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横山茂雄 『聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム』 : これは私たちの物語である。

書評:横山茂雄聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム』(書肆風の薔薇→創元社)

本書『聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム』(以下『聖別された肉体』と略記)の初版は1990年に「書肆風の薔薇」(現・水声社)から刊行され、長らく入手難だったものが、2020年に「創元社」から増補版として刊行された。

私の場合は、初版を刊行当時に購いながら、積読の山に埋もれさせ、一昨年(2023年)本書の著者・横山茂雄が共著者として参加している 『コンスピリチュアリティ入門 スピリチュアルな人は陰謀論を信じやすいか』 を読んで、いよいよ本書を読まなければという思いを強め、本書の『増補版』と、併せて同著者の『神の聖なる天使たち ジョン・ディーの精霊召喚一五八一〜一六〇七』を贖った。一一だが、この2冊もまた、積読の山に埋もれさせてしまった。

そんなわけで、今回読んだのは、この後に入手した、『聖別された肉体』の初版本である。まったく、何をしていることやらだ…。

Amazonの『増補版』の方のカスタマーレビューで、レビュアーの「侘助」氏が、

ナチでオカルトだけど極めて真面目な研究書。

と書かれており、またレビュアー「Amazonカスタマー」氏が、

ナチズム、人種主義、そしてオカルティズムとの関連を本邦で初めて(かつ、おそらくいまだ唯一)詳らかにした名著。

と書かれているとおりで、本書は歴とした「学術研究書」である。

今でこそ、ナチ(複数形がナチス)とオカルトのつながりは有名であり、関連する学術書も、多数とは言わないまでも、多少は刊行されている。
だが、本書が刊行された当時は、「ナチのオカルト」と言えば、まだまだ「キワモノ」扱いされるテーマであり、サブカルチャーにおけるガジェットのひとつに近い扱いを受けていた。

例えば、今ならミステリ作家・江戸川乱歩を大学の卒論のテーマに選んでも、まったく問題はない。それどころか、乱歩を研究している大学の先生も何人かはいるだろう。
だが、本書初版の刊行された1,990年ごろまでなら、まだまだ江戸川乱歩のような「通俗作家は、文学研究の対象ではない」とか考えられていたから、卒論の対象にもならなかった。
ましてや、「ナチのオカルト思想」の研究など、「学問」ではなく「趣味」の対象だとされていたのだが、そんな時代に本書著者は、確たる信念を持ってそのテーマに挑んだのだ。

そして、その真摯な探究心は、巻末の「参考文献」に明らかであろう。
邦訳などない、「キワモノ」扱いにされてきた膨大な一次資料(文献)を、真摯に読み込むことで、著者は「ナチのオカルト」という問題に、ただひとり真正面から挑んだのである。

だが、その真摯かつ野心的な試みは、一般的な評価を受けたとは言いがたかった。やはり、時代に先駆けすぎた研究だったのである。
本書著者の問題意識は、世間の「常識」的な感覚に、数十年先んじていたのだ。

その頃の、いや今でも大差のないであろう「世間の感覚」を、わかりやすく示しているものとしては、例えば、オタクな映画監督として知られるギレルモ・デル・トロが撮った、アメコミを原作とした、SFアクション映画『ヘルボーイ』(2004年)がある。

同作は、冒頭からナチがらみのオカルトシーンから始まる。
ナチとつながりのあったオカルト組織「トゥーレ協会」の会長にしてナチ親衛隊の軍人のクロエネンが、ヒトラーの命を受けた「ラグナロク計画」のために、ロシアの魔導士ラスプーチンの力を借り、世界の終末を招く「地獄の門」を開く鍵となる悪魔を召喚しようとするが、その儀式の最中に、連合国軍の攻撃を受けて召喚の儀式を失敗して、まだ幼形であったその悪魔を、連合国軍に連れ去られてしまう。それが、後の「ヘルボーイ」だという展開である。

(クロエネン中佐・『聖別された肉体』初版の表紙の毒ガス用マスクに似た仮面をつけている)

本書『聖別された肉体』を読んだ後だと、『ヘルボーイ』のこの発端シーンは、ずいぶん「やりたい放題」だなという印象を受けるのだが、エンタメのフィクションであれば、まあこの程度のことは仕方がないだろう。
だが、こうしたフィクション作品がたくさん作られてしまったがために、「ナチのオカルト」ネタと言えば「キワモノ」だというイメージが、すっかり定着してしまい、真面目な研究の対象にはなりにくかったのである。

私の場合、本書『聖別された肉体』に興味を持ったのは、子供の頃に戦車のプラモデル作りが好きで、その中でもドイツ軍の戦車や制服が飛び抜けてカッコイイと思っていたことが、まずある。
そうした興味から、ドイツ軍関係の本をパラパラめくってみると、ナチスドイツがいかに酷いことをしたのかという情報もおのずと入ってきて、ドイツ軍のカッコ良さ(スマートさ)と非人道的な行為とのギャップに、「なぜ」と感じたのである。
やはり、子供としては「カッコイイ」と感じて「スキ」になったものは、やはり「正義の味方」てあって欲しかったのだが、ナチスドイツのやったことは、どうにも抗弁のしようのないものだったので、「なぜ」という疑問を、ずっと抱え続けることになったのである。

そして、この「疑問」に対する解答は、本書の中で語られていたと、そう言っていいだろう。
その「解答」とは、簡単に言ってしまえば、「美を求める者は、しばしば醜を排除するものなのだが、美醜は主観的な価値観にすぎず、美の押しつけはファシズムに直結する」ということだったのである。

私が「ナチとオカルト」の問題に惹かれた理由は他にもある。

私は二十歳前頃から推理小説(ミステリ小説)を耽読するようになったのだが、そんな中で特に惚れ込んだのが、笠井潔矢吹駆シリーズ」の初期三部作『バイバイ、エンジェル』『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』なのだが、この3作中でも、ミステリの出来として最も優れていたのが、2作目の『サマー・アポカリプス』であった。
そして、この『サマー・アポカリプス』で、「ナチとオカルト」の問題が扱われていたのだ。
「アポカリプス」とは「黙示録」のことである。つまり『サマー・アポカリプス』とは「黙示録の夏」という意味で、聖書の「ヨハネの黙示録」に描かれたような「善と悪との最終戦争」としての思想的闘争が、同作には描かれているのだ。

矢吹駆シリーズ」は、1970年代後半のパリを舞台に、現象学的本質直観という独特の推理法を駆使する、謎の日本人学生・矢吹駆が、連続殺人事件などに(巻き込まれ型で)立ち向かうと同時に、その過程で、実在の有名哲学者をモデルにした登場人物と「思想対決」をするといった、一風変わった「本格ミステリ」小説だった。

で、その2作目である『サマー・アポカリプス』では、ナチスドイツの残党である人物が登場し、そこでナチスのオカルトの問題が語られる。
本書『聖別された肉体』でも紹介されている、ナチのお抱え理論家であったアルフレート・ローゼンベルクの主著『二十世紀の神話』の存在や、その内容を私が知ったのは、この『サマー・アポカリプス』が最初であった。

同作には、ナチスの黒魔術的な思想に対抗する人物として、シモーヌ・ヴェイユをモデルとした人物が登場し、最終的には、矢吹駆と思想対決をすることになる。
ヴェイユは、キリスト教カトリックに惹かれながら、最後まで洗礼を受けなかった人であり、その背景には、カトリックの暗い歴史の存在が否定できない。『サマー・アポカリプス』でも、中世の「異端」カタリ派の問題が深く絡むのだが、カタリ派は決して「邪教」などではなく、ローマ教会(ローマ教皇庁)の腐敗と強権支配に抵抗した、地方のキリスト教一派であり、最後は、ローマ教皇(法王)のさしむけた十字軍によって、虐殺壊滅されられたのである。

つまり、この『サマー・アポカリプス』は、ヨーロッパにおける「宗教と思想」の絡みあった「闇」を問うた作品であり、そのあたりに私は深く惹かれたのだった。
またそれは、私自身が当時「創価学会」員でありながら、心からの信仰を持つことができないという、葛藤を抱えていたからでもあろう。

そんなわけで、いくつかの要素が絡み合う結節点としての「ナチのオカルト」ということに興味があったのだが、まだ、その当時の私は、無神論に転ずる前であり、「宗教批判」的な知識もなかったので、結果としては、本書『聖別された肉体』を読むまでは至らなかったのであろう。読んでも、本質的な理解は困難であったはずだ。

だが、その後、私は本書『聖別された肉体』の著者・横山茂雄が、ペンネーム「稲生平太郎」で書いたホラー小説『アクアリウムの夜』を読んで、ぞっこん惚れ込んでしまう。

この小説『アクアリウムの夜』も、もともとは本書『聖別された肉体』と同じ版元「書肆風の薔薇」から、同じ「ロサ・ミスティカ叢書」の1冊として刊行されたものであり、知る人ぞ知る作品だったのだが、それが折からの「ライトノベル」ブームのおかげで、なんと「角川スニーカー文庫」の1冊として、2002年に(お手軽な価格で)再刊されたのだ。

その頃の私は、まだミステリ小説が中心で、日本のホラー小説などはほとんど読んでいなかったのだが、たぶん映画『リング』(1998年/中田秀夫監督)の大ヒットを受けた、ジャパニーズホラーブームの影響と、当時購読していた『幻想文学』誌で『アクアリウムの夜』が、知る人ぞ知る「幻の傑作」として絶賛されていたから、そのあたりで興味を持ち、同作を読むことになったのではないかと思う。

実際、当時のホラー小説は、こう言ってはなんだが、今のものよりはもう少し知的レベルの高いものだったし、その中でも『アクアリウムの夜』は、実のところ「ホラー小説」ではなく、まさしく「オカルト小説」であった。
つまり、怪異が登場するのでもなければ、怪奇現象が起こるのでもない。むしろ人間が、そのような「不条理」に捉われて狂っていく姿を、内在的に描いた、そんな怖しい小説だったのである。

で、この『アクアリウムの夜』に、すっかりやられた私だったのだが、しかし横山茂雄が「稲生平太郎」名義で書いた小説は、当時この『アクアリウムの夜』1冊きりであった。だから、横山茂雄の小説を読みたくても読めなかったため、この時から、昔買った『聖別された肉体』への興味が再燃して「いずれ読まなくては」と思うようになったのだ。

そしてそれが、前述の 『コンスピリチュアリティ入門』 の購読、『増補版 聖別された肉体』『神の聖なる天使たち ジョン・ディーの精霊召喚一五八一〜一六〇七』の購入、さらに昨年(2024年)の『霊的最前線に立て! オカルト・アンダーグラウンド全史』の購入へとつながって、それでもまだ『聖別された肉体』を読めずにいたところ、このたびの同書の初版を古本で入手したことがきっかけとなって、やっと同書を読むことができたのである。
それはきっと、「もう初版本コレクターは辞めて、読むための本だけを買うようになったのに、この初版本まで埋もれさせては、何をやってるのかわからない」と、そんな気持ちがあったからだろう。
新刊で購入していれば、「近いうちに」と思っているうちに、ついつい後回しにして埋もれさせてしまうのだが、懐かしい初版本の古本だったからこそ、また埋もれさせてしまうわけにはいかないと、優先的に読むことになったのである。

ちなみに横山茂雄は、2006年に「稲生平太郎」名義の2冊目の小説『アムネジア』(角川書店)を刊行しており、私はこれに飛びついて読んだのだが、残念ながら『アクアリウムの夜』ほどの作品ではなかった。
独特の「狂気の世界」に味のある作品なのだが、やはり全体としては弱いという印象は否めず、一部マニアの間で話題になるに止まったようである。

そんなわけで、私はそのほかにも、横山茂雄の著書や共著書を、稲生平太郎名義のものを含めて大半は買っているにもかかわらず、実際に読んだのは、これが4冊目ということになる。
30年あまりの間、ずっと気になり続け、読みたいと思い続けながら、読めたのが、たったの4冊というのは我ながら情けないが、なにしろ気が多い人間なので仕方がない。

ただ、ここまで長々と書いてきたことからも、横山茂雄という「文学者」の、その「特異な立ち位置」というものが、何となくではあれ、感じ取っていただけたのではないかと思う。

それは、一言でいえば、横山茂雄とは「境界的な人」なのだ。

「篤実な学者」とだけ呼ぶには、「小説」も書けば、「オカルト」を始めた「サブカルチャー」的なものにも深く関わっていて、「キワモノ」臭がつきまとう。
だがまた、決して「キワモノ」ではない、太い芯が一本通っている人なのだ。だから、甘く見ることができない。

で、どうして横山茂雄という人は、こんなに「微妙にわかりにくい人(分類しにくい人)」なのかといえば、それはたぶん、横山茂雄が、この世界をそのようなものとして見ているせいであろう。
つまり、元来人間とは「理性と狂気の絡みあった存在」であり、おのずとこの世界も、そのようなアマルガムなものだ、というような捉え方の持ち主なのである。

人間の精神とは、「正気」と「狂気」に二分できるようなものではなく、曖昧に混じり合って「境界線」の引けないものであるように、じつはこの世界とて、決して「理性」だけで出来ているわけではないし、だからこそ、理性だけで「理解」できるようなものではない。

しかしまた、だからこそ「ナチのオカルト」といった「人間の狂気を理解する」という態度では、たぶん不十分なのだ。
なぜなら、私たち自身が、実は多少なりとも「狂気」をその身のうちに抱え、それを通してこの世界を見、この世界を形作っているからである。また、そこまで理解しなければ、この世界の現実を、見誤ってしまう。一一と、横山茂雄は、たぶんそのように「複雑」なことを考えている。
だから、彼の立ち位置は、一筋縄ではいかない、わかりづらさを持っているのである。

そんなわけで、昨今の「非理性主義」や、アメリカでの「陰謀論」の台頭などを見て、「世の中が、狂って来ている」と考えるのは、たぶん間違いなのである。

つまり、人間社会が「狂気」を抱えたものであるというのは、ずっと昔から、たぶん人間が生まれて以来ずっとのことなのだ。人間が、完全に理性的であったことなど、たぶん一度もない。

それがなぜ、昨今は「狂気が噴出した」かのように見えるのは、たぶんインターネットの普及によって、「理性主義」という「タテマエ」の力では、そうした人間の実態を、隠蔽しきれなくなったからではないだろうか。

本書で描かれているように、「ナチスドイツのオカルト」というのも、「ナチ」だけが例外的な狂っていたわけではなく、それは、ある意味で、有史以来の人間の「裸形」だったのではないか。
「理性主義という(政治的な)タテマエ」で隠蔽されていたものが、むしろ「過剰な理性主義」や「過剰な理想主義」という別のタテマエによって突き崩されてしまったところに露出したのが、ナチのオカルトであり、ユダヤ人虐殺という「逆説」だったのではないだろうか。

本書の内容紹介は、Amazonの紹介ページやAIの要約文にお任せして、私がここで本書について言っておきたいのは、本書に書かれていることは、決して古びはしない「人間の本質的な一面」であるということだ。

私たちは、「アーリア=ゲルマン民族主義」という「自民族至上主義」を、「非科学的な世界観(オカルティズム)」で正当化したナチスと、間違いなく、同じ人間なのである。

当然、先の選挙で議席を伸ばした「オカルト政党」である「参政党」の議員やその支持者たちとも同じ、「非理性的で自己中心的な動物」なのだ。

「ナチ」や「Qアノン」「参政党」だけが「狂っている」わけではないのである。

横山茂雄は、次のように書いている。

『 こうしたオカルティズムへの傾斜は、一般には彼らの狂気、ないしは無知、無教養を示す証拠として言及され、嘲笑されてきた。しかし、そのような見解は事の本質を見誤るものである。十九世紀後半以来、オカルティズムは現実の外(※ 願望充足的な妄想)に己れの優越性、他者の劣等性の根拠を渇望する疎外された人々を魅きつけてきたのであり、とりわけ近代ドイツにあっては、(※ オカルト的な想像力が)フェルキッシュ(※ 民族至上主義的)な夢想家たちの欲望を満たす恰好の装置となったことを、私たちは既に見た。ヒムラーローゼンベルクといった存在は、アリオゾフィ(※ アーリア人種至上主義的な神秘思想)に典型的な非理性的フェルキッシュ思想のコンテクストにおいて把握されねばならないのであり、彼らは直接的にせよ間接的にせよ疑いなくその影響下にある。単なるオカルティズムに凝っていたのなら、彼らはナチ中枢に最後までとどまることなどできなかっただろう。反ユダヤ主義、ゲルマン民族至上主義を補強するための道具のひとつとしてオカルティズムを搾取利用したがゆえに、彼らは第三帝国において地位を確保できたのである。そして、アリオゾフィの圏内にいた人々がナチ・エスタブリッシュメントに入り込むことに成功したのは、体制側の全面的公認によってではなく、ヒムラーやローゼンベルクの個人的な庇護によってであった‥‥‥。』
(初版『聖別された肉体』P202)

政治というものは「現実的」なものであり、その意味では「理性的」なものである。

私たちは勘違いしているかもしれないが、政治団体としてのナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)、政治家としてのヒトラーは、決して「オカルト」に好意的であったわけではない
そうではなく、自分たちの「自民族至上主義」を、非理性的に理論化したオカルチストや神秘主義団体の活動までも、実際には弾圧していたのである。

ではなぜ、ナチの中でも飛び抜けてオカルトに傾倒してヒムラーが、それでもオカルト信奉者でいられたのかと言えば、それは口では「総統もおっしゃるとおり、オカルトなど論外だ」と、そう語れた「政治家」だったからである。

そして、そんな「オカルト思想と政治的なリアリズム」のアマルガム的な感性を持った人物がナチスの中にはいたからこそ、今の私たちからすれば、いかにも手前味噌でオカルト的な「自民族至上主義」を、オカルトを否定したヒトラー自身も、信じることができた。ヒトラーは、それを「オカルト」だとは、寸毫も考えてはいなかった、ということである。

(ナチス・ドイツおける「アーリア人移動説」という妄想

しかし、私たちは、そんなヒトラー「自己矛盾」を嗤える立場にあるだろうか?

葬式をして墓を建て、先祖供養をし、時に、お祓いや占いやパワースポットにすがり、ホラー映画に描かれたものを「エンタメ」の名の下に半ば信じかけているような「非理性的」な私たちが、天皇を「現人神」だとまでは思わないものの、なんとなく「ありがたい家系」だなどと感じている私たち日本人が、果たしてナチのオカルトを、「選ばれた血統」思想を嗤えるものだろうか?

これは、いまさら問うまでもなく、「否」である。

私たちは、本書『聖別された肉体 オカルト人種論とナチズム』を通して、私たち自身の「原始人的な素顔」を、そこに直視しなければならない。

「一部の頭の悪い人たち」に腹を立てたり、侮ったり、嘲笑するだけでは、あるいは、ナチやオカルティズムに関する知識をいくら蓄えたところで、それだけでは、まったく不十分なのである。


(2025年9月20日)

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