。

近代五種の運営は軍人がやっているようで、役員は全員軍服である。当然ドイツの選手は軍服で、外国の選手も大半は軍服だが、稀にそうではない国もあったようだ)
(標的が「人型」というところが時代を感じさせる)
(最後の競走は、さすがに軍服ではない)
(ドイツの優勝に喜ぶ子供たち。彼らの中にはヒトラーユーゲントもいただろう)

したがって、上のような意味でも、本作『オリンピア』は、単に「個人的な美」を描いた作品でもなければ、「ドイツ人の美と強さ」を描いただけの作品でも、決してない。
そこには明らかに「人種差別」的な思想と「政治的な意図」が秘められていたのである。

レニ・リーフェンシュタールは、その優れた芸術的才能は一貫して認められながらも、明白な「ナチ協力者」として、戦後もその「評価」において毀誉褒貶のあった人物だ。

だが、そんな彼女についてひとつ言えることは、「才能と思想は、区別して考えるべき」だというのは、ひとつの「考え方」としては正しいとしても、実際には「才能と思想」は一人の人間の中で一体のものとして存在しており、線引きして区分するわけにはいかない、という事実だ。
だから、「その人物」の処遇を考える場合には、分けて評価するだけでは済まない、のである。

実際、レニ・リーフェンシュタールが戦後において、もっと真摯に、みずからのナチ加担についての反省を口にしておれば、名誉回復も為され得たのではないかと私は考える。
だが、彼女はそれに積極的ではなかったようだし、それはたぶん、彼女自身の「美意識と力量」に対する確たる「自負」に由来するものだったのであろう。

つまり、才能豊かな彼女にすれば、そんな「美のなんたるかを理解しない、劣った思想」に妥協するわけにはいかない、ということだったのではないだろうか。

だがまた、そこには、「才能のある者」は特別扱いされて当然だという「差別意識」がぬきがたく生きていた、ということではないだろうか。

その意味で、レニ・リーフェンシュタールという人は、時代の流行思想に迎合してナチスに加担したのではなく、彼女自身の思想が、元からナチ的に「エリート主義」的なものであり、「優劣による差別は当然」とする人だったのであろう。

しかしまたそれでも、私たちは「美の快楽」を求めるし、そうした「美の価値」のゆえに、優れた作家を、その「美的才能」のゆえに特別扱いし、延命させようともする。

だが、そもそも「美」や「快楽」というものは、「善」や「正義」といった「倫理的価値観」とは、まったく別物だということを、私たちは肝に銘ずるべきであろう。

「美」は醜いものを排除しようとするものだが、私たちの大半は、決して「美」ではない
平たく言えば、「美男美女」でもなければ「特別な才能」も持たない、凡庸な存在なのである。

だとすれば、「美と快楽」の原則に従って、そんな「いてもいなくても困らないもの」なら「断捨離」して、ミニマムかつ純粋な美を実現しようという「美意識」による、処分・廃棄の対象になっても、なんら不思議ではないのだ。

自分の「美的快楽」を無条件に肯定するならば、その快楽原則によって、ほかならぬ自分自身が廃棄の対象となっても、なんの不思議もないのだと、そう気づき得る程度の知性は、是非とも必要だろう。

なぜなら、それさえ無いような人間は「不必要」だと、彼らは美的かつ論理的に、そう判断するからである。

【以下は、第二部『美の祭典』のエンディング】

下の競技場に、上の鐘がオーバーラップする)
(中央は聖火台と思われる。その向こうに競技場のサーチライトが見える)
(聖火台の火が消えていく。なお、これは明らかに撮影用の模型)
(オリンピックの閉幕式をイメージさせる参加国の旗)
(聖火台の火が消えてゆき、黒い煙が立ち昇る)
(煙を追って、カメラはティルトアップする)
(サーチライトの光は、中天でひとつに結ぶ)
(「天の光」という崇高なイメージで幕を閉じる)


(2025年10月2日)


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