ジェイムズ・ホエール監督 『フランケンシュタイン』 : 元祖「人造人間の悲劇」
映画評:ジェイムズ・ホエール監督『フランケンシュタイン』(1931年/アメリカ映画)
私たちの世代にとって「フランケンシュタインの怪物」というのは、モンスターの中でも最も人気のあるキャラクターだった。
『大アマゾンの半魚人』のレビューにも書いたことだが、外国映画モンスターの「ビッグ3」といえば、ドラキュラ、フランケンシュタイン、狼男の「3人」で、半魚人は、それにすこし差をつけられて、4番手という感じだったのである。
つまり、当時の日本の子供にとっては、ドラキュラ、フランケンシュタイン、狼男というのは、とても馴染みのあるキャラクターで、それは藤子不二雄の漫画『怪物くん』の影響もあっただろう。同作でもこの「3人」は、人間界にやってきた「怪物ランドの王子」である怪物くんの「お付きの家来の三人衆」という役回りであり、やはり「怪物」世界を代表する3人だったのだ。

だから、この「3人」については、子供の頃にテレビで映画を見ており、子供雑誌などでも情報が多かったので、私の実感としては「よく知っている」という印象が強かった。また、だからこそ、映画を見たこともなければ、あまりよく知らない「半魚人」については、今になって見てみようという気にもなったのである。
ところが先日、別のレビューで「フランケンシュタインの怪物」について言及した際に、「そう言えば、本当にフランケンシュタインの映画を見ているだろうか? 雑誌などで何度も写真を見たり、ストーリー紹介を読んだりして、見たつもりになっているだけなのではないか?」とそんな気持ちが強くなった。
そこで、確実に何度も見ている「ドラキュラ」ものは別にして、フランケンシュタインと狼男を扱った、特にオリジナルの映画くらいは、この機会に見ておこうとなったのである。
そんなわけで、今回は「フランケンシュタインの怪物」を扱った最初の映画『フランケンシュタイン』(1931年)である。

主演は無論、ボリス・カーロフだし、その名は子供の頃から記憶していたが、監督の名前の方は、今回初めて知った。古い作品のせいか、ぜんぜん知らない人であった。

主演俳優の名前は知っているのに、どうして監督名の方は知らないのかというと、それは多分、子供はモンスター映画を「キャラクター」で見ているので、演じる俳優こそが重要で、演者が変わることを嫌うためであろう。最初に演じた俳優、というよりは、そのモンスターを最初に知った際に、その役を演じた俳優のバージョンを「オリジナル」だと認識するため、他の俳優が演じたものは「偽物」だと感じてしまうのではないだろうか。
だから、ドラキュラは、ベラ・ルゴシではなくクリストファー・リーでなくてはならず、フランケンはボリス・カーロフでなければならず、狼男はロン・チェイニー・ジュニアでなければならなかったのだ。
さて、遅まきながらここでお断りしておくと、本作『フランケンシュタイン』という作品のタイトルとなっている「フランケンシュタイン」というのは、人造人間である「怪物(モンスター)」を作った博士の名前である。つまり、フランケンシュタイン博士。
博士の作った「怪物」の方には固有名詞が与えられておらず、役名でも「モンスター(怪物)」とされているだけなので、この怪物を指す場合、正確には「フランケンシュタインの(作った)怪物」と表現しなければ、内容紹介的には誤解を招いてしまう。
しかしながら、子供の頃からこの「怪物」のことを、当たり前に「フランケンシュタイン」とか「フランケン」と呼んでた者としては、わざわざ「フランケンシュタインの怪物」と書くのは、面倒なだけではなく、少々抵抗もある。
だが、本稿においては、誤解をまねかぬよう「フランケンシュタインの怪物」または「怪物」と表記することにしたい。
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まず最初に言っておかなくてはならないのは、本作『フランケンシュタイン』は、間違いなく「傑作」だという事実である。
「怪奇映画として傑作」なのではなく、映画として「傑作」なのだ。
その理由は、ストーリーがしっかりしており、なにより「絵作り」が素晴らしい、という点だ。

今回、DVDで本作を見るまでの私は、正直いって本作を舐めていた。たしかに、子供の頃から「フランケンシュタインの怪物」は大好きなキャラクターだったのだけれど、それは映画への評価ではなかったのだ。
だから、大人になってから見れば「チャチなB級映画」なのではないか、「なにしろ古い映画だしな」と、そう侮っていたのだが、あにはからんや本作は、とても手のかかった、丁寧に作られた映画だったのだ。決して「子供だましのモンスター映画」などではなく、大人向けに作られた「怪奇悲劇」だったのである。




『フランケンシュタイン男爵家の嫡男である若き科学者ヘンリーは、生命創造の研究に没頭していた。ヘンリーは助手のフリッツと共に墓地から盗み出した死体を接合し、彼(※ フリッツ)に恩師であるウォルドマン教授の研究室から人間の脳を盗んでくるように指示する。同じ頃、行方不明になったヘンリーの身を案じる婚約者のエリザベスは、共通の友人ヴィクターと共にウォルドマンの元を尋ね、ヘンリーが生命の創造を行っていることを聞き出す。三人はヘンリーが籠る山奥の塔に向かい、彼の実験に立ち会うことになる。嵐の雷光を利用して高圧電流を浴びせられた死体は生命を得て目覚め、ヘンリーは狂喜する。
ウォルドマンは生き返った怪物を破棄するように求めるが、ヘンリーは実験を続けようとして拒否する。しかし、フリッツが盗み出した脳が殺人者のものだと聞かされ戸惑いを感じる。その時、地下室からフリッツの叫び声が聞こえ、二人が地下室に向かうとフリッツは怪物に殺されていた。ウォルドマンは劇薬で怪物を殺そうとするが、反撃に遭い二人とも負傷する。劇薬を注射された怪物は気絶し、ヘンリーは彼の身を案じて駆け付けた父フランケンシュタイン男爵やエリザベス、ヴィクターに助け出される。ヘンリーは怪物のことを忘れ、エリザベスとの結婚を決意する。
ヘンリーとエリザベスの結婚式が執り行われ、村中が祝福の声を挙げる中、塔に残り怪物を始末しようとしていたウォルドマンは怪物に殺され、怪物は塔から逃げ出す。怪物は村外れの民家で出会った少女マリアと交流するが、不意に彼女を湖に投げ込み溺死させてしまう。怪物は結婚式の会場に乗り込み、エリザベスを襲い負傷させる。ヘンリーは怪物を始末する決意を固め、またマリアの父ルドヴィクの訴えを受けた市長も村人を引き連れて怪物狩りに乗り出す。山奥で怪物を発見したヘンリーは殴り倒され、風車小屋に連れ去られてしまう。村人が風車小屋を取り囲む中、怪物と対峙したヘンリーは屋上から投げ捨てられて重傷を負い、怪物は村人によって火を放たれ燃え盛る風車小屋諸共崩れ去った。』
(Wikipedia「フランケンシュタイン (1931年の映画)」)
(1)少女マリアの悲劇
この映画を評価する上で、ポイントとなる点はいくつかあるのだが、その中で最も重要なのは、「フランケンシュタインの怪物」は「凶悪犯罪者」の脳を埋め込まれて復活した「怪物」ではあるものの、復活した彼自身は、なんら「犯罪者的な性格」は有していなかった、という点である。
上のストーリー紹介では、次の2箇所かかわってくる。
『地下室からフリッツの叫び声が聞こえ、二人が地下室に向かうとフリッツは怪物に殺されていた。』
『塔に残り怪物を始末しようとしていたウォルドマンは怪物に殺され、怪物は塔から逃げ出す。怪物は村外れの民家で出会った少女マリアと交流するが、不意に彼女を湖に投げ込み溺死させてしまう。』
まず、「怪物」が、フランケンシュタイン博士の助手である「せむし男」のフリッツを殺したのは、フリッツが無闇に「怪物」を虐待し、「怪物」が興奮したからで、後のウォルドマン博士殺しと同様に、その罪の責めを「怪物」一人に問うのは、あきらかに間違いなのだ。
「怪物」が、フランケンシュタイン博士の恩師に当たるウォルドマン教授を殺してしまったのは、半ば「正当防衛」であり、半ばは「過失致死」であって、フリッツ殺しと同様、半ばやむを得ないことだったのである。
というのも、上の「ストーリー紹介」にもあるとおりで、ウォルドマン教授は、「怪物」が劇薬によって眠されているうちに殺そうと、解剖台上の「怪物」に、まさにメスを向けたところで、逆襲に遭ったからである。
「怪物」はその驚異的な体力によって、教授の予想よりも早く目を覚ましたため、九死に一生を得て反撃に出、その結果、博士をくびり殺してしまったのだ。
では、なぜ彼がウォルドマン博士を殺したことが「過剰防衛」にならないのかというと、生まれたばかりと言ってよいであろう彼の知能は「幼児並み」だったから、手加減というものができなかったためである。
しかも、フランケンシュタイン博士の説明では、「怪物」は「10人力」を持っているというのだから、彼は自分の力を制御しきれず、反撃に出たところ「つい殺してしまった」という感じなのである。
つまり、「殺意」などというハッキリしたものを持つほどの知能さえ、彼にはまだ無かったのだ。だから、(仮に「怪物」を「人間」だと認定した場合でも)故意が必要な「殺人罪」の対象ではなく、せいぜい「正当防衛」による「過失致死」といったところなのである。
また、少女マリアとの「心温まる交流の後の悲劇」については、次のような事情であった。
博士の「山奥の古城の実験室」から逃げ出した「怪物」は、里まで下りてきて、湖のほとりを彷徨っていると、湖の岸辺でマーガレットの花を摘んでいる少女マリアと出逢う。
「怪物」が少女を警戒して注視していると、それに気づいたマリアは、「怪物」を恐れることもなく、一緒に花摘みをしようと、「怪物」と手を繋いで岸辺に誘い、そこに腰掛ける。そしてマリアが詰んだ花を「怪物」に手渡すと、「怪物」は嬉しそうに微笑むのだ。




そしてマリアは、詰んだマーガレットの花の、あたまの部分(花冠?)をちぎって湖に投げた。すると、それは「花の小舟」のように浮かんだので、「怪物」もそれを真似て、もらった花を、同じようにして湖に投げ入れた。だが、その手持ちの花が無くなると、少女と遊べたことが嬉して、興奮していた「怪物」は、マリアを抱き抱えて、湖へ放り込んでしまうのである。

一一つまり、「怪物」には、マリアに対する害意は無く、ただマリアを「花」のように扱っただけなのである。
ところが、少女は水面に浮かぶことはなかった。そして「怪物」は、その予想外の状況が理解できず、ただそこから逃げ出すしかなかったのである。
彼には「死」という概念すらなかったから、少女を助けなければならないという発想にもならなかったのだろう。ただ、可愛くて優しい少女がいなくなってしまったので、なにか良くない事態になったのだとは感じ、ただただ恐れを抱いて、その場から逃げることしかできなかったのであろう。



結局は、このマリア殺害によって、「怪物」は村人から狩り出され、最後は焼き殺されることになるのだが、これは「悲劇」以外の何ものでもないのではないだろうか。
私は「フランケンシュタインの怪物」のファンとして、この点だけは、最初にハッキリと確認しておかなければならなかったのである。
(2)優生学的人間論なのか?
次の注目点は、前述のとおり、本来は「善人」の脳を移植するはずだったのに、フランケンシュタイン博士の助手の「せむし男」フリッツの手違いで、「凶悪犯罪者」の脳を「怪物」に移植してしまったのだが、結果としては、「怪物」は「凶悪犯罪者」にはならなかった、という点である。
つまり、人間の脳には「善人の脳」と「悪人の脳」があるというような、一見「優生学」的なことが語られているかに見えるのだが、そうでもないのである。
ウォルドマン教授が医科大学の授業で、2つのホルマリン漬けの「脳の標本」の瓶を示しながら「善人と悪人の脳とでは、明らかに違いがある。前頭葉の皺の数が、善人の方があきらかに多いのだ」というような説明をするシーンがあって、ここだけ見れば「優生学」的な「善悪二元論」が語られているようにも取れるのだが、結果として「悪人の脳」を埋め込まれた「フランケンシュタインの怪物」が、「悪人」にならなかったというのは前述のとおりだし、その結果からすれば、ウォルドマン教授の説明した「前頭葉の皺の数」の違いというのも、先天的なものではなく、生育環境などによる後天的な変化による違いだとも考え得るためである。
(3)奇形差別と虐待と性格偏向の問題
次は、フランケンシュタイン博士の助手である「せむし男」フリッツについて、見てみよう。

今の人は「せむし男」と言ってもピンと来ないかもしれない。
なぜなら、現に「せむし」なるものを目にする機会が無くなったからである。
「せむし」とは、要は「奇形」の一種であり、背中の肩に近い部分に大きな「こぶ」のようなものがある人のことを言う。
そして、この「せむし」という言葉も、今では「差別語」だと思われているから、使われることも無くなった。
長らく『ノートルダムのせむし男』(1956年)という名で有名として知られた作品も、ディズニーでアニメ化された時には『ノートルダムの鐘』(1996年)というタイトルに変更されてしまった。
今後は、この作品が映像化されることすらなくなってしまうのかも知れない。
解剖学的なことまでは知らないが、せむし男は(もちろん、女性にもいたはずだが、やはり男の方がネタにしやすかったから、せむし男ばかりが語られたのかもしれない)背中の肩くらいの位置に大きな(赤ちゃん大の)「こぶ」があって、またそのために常に腰を曲げた姿勢、要は巨大で重い「こぶ」を背負ったような姿勢をとることになった。
また、そのあたりで、一種「卑屈な印象」を与えたのであろう。背中に「こぶ」があったとしても、背中を伸ばして当たり前に立っていたのでは「奇形=怪物的」という「悪いイメージ」は薄くなる。
だから故意に、腰を曲げた「せむし男」しか描かれなかったのか、あるいは、「せむし」には背骨の奇形などの解剖学的な理由があり、そのために背を伸ばして立つことができなかったため、腰を曲げた姿勢ばかりが描かれたのかも知れない。
しかしまた、昔は「魔女」といえば「腰の曲がった老女」というイメージが確固としてあったので、やはり一般的には「腰が曲がっている」姿勢というものに、人は「否定的なイメージ」を強く持っていた、ということなのかも知れない。
ともあれ、本作においても「せむし男」フリッツは、フランケンシュタイン博士の「助手」だとはいうものの、もちろん「科学・医学の助手」ではなく、要は「雑用係」であり「下男」である。博士から、きつい命令口調で、あれこれ命ぜられ、それに素直に従うという立場なのだ。
そして、そういう立場を、彼自身も当たり前のものとして、受け入れている様子なのである。
いうまでもないことだが、昔は「奇形のある人」は「気味が悪い」と言って差別されたし、そのために能力があってさえ、「見栄えが悪い」という理由で、まともな職にはつけなかった。そのため、サーカスの「見せ物」になるしかなかった人も大勢いたのだ。
だから、彼としては、博士の助手という仕事は、きっと悪いものではなかったのだろうと考えられる。男爵様の息子で、ちょっと変わり者の博士だが、しかし、本質的には「悪い人」ではなかったし、なにより「ケチ」ではなかったはずだからだ。


しかし、そんな彼フリッツが、「フランケンシュタインの怪物」に対しては、無意味に虐待的であり、松明の火で脅かしたり、鞭を振るったりして、博士に止められても、まだそれを続けようとするそぶりまで見せたのは、なぜか。
普段の彼は、賢くはなくても、至って「まとも」であったのに、なぜ「怪物」に対してだけは、過剰に攻撃的だったのだろうか。
その答えは、ほぼ間違いなく、彼が「怪物」に、自分と同じ「奇形」性を見たから、なのではないだろうか。
だからこそ、彼は「怪物」が、自分の似姿のように感じられ、それが不快だから、その「似ている」という印象を否定すべく、ことさらに「怪物」にキツく当たったということだってのではなかったか。
ともあれ、最初は、自分の作った「怪物」にご執心だったフランケンシュタイン博士も、「せむし男」のフリッツが「怪物」に殺されたという悲惨な結果と、「あの怪物の脳には、犯罪者の脳が入っているのだ。だから、危険なんだよ」というウォルドマン教授の説得とによって、やっとその歪んだ執着から解放されることになり、フィアンセに伴われて、結婚のために自宅へ帰ることになる。
そしてその後、城の研究室に残って「怪物」を処分しようとしていたウォルドマン教授が、逆に「怪物」に殺されてしまう、という展開になるのだ。

そんなわけで、話を「せむし男の助手」フリッツに戻すと、本作の場合「せむし男の助手」という設定は、観客の「怪奇趣味」に媚びるものであったという事実は否定できないものの、ただ「不気味」に描いて事足れりとしたものではなかった、という事実は、ご理解いただけたと思う。
「せむし男の助手」フリッツが、「怪物」に対して異様に辛く当たったという「心の歪み」は、たぶん彼に対する「世間の差別的な視線」の生んだものであると、そう窺い得る描写になっているのである。
したがって本作は、「怪物」だけではなく「せむし男」フリッツに対しても、同情的な視線を向けている作品であり、そこは、決して見逃してはならない、キーポイントなのではないだろうか。
(4)理不尽なラストだからこそ現実的
以上見てきたように、最後は焼き殺されてしまう「怪物」しろ、その「怪物」に殺された「せむし男の助手」のフリッツにしろ、彼らはある意味では、世間の「偏見」の犠牲者だったのである。
だから、「怪物」によって風車小屋の屋上から投げ捨てられて大怪我をするものの、フランケンシュタイン博士ヘンリーの場合は、その傷もやがて癒えて、愛するフィアンセと結ばれるという結末になっているのは、一見したところは「ハッピーエンド」であっても、作品としては、「罪なき者が犠牲になり、罪のある者が幸福をつかむ」という理不尽なものでしかない。だから、「怪物」に同情を寄せる者には、いささか理不尽で、納得し難いラストとなっているのだ。
「なぜ、悪が裁かれ、善が勝たないのか」と。


だが、この物語のラストは、社会の「現実」をそのまま映したものであるからこそ、悲しい内容ではあっても、「傑作」たり得たのではないだろうか。
「勧善懲悪」でスカッとして終わり、なのではなく、曰く言い難い感情、ある種の「苦がさ」が残るからこそ、本作は記憶に残る作品になったのではないかと、私にはそう思えるのだ。
こう言っては大胆すぎるかもしれないが、「差別偏見」という「無知」の被害者だった「怪物」や「せむしの助手」のフリッツに対応する、本作中の他のキャラクターはと言えば、これも「無知の悲劇」の犠牲者であった、無垢な少女マリアだったのではないだろうか。
やはり、マリアと怪物と、そして「せむし男の助手」フリッツとは、どこかで通じ合っていたと、私にはそう思えてならないのである。

(2025年5月10日)
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