武田崇元・横山茂雄 『霊的最前線に立て! オカルト・アンダーグラウンド全史』 : 理性とリアリティ
書評:武田崇元・横山茂雄『霊的最前線に立て! オカルト・アンダーグラウンド全史』(国書刊行会)
私は徹底した無神論者であり、より正確には唯物論者である。
だから、オカルトに分類されるような事物については、基本的に信じてはいない。そんなものは「物理的に存在しない」と考えている。
だから、そうしたものを本気で信じる人については、基本的には「馬鹿じゃないか」と思っている。
これは、オカルト関係だけではなく、「私は、まともで理性的だ」と自認している、すべての信仰者とて同じことだ。
私は、社会的に公認されてる「宗教・信仰」全般を否定している。
「宗教なんか本気でやってる奴が、オカルトを嗤う資格などない」とそう思っている。「社会的に公認されてるからって、安心しているような奴は、権威主義的に思考停止した馬鹿だ」と、そう思っているのだ。
だが、地味な宗教とは違って、UFOだの宇宙人だのUMAだの幽霊だのというのは、嫌いではない。むしろ大好きだ。
なぜなら、それらは「夢を見させてくれる」からであり、ここ(現実世界)ではないどこかへ、一瞬なりとも誘ってくれるからである。
夢は、夢だとわかっていても楽しいものなのだ。楽しい夢なら、見たくなるのは当然ではないか。
ただし、夢は夢であって、そこを混同してはならない。
たしかに、夢に見たいような現実であったなら、どんなに素敵なことだろう。
ある日、絶世の美少女(あるいは、美青年)と出逢って、運命的な恋に落ちる。一一なんて夢なら、是非とも夢に見たいものだ。
しかし、そんなことが現実に起こると信じている人がいたら、私なら必ず心の中で「鏡と相談しろよ」と思うことだろう。
つまり、UFOだの宇宙人だのUMAだの幽霊だのについて、「本当にいたら、面白いのになあ」という考えには完全に同意するが、「本当にいるんだよ!」と言う人に対しては「鏡と相談しろよ」と言いたくなるのである。
したがって、私が本書『霊的最前線に立て! オカルト・アンダーグラウンド全史』を読んでいるからと言って、「(心)霊的」なものや「オカルト」を信じているというわけではない。いや、信じていない。
信じたいのは山々だが、そんなもん信じられるわけないだろと、そう思うのだ。どうして、そんなもんを本気で信じられるんだよ、野暮な奴だな、と。

では、本書の著者である、武田崇元と横山茂雄の二人は、そうしたものを信じているのだろうか、信じていないのだろうか?
結論から言えば、信じてはいない。
ただし、全部ひっくるめて頭から否定するというのではなく、あくまでも、興味を持ってそれに接してみることはする。その結果、それは「無い」と確認できるのである。
伝聞情報ではなく、自分で直接確かめるからこそ、それは「無い」と確信できるのだ。
つまり、彼らが、「霊的・オカルト的」なものに惹かれることの根源にあるのは、自らの中にもある「人間の非合理性」なのだ。
「そんなもん、あるわけがない」と思いながらも、つい「あったら面白いのになあ」と思ってしまう人間の心理。
そして時には、その一線を踏み越えてしまい、完全に本気で信じ込んでしまえたりするような人間の「心(の不思議)」というものに、彼らは惹かれているのである。
したがって、彼らの長年にわたるオカルトとの関わりは、そうした「夢」に魅せられ、支えられてたものだと言えよう。
「信じたいけど信じられない」し、本気で信じている人を「馬鹿じゃないか」と思う反面、本気で信じられる人への、憧れのようなものも持っている。
だから、頭から馬鹿にすることなど出来ない。自分だって、一歩間違っていれば、間違いなく「あちら側」の人間だったはずだし、残念ながら、そうではなかったというだけだからである。
したがって彼らは、安直なオカルト批判に対しては、軽蔑を隠さない。
なぜ、軽蔑を隠さないのかと言えば、そういう人たちは、自分のことがわかっておらず、人間というものの不確かさや不可解さというものがわかっていないからだ。それなのに、現実というものを悟った(わかった)つもりでいる、馬鹿だからである。
墓参りをして「お父さんお母さん、僕らは元気にしてますよ」などと、半ば本気で祈っているような奴が、その一方で「霊魂なんかあるわけないし、幽霊も天国もあるわけがない。あるんなら見せてみろよ」などと、自らの日頃の行いを顧みることも知らず、居丈高に「非合理的な思考」を馬鹿にする、馬鹿の中の馬鹿、自覚のない馬鹿が、彼らに嫌悪感や苛立ちを覚えさせるのである。
私が、本書の著者の一方、横山茂雄にハッキリと興味を持ったのは、ホラー小説として刊行されていた、横山の別名義・稲生平太郎の『アクアリウムの夜』を読んだからである。
これがとんでもない傑作だったのだ。

しかし、正確に言うならば、『アクアリウムの夜』は、ホラー小説と言うよりは、オカルト小説であった。
では、ホラー小説とオカルト小説は、どう違うのか?
無論、そこには「定義」などなく、曖昧に使い分けられているだけなのだけれど、あえてその違いを強調して言うならば、次のようになる。
・ホラー小説は、読者を怖がらせる小説。
・オカルト小説は、読者の世界観を揺るがす小説。
ホラー小説は、読者を怖がらせて「楽しませる」ための娯楽小説であり、そこに登場する怪物だの亡霊だの殺人鬼だのは、怖がらせるための道具でしかない。
私たちが日常生活では遭遇することのないそんな珍奇な脅威を描くことで、安全な恐怖の別世界を提供するのだ。
一方のオカルト小説は、そうした楽しい「別世界」を提供するものではなく、私たちのこの現実世界が、じつは私たちの信じているようなものではないのではないかと、そんな恐怖を提供する小説なのだ。
つまり、この現実世界そのものの異化によって、読者に不安感を与える類のものが、オカルト小説なのだ。
安全な別世界の提供ではなく、この現実世界への確信(信仰)を揺るがす、別の視点を提供するのが、オカルト小説なのである。

そんなわけで、稲生平太郎こと横山茂雄の『アクアリウムの夜』は、かの、夢野久作の『ドグラ・マグラ』に近い読後感のある傑作である。
角川文庫版『ドグラ・マグラ』の帯には「本作を読んで発狂した人がいるので、ご注意を」みたいな、実に魅力的な惹句が書かれていたけれど、『アクアリウムの夜』の読後感も、それに似たところがある。
頭が変調を来しそうな、なんとも言えない、不穏な味わいがあるのだ。
で、この稲生平太郎が、本名でオカルトの研究書を書いているというのは、『アクアリウムの夜』を読む、ずっと以前から知っていて、興味がないこともなかった。
だが、読みたくても、他に読みたいものがいろいろあって、なかなか読めなかった『アクアリウムの夜』をやっとのことで読み、これが期待をはるかに超えた傑作であったため、俄然、本名名義の研究書のほうも読みたくなった。
そしてそんな頃に、比較的読みやすそうな共著本が刊行されたので、ひとまずこれを読むことにした。
ちょうど、第一次トランプ政権の頃、トランプ支持の陰謀論集団「Qアノン」が話題となった後に刊行された、新しい「陰謀論」関係の論文やエッセイなどを集めたアンソロジーで、横山茂雄は、そこに大御所級の執筆者として、対談で登場していたのである。
その本とは、横山茂雄、栗田英彦、堀江宗正、竹下節子、辻隆太朗、雨宮純、清義明らによる『コンスピリチュアリティ入門 スピリチュアルな人は陰謀論を信じやすいか』(創元社)であった。

この本を読んで、最も教えられ、反省させられ、感心させられたのは、アメリカなどの陰謀論者が信じているという「ヒト型爬虫類宇宙人(レプティリアン)」の話であった。
頭と言うか顔と言うのか、とにかくトカゲみたいな顔の宇宙人が、人間に変身してこの地球上に住み、人類の支配を目論んでいるという、そんな荒唐無稽な陰謀論である。
で、これを聞かされれば、たいがいの人は「馬鹿じゃねえか。さすがはアメリカ人だ」などと思うだろう。私もそう思った。
しかしながら、横山茂雄が対談で指摘していたのは、この「レプティリアン」を本気で信じるというのは、神を信じ悪魔の存在を信じる人や、神仏や祖霊なんかを信じる人よりも、愚かだと言えるのだろうか、というような問いであった。
たしかに、その通りだ。
私たちは、仮に無宗教者であっても、神や悪魔や神仏の存在については、真面目に考えた上で否定するだろう。そうしたものの信者たちに対して「お前ら馬鹿じゃねえのか? 精神病院へ行けよ」なんてことは言わないだろう。
だが「レプティリアン」を信じている陰謀論者には、露骨に見下した評価を与えてしまっているのだ。
私たちの、この「差別意識」が何に由来するものなのかと言えば、それはたぶん、一種の「偏見」であり、それを裏から支えている、世界観的な「信仰」の存在なのであろう。
どちら(いずれ)も、唯物論的には「荒唐無稽で馬鹿馬鹿しいもの」として「等価」なのに、私たちはそこに、無自覚にも「差別」を設けてしまっている。
なぜ、そんな差別をしてしまうのかと言えば、私たちが、自身の権威主義的な「信仰」に無自覚だからなのだ。
そうしたわけで、本書著者の二人は、オカルトを頭から馬鹿にする人を馬鹿にする。
「そういうおまえらは、世界の実相を見ているつもりなんだろうな。だが、そんなことの出来ている者などいないんだよ。いたとしても、誰のどれが真相なのか、それを判別するための客観的な視点なんて、どこにも存在しないんだ。
だからこそわれわれは、誰もが愚かなオカルティストでしかあり得ないという自覚を持たなければならない。馬鹿丸出しに見えるオカルティストたちを、自分たちの似姿としてとらえ、自らの物の見方を、常に疑わなければならない。それこそが、理性的な態度なのだ」
と、おおむけそういうことを、著者たちは訴えているのである。
無論、このように「知的に謙虚」な二人であり、しかも両名は、私と同じ大阪人だから、決して、私がここまで要約的に解説してきたようなことを、大真面目かつストレートに語ったりはせず、冗談めかしながら、掛け合い漫才のような調子で語り合っている。
だが、対談の後半にもなれば、著者たちのこうした「本意」が徐々に語られ始め、彼らの大真面目な素顔をのぞかせ始めるのだ。
本文のみでも400ページ以上ある、菊判の大冊である本書には、いろいろと面白い話が紹介されていて、あちこち引用してご紹介したくもなるのだが、それをやると、またもや長くもなれば、手間もかかるので、ここでは最後の方のやりとりを、少し長めに引用することで、ご容赦願おう。
横山 武田さんも僕も半世紀にわたってオカルトと関わってきたわけですが、武田さんの場合、オカルトのどこに吸引力を感じてこられたんですか?
武田 やはり日常的な平衡感覚を揺るがすというのが原点だったと思う。(※ 民俗学者・柳田國男の)『遠野物語』は「(※ 非常の存在をもって)平地人を戦慄せしめよ」というわけですが、(※ 私・武田に言わせれば)なにも遠野まで行かんでも、「山人」(※ 的な、非常の存在)はそのへんにおるやろ、あんたらが知らんだけで、というのが初発の動機としてあった。偽史も含めてオカルトには日常性を揺るがすものがある。平たくいえば人を驚嘆せしめるポテンシャル。そういうアグレッシブなところにオカルトの真骨頂があると思う。
横山 今でも(※ マルクス主義者として)革命という言葉がちらつく?
武田 それはサイケデリック・オカルト・マルクス主義者なんで(笑)。スピ(※ 今どきのスピリチュアリティ)とオカルトは重なるところがあるわけですが、スピには革命的なポテンシャルがない。スピの人が王仁三郎(※ 大本教の教祖・出口王仁三郎)を語るとほやっとしたエコロジカルな(※ 無難な)ものになる。それはそれでいいんだけど、(※ かつてはそうした)ニューエイジの自然に帰れみたいな(※ 出口王仁三郎)論が盛んだったなかで、『霊界からの警告』(※ 武田の著書『出口王仁三郎の霊界からの警告』)では大本(※ 大本教)の農本主義的な側面はあえて切り捨てて、霊的進化論とテクノロジー加速主義を融合させて、ファシズム革命論で補完したのも、あえての(※ 主流の論への)挑戦だった。まあ、いまは革命という概念そのものが日本では失われてしまったけどな。ずっと右傾化ということが言われてるけど、いま進行してるのは権威主義化であり家畜人化。
横山 武田さんは体質的にもめごと、硬い言葉でいえば闘争が好きなんじゃないかなという気がするんですけど(笑)。
武田 好き嫌いというより、それが世の中の本質だろうと。
横山 大阪弁でいう「いちびり」でもあるしなあ。調子に乗って、ふざけ倒す。
武田 いや、「いちびり」では、(※ オカルト雑誌)『ピラミッドの友』のオカルト俳句には一本取られました(笑)。
横山 ああ、僕が濱口腎虚名義で書いた「新興宗教俳句の頃」(一九九二)と題する戯文ね。「耳が鳴る円盤見える犯される」「遺伝子を集めて増やしアブダクション」「パロマ山この足跡は何やつぞ」とか(笑)、「新興「宗教俳句」」というのをでっちあげて、その注釈を施した。僕のことは棚に上げるとして、武田さんにはイデオロギーを超えて、もめごとがおもしろい、もめごとのないような日常はいやだという感覚があるんじゃないですか。
武田 すごい偏見の眼差しというか動物を観察するような眼差しを感じるなあ(笑)。そんなもめごとのない日常はいやだという奴がおるわけないだろが、旗本退屈男じゃないんだから。ただ社会的レベルでイデオロギーを超えてということでいえば、総会屋が規制弾圧され、電柱から愛国党のビラが一掃され、街宣車が軍艦マーチを流さなくなった頃から、一方で大学でもインターが流れず集会はおろかビラー枚撒けない状態となった。永久騒乱状態に終止符が打たれた果てに登場したのがネトウヨと国民主義リベラル。これでみんな家畜人になってしもうたんや。オカルトは元来、平和なものじゃないだろう。イエス・キリストも「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と言うてはるがな。ところがスピは、怒ると良くない、怒るとマイナス・エネルギーが(※ 出る)と言う。わしに言わせればそんなのはナンセンス。むしろ日本人は怒りを忘れている。中世では伊勢の内宮と外宮が何度も合戦やっとるやないか。神智学だろうが何だろうが‥‥‥
横山 常にもめてると(笑)。
武田 ところで横山さんはなんでオカルトに吸引されたの?
横山 僕は自分が生きている現実は本当の現実じゃないんじゃないか、もっと別のリアリティがあるんじゃないかと小さい頃から思っていた。文学もオカルトも映画もすべてはその現実を乗り越えるヴィジョンを垣間見せてくれるのではないか、ただそれだけでこの歳までやってきている。自分でいうのも何ですが、すごくわかりやすい姿勢なんだよね。
武田 それ、わかりやすいんだろうか(笑)。
横山 ただ、文学についてそんなふうに思っていない人が大部分だということが、長ずるに従ってわかってきました(笑)。文学の価値が現実を超越するヴィジョンを開示するところに存すると思っている人は、きわめて少数派でしょうね。
武田 そうなんだ、少数派なんだ。別のリアリティがあるんじゃないかという感覚はわしにもある。というか、そもそもいま生きている現実なんてそんなに強固なものではないし、そこには裂け目があって、船板一枚下には別の世界が広がっているんやでという感覚。
横山 僕の場合、板子一枚下は地獄という感覚(笑)。それでも僕がビリーバー(※ 本気で信じている人)とはいえないのは、別の世界がどこかに垣間見えるんじゃないかという可能性を信じて生きてきたということであって、あくまでも可能性なのね。粗っぽくいえば、ロマン派的な心情なのかもしれない。まあ、ちょっと違うような気もするけど。ともかく現実を越えるためには、普通ではダメ、こちらが激しく動揺したり、目眩を覚えたりするくらいのもの、足元が崩れるようなものでないと。オカルトでも、本当に衝撃的なものは、実際にはほとんどない。ほとんどがクズなんだけど、でも可能性はあるんだと思っているわけです。
武田 あんたとわしは霊統(※ 霊的なものに対する立場)はちがうけど、共通点は素朴実在論でも素朴否定論でもない点やな。
横山 そうかもしれません。でも、霊統はかなり違う(笑)。そこんとこは重要。
武田 そこんとこ重要というのは非常に差別的なニュアンスが感じられるな(笑)。ともかく、あんたもわしも、オカルトを素朴に信じるわけではない、でもそれを素朴に否定しているわけではない。オカルトを信じないオカルティストとでもいうか。
横山 「と学会」とか、スケプティック(懐疑論者)といわれる人たちは、あまりにも素朴に現実を信じているように思える。彼らはオカルトを批判するとき、実はバカにしているでしょ、それがすごく素朴な反オカルトに見える。
武田 だから彼らはバカにしやすいものしか相手にしない。うまい具合にチープで手軽なオカルトはいっぱいある。そういうのを批判して溜飲を下げるわけです。だから『東日流外三郡誌』でもそりゃあ嘘(※ 偽史)に決まっとるだろがという部分だけを指摘するわけですが、おまえらそんなもんでドヤ顔してどうすんやと。「と学会」は過去の近代合理主義にひたすら回帰する人たち。
横山 回帰というか、近代合理主義の強固な信奉者。「と学会」だけじゃなくて、現在の四十代、五十代の人はわりと素朴に合理主義的な世界観で動いているんじゃないかな。
武田 そうかねえ。あまり世代は関係ないと思うけど。
横山 うーん、関係ないか。
武田 代替医療(※ 科学的根拠の明らかではない、経験主義的な医療術)にしても、べたに嵌りこむ奴かさもなくば全部ダメという奴というふうに、素朴に信じちゃうか、素朴に反発するか、二つに分かれてしまう。世界観が非常に単純化されているような気はする。
横山 それはその通りでしょう。こちらの観点からすると、非常にナイーヴなんだよね。ただし、オカルトの場合、文学などとは違って、言じる信じないを迫ってくるようなところがあるのは事実。文学や映画はいくらわけのわからないものを作っても、芸術はまあそんなものかということで終わるけれども、オカルトというのはオカルティストがとんでもない世界観を持ち出して、これは虚構じゃないんだ、これこそが世界の実相であると主張するわけですからね。本気で関われば、無傷ではすまない。
武田 それを否定せず、かといってのっぺりと信奉することもなく受け入れるというのは、それなりの知性と胆力が要る。
横山 本当かな(笑)。僕がすごいと感じるオカルトは、やっぱり、現実からの逸脱度が高いものですね。こちらの従来の現実感覚を粉砕するヘヴィな世界になってくる。
(P404〜406)
知性というものの最大の敵は、自分自身の「リアリティ」なんだということを、この人たちは、体験的に知っている。
一一だから、謙虚なのだ。
(2025年12月11日)
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