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ラース・フォン・トリアー監督 『ヨーロッパ』 : いつもながらのトリアー的世界

映画評:ラース・フォン・トリアー監督『ヨーロッパ』1991年/デンマーク・ノルウェー・フランス・ドイツ・スウェーデン合作)

一昨年の回顧上映「ラース・フォン・トリアー・ レトロスペクティブ 2023」(全14作)の縮小版である第七藝術劇場コレクション」(全6作)を見て、私なりのラース・フォン・トリアー論」はすでに書いており、それに付け加えるべきことは特に無い

と言うか、上の「トリアー論」に何を書いたのか、その詳しい内容は失念してしまったが、その後に単発で見た『奇跡の海』を見ても、そして本作『ヨーロッパ』を見ても、当然のことながら「いかにもトリアーらしい作品だな」という印象以上のものはなく、以前の「トリアー論」を読み返し、そこで書いたことを確認してまで、特に付け加えるべきものはない、という感じなのだ。

したがって、本稿は、かなりシンプルなものになると思う。

本作『ヨーロッパ』の特徴は、大きく次の3点であろう。

(1)相変わらずの「エッジの効いた映像美」
(2)相変わらずの「皮肉の効いた人間描写」
(3)物語自体は、「ありふれた恋愛サスペンス」

つまり、(1)(2)については、すでに前述の「トリアー論」に基本的なところは書いているはずから、それをここで繰り返すのは、時間の無駄。
ラース・フォン・トリアーの作家性が知りたいとか、私の「トリアー理解」が知りたいという方は、前振り的な前半部分は飛ばしてもらっても問題ないので、是非そちらを読んでほしい。

(3)については「ありふれた物語」なのだから、あえて紹介するまでもないのだが、それでは「映画評」にはならないから、「あらすじ」だけは紹介した上で、それがトリアーらしく、いかに「歪められたものか」についてだけ、簡単に注釈を加えておきたいと思う。

本作の「あらすじ」は、次のとおりである。

『1945年、第二次大戦終結直後のドイツ。(※ ドイツ系)アメリカ人レオ・ケスラージャン・マルク・バール)は、ドイツ復興のためにやって来て、大鉄道網ツェントローパ(※ 社)の車掌見習いとして働いている。

ある日、車中でツェントローパ社長マックス・ハルトマン(ヨアン・レーエンベア)の娘カタリナバーバラ・スコヴァ)と出会い、(※ 後日、同家での)夕食に招待される。
そこで会ったアメリカ軍情報部のハリス大佐エディ・コンスタンティーヌ)は、レオに諜報活動の依頼を匂わせるのだった。

勤務中、レオはハルトマン家の友人と名乗る男から2人の少年を(※ 彼の乗務する列車に)乗せてくれと頼まれる。車内で、連合軍から任命された(※ 新任の)フランクフルト市長夫妻が狙撃されるが、犯人は8歳の少年。レオが乗せた少年たちはナチスの(※ 残党の)テロ組織「人狼」の刺客だったのだ。

(※ ツェントローパ社長)マックスは、鉄道網の再興のため連合軍に協力せざるを得ない立場に置かれていたが、そんな彼の姿勢を人狼から脅迫されてもいた。脅迫状を受け取った夜、マックスはバスルームで自殺する。
同じ夜、カタリナはレオに、かつて人狼に属していたことを告白するが、今は後悔しており、お互いに惹かれ合う2人は結婚する。新婚生活も束の間、カタリナが人狼に拉致される。以前レオに少年たちを預けた人狼の党首ジギー(ヘニング・イェンセン)は、カタリナと引き換えにレオの乗務する特急列車の爆破を要求してくる。ノイヴェート橋の上で爆弾を仕掛けろ、と爆発物を渡される。

そんな時、彼の車掌正規採用の抜きうち試験の試験官も(※ 同列車に)やって来て、レオは爆発物を抱えて右往左往する。
隣の線路を走る列車の中から(※ 双方の列車の窓越しに)カタリナに、ジギーの言う通りにするよう言われ、彼は爆発物を仕掛けるが、爆破寸前のところで思いとどまる。列車が止まり、カタリナが一号室にいると知らされたレオがかけつけると、彼女は手錠をかけられていた。(※ そして、そこで告白するには)彼女はまだやはり人狼の一員だったのだ。
(※ 混乱し絶望した)レオは一旦は止めた(※ 時限)爆弾のスイッチを押し、爆発した列車は橋の下に落下する。レオも列車とともに水中に沈んでいくのだった。』

映画.com『ヨーロッパ』より/「※」は引用者補足。また適宜改行と句点を加えた)

つまり、主人公のレオ・ケスラーは、とても真面目な男で、敗戦したドイツの復興に寄与したいと、わざわざドイツに渡ってきたような、絵に描いたような理想主義者だった。
ところが、その彼が、連合軍の支配を良しとしない、ナチスの残党からなるテロ組織「人狼」に所属している、ツェントローパ社の社長令嬢であるカタリナと恋仲になって、恋と正義の板挟みになって苦悩し、「右往左往」するお話だと考えればいい。

(レオ・ケスラーとカタリナ・ハルトマン)

本作の「ストーリー」が通俗的だというのは、美女に誑かされ、騙されて彼女のためにテロを決断するも、それをすんでのところで思い止まる主人公、といった「お約束」の展開や、彼を騙したカタリナもまた、決して冷徹なテロリストだったわけではなく、戦時中は「絶滅収容所へのユダヤ人移送」にも加担した父が、戦後、連合軍に協力していることへの反発から、若気に至りで「人狼」のメンバーになってしまい、今では抜けるに抜けられないという中途半端な立場のまま、ケスラーに接触して「本気で好きになってしまい」、それで苦しむ一一というような、絵に描いたような「メロドラマ性」にあるのだ。

(ケストラーを誘惑するカタリナ)
(ここはハルトマン家の屋根裏の、今は使われていない子供部屋。そこには鉄道王マックス・ハルトマンが息子ローレンス(ウド・キア)にプレゼントした巨大な鉄道のジオラマ模型が敷設されているが、父に反発するカタリナの兄は、この鉄道模型を喜ばず、父を悲しませたという。この情事のあと、破損した鉄道模型のレールから列車が転落するが、無論それは本作のラストを暗示している)

要は「時代と運命に翻弄された、不幸な恋人たちの悲劇物語」という「陳腐」な内容なのである。

だから、この「ストーリー」で本作を高く評価する人は、ほとんどいないはずだし、いれば、それはアキメクラである。

本作が評価されるのは、そんな「凡庸な物語」を、トリアーが、彼らしい特異な映像美によって、「ロマンティックな悪夢」のごとき作品に仕上げてみせた点なのだ。

(本作には、こうした合成シーンが多く、物語の非現実的な雰囲気を強めている)

例えば、本作の冒頭は、夜陰の中を、前照灯に照らされて後方(下方)へと流れ去る「線路」だけが映されており、そこに重厚な男性の声(マックス・フォン・シドー)で、「君はこれからヨーロッパに行くことになる」「身体の力を抜いて、目を瞑ると、君の身体はどんどん重くなっていく」といった調子で、「君」に対して「催眠術」がかけられているという状況が明らかになり、そして「私が10数え終わると、君は目的地に着いている」というところで、そんなカウントダウンを伴う語りのあと、主人公のケスラーが、フランクフルトの街に着いたシーンとなるのだ。

しかし、そうしてたどり着いた世界もまた、決してリアルな世界ではなく、暗くて陰鬱な悪夢めいた世界であり、夜のシーンか、昼間でも窓のブラインドを下ろしたままの、夜間のようにしか見えない列車内しか描かれない。

つまり、わかりやすく「悪夢」的な世界観の中で物語は進行していき、時々、冒頭のような「(姿は見せない)精神科医」か何かによる「話を1ヶ月進めよう。君は今、〇〇にいる」みたいなナレーションが挟まれて、物語の非現実性を強調するし、ラストは爆破によって鉄橋から川へ転落した客車の中で溺れ死ぬケスラーが、しかしその死に顔も穏やかに、列車内から川へと流れ出してゆき、「やがて君は海へと至るのだ」というような調子のナレーションに乗って、生きている時とまったく変わらない様子のまま、水中を流されていく様子が、幻想的に描かれるのである。

(モノクロを基調としながら、パートカラーやカラーシーンが交錯する、特異な絵作り)

そんなわけで、本作は「ストーリー」としては陳腐凡庸だが、トリアーはそれを承知の上で、そっちには重きを置かず、その独特な「現実嫌悪的に反現実的な世界」を現出させたところにこそ、本作の魅力はあるのだ。

(左は、ケスラーが頼ってドイツに渡った叔父だが、彼は甥にも良い感情を持っておらず、先輩車掌として冷たく厳しく接する)

あと、本作においていかにもトリアーらしいシーンとしては、真面目で温厚な主人公であるケスラーが、いろんな人の無理解や理不尽や裏切りの中で、最後は「いきなりキレてMPから奪った自動小銃をぶっ放し、いったんは中止した列車爆破を敢行して、結局は自らも死んでしまう」という、いささか唐突な最後の展開である。
一一トリアーの作品には「真面目な主人公が、周囲の無理解によって苦しみ、最後はありえないほどにキレて、すべてをちゃぶ台返し的に破壊してしまう」という展開が、じつに多いのだ。

(キレて自動小銃を撃つケスラー)

私の場合、トリアーの「映像美」は高く評価しているものの、しかし、その「被害者意識」に由来する、嫌がらせ的な「世界描写」や「人物描写」の末のオチのつけ方が、あまり好きではない。いかにも「みんな滅びちまえ、ザマアミロ!」という感じなのだ。

つまり、ラース・フォン・トリアーという人には「不条理な現実と真正面から向き合って、それと闘う」というような「正統派」の姿勢はまったく見られず、「無理解な世間を、悪意を持って殊更に嫌らしく憎々しげに描いた挙句、最後は被害者的な立場の真面目な主人公がキレて、自分を虐めた世界に報復する」というような物語が、あまりにも多いのだ。
もちろんたまには、やられっぱなしの悲劇もあるけれど、トリアーの自己投影的な「肩入れ」が分かりやすすぎて、私はそうした、いかにも「哀れな主人公」には、素直に同情できないのである。

トリアーは、たしか「お金持ちのボンボン(お坊ちゃん)」だったはずだが、そういう「甘え」が作品には抜き難くあって、そのあたりが、私の場合は、どうしても好きになれない。

またそのため、「こんなやつを無条件に持て囃して、甘やかしてはいけない」と、そう思わないではいられないのである。


(2025年4月7日)


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