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ジェームズ・ホエール監督 『フランケンシュタインの花嫁』 : 呪われし結婚

映画評:ジェームズ・ホエール監督『フランケンシュタインの花嫁』:(1935年/アメリカ映画)

名作ホラー映画『フランケンシュタイン』(1931年)の正統続編作品である。
「正統」だと言うのは、同じ監督が、ほぼ同じキャストやスタッフをそろえた上で、前作の続編として撮った作品だからだ。

しかしながら、前作に続いて本作を撮ることになったジェームズ・ホエール監督が、望んで本作を撮ったのかというと、どうもそういうことではなかったらしい。
「Wikipedia」には、その事情が次のように紹介されている。

ユニバーサルは1931年、前作『フランケンシュタイン』試写会の時点で続編の製作を検討。ヘンリー・フランケンシュタインが続編にも出れるよう、前作のエンディングを変更した。ジェイムズ・ホエールは前作で「アイディアは出し切った」と『花嫁』の監督をいったんは辞退。しかしホエールは『透明人間』(1933年)もヒットさせ、プロデューサーのカール・レムリ・Jr『花嫁』の監督はホエールしかいないと確信。ホエールは『花嫁』を受ける条件として、ドラマ映画の『女は求む』を先に撮る。ホエールは続編は前作を上回らないと思っていたので、記憶に残る変な映画を作ることにする。撮影所の広報担当によると、ホエールは撮影所の顧問精神病医と「怪物の精神年齢は10歳の少年並、感情年齢は15歳の若者並」に決めた。二人は撮影所にいた10歳の子供たちをテストして、怪物が喋ることができる簡単な44の言葉を選択した。

1932年、前作の脚本を書いたロバート・フローリーが『The New Adventures of Frankenstein — The Monster Lives!(フランケンシュタインの新たなる冒険:怪物は生きていた!)』という脚本を書いたがこれは没になった。代わってユニバーサルの脚本家トム・リードが『The Return of Frankenstein(帰ってきたフランケンシュタイン)』という脚本を執筆。1933年にそれは採用され、リードはフル・シナリオを書いてヘイズ・コードに申請。無事審査はパスしたが、ホエールは「出来がひどい」と拒否。小説家のローレンス・G・ブロックマンとフィリップ・マクドナルドが雇われるが、ホエールはそれにも難色を示す。1934年、ホエールはジョン・L・ボルダーストンに違う脚本を依頼。怪物が仲間を創るよう求めるという話と、プロローグにメアリー・シェリーたちが登場するのはボルダーストンのアイディアである。しかしホエールはそれでも満足せず、さらに劇作家のウィリアム・ハールバットと作家のエドマンド・L. ピアソンに直しを依頼。1934年11月、そうして完成した最終稿をヘイズ・コードに提出する。(ホエールはエリザベスに"花嫁"へ心臓を提供させるつもりだった、とキム・ニューマンは主張しているが、映画史家のスコット・マックイーンはそれを真っ向から否定している)』

(Wikipedia「フランケンシュタインの花嫁」

見てのとおりである。

前作を見事な作品に仕上げたホエール監督は、賢明にも、前作で「アイディアは出し切った」』と考え『続編は前作を上回らないと思っていた』のだ。

しかし、どうしてもホエールに撮って欲しいというプロデューサーの要請を受けて、ホエール監督は「交換条件」を出すことで、本作『フランケンシュタインの花嫁』を引き受けることにした。

つまり、最初から「前作並みの作品を撮ることは、原理的に不可能だ」と思いながらも、そこは大人の打算と駆け引きで、別の撮りたい作品を撮らせてもらうかわりに、本作『フランケンシュタインの花嫁』を引き受けたのである。

だから、「動機が不純」だとは言えるし、なにしろ監督自身が「前作並みのものは撮れない」と考えているのだから、続編たる『フランケンシュタインの花嫁』が、前作に劣る作品になってしまったというのも、いわば当然の結果でしかなかった。
一一そう、本作『フランケンシュタインの花嫁』(以下『花嫁』と略記)は、やはり前作『フランケンシュタイン』には、明らかに及ばない作品なのである。

ただし、ホエール監督も、まったく無責任に『花嫁』を引き受けたわけではない。
つまり、前作には及ばないにしろ、それなりのものを作ろうと努力したのであり、それなりの工夫をし手間もかけた、というのは間違いない。
それは上に紹介した「脚本制作作業の難航」ひとつ見てもわかることで、やる気がないのなら、ここまで粘って、脚本の書き直しをさせはしなかっただろう。

つまり、当然の作家的プライドを持っていたホエール監督は、自身の名を冠する作品である以上は、やはりそれなりの水準に達したものを作ろうと奮闘したのである。

で、その「原理的に前作を超えることはできない続編における、それなりの工夫としての新基軸」として捻出されたのが、『記憶に残る変な映画を作ること』という方向性だったのだ。
前作が「正統派恐怖映画」として完成した作品であったのなら、それをそのまま引き継ぐだけでは、弱い。
だから、そこは「搦め手(変則的なやり方)」で攻めることにしたのである。

一一だが、これが成功していると見るのか否かで、本作の評価は変わってくる。

「続編としてなら、これもありだろう」と考える人は、比較的寛容な肯定的評価をあたえるだろう。
だが、本作を「独立した一本の映画」として見る者は、「余計なことをしている」作品として、むしろホエール監督の「続編における工夫としての新基軸」を、否定的に評価する。

一一無論、私自身は後者だったのである。

 ○ ○ ○

前作『フランケンシュタイン』は、あまりにも有名な作品だが、続編である本作『フランケンシュタインの花嫁』の方は、かなり知名度は低く、知る人は知る、つまり、モンスター映画好きは知る、という作品に止まっている。

私の場合だと、子供の頃に見た『海外妖怪モンスター図鑑』みたいな本で、ドラキュラ、狼男と並んでフランケンシュタイン(の怪物)が紹介されているページな片隅に、不鮮明なスチール1枚に簡単な紹介の囲み記事で、本作の存在を知ることになった。

それで、その存在こそ知ってはいたのだけれど、正編の『フランケンシュタイン』でさえ、モノクロ作品ということで、ほぼテレビ放送されなかった時代にあっては、その続編かつモノクロ作品の『花嫁』など、なおさらテレビ放映などされなかっただろう。未確認ではあるが、一度でも日本でテレビ放映されたことがあるのだろうか?

ともあれ、そうしたわけで、私にとっての本作『花嫁』は、生涯見る機会のないであろう、「幻の作品」だったのである。

だが、時代は変わって、今ではこんな古い作品が簡単安価に見られることになった。その意味では、まことにありがたい時代になったのだ。
見ようと思えば見られるんだから、気になっていた作品を見られないまま、それを思い残して死ななくても済むようになったのである。

したがって、本作を見られたこと自体は、まことにありがたいことなのだが、一一やはり前作を見ていると、これ(『花嫁』)で満足することは、私にはできなかった。
前作と比較して不満を感じないわけにはいかなかったし、その不満もまた、私の正直な評価のうちなのである。

そんなわけで、本作についての「不満な点」を語る前に、まずは本作の「ストーリー」「Wikipedia」から紹介しておこう。

『嵐の中、(※ シェリー夫妻の)屋敷で会談(※  歓談)するバイロン卿は、シェリー夫人の小説『フランケンシュタイン』を称賛する。(※ しかし、ロマン派詩人として著名な)夫シェリーは「結末があっけない」と不満を述べるが、夫人は「物語には続きがあるの」と返答して物語の続きを語り始める。

(※ 前作のラストで、フランケンシュタイン博士ヘンリーの創造した怪物が立て籠っていた)風車小屋が焼け落ちたのを見届けた市長は怪物が死んだと判断し、風車小屋から投げ出されて死んだヘンリー・フランケンシュタイン(※ 男爵・博士)の遺体を連れてフランケンシュタイン家に向かう。(※ しかし)娘マリアを怪物に殺された(※ 農夫)ハンスは、怪物の死を確かめるために焼け跡を探すが、足を滑らせて(※ 風車小屋の下の)地下水道に落ちてしまう。そこには生き延びていた怪物がおり、ハンスは怪物に殺され、夫の身を案じる妻も殺されてしまう。一方、フランケンシュタイン家ではヘンリーの婚約者エリザベスが彼の死を嘆くが、ヘンリーは(※ 奇跡的に)生きており屋敷の中は感激に包まれる。そこに(※ 風車小屋の焼け跡で、怪物に遭遇し、そこから逃げ帰ってきた)メイドのミニーが現れ「怪物が生きていた」と叫ぶが、執事のハーミットは「見間違いだろう」と相手にしなかった。

傷が癒えたヘンリーの元へ、大学時代の恩師プレトリアス(※ 哲学)博士が訪れる。プレトリアスも生命の創造を夢見ており、(※ ヘンリーを)研究室に招待して自身の作品を披露する。彼は小人(※ ホムンクルス)の創造には成功していたが、等身大の人間の創造を実現するためにヘンリーに協力を求めるが、彼は協力を拒否して研究室を立ち去る。同じ頃、森の中を彷徨っていた怪物は猟師たちに見付かり、報告を受けた市長は再び怪物狩りを始める。村人たちに捕まった怪物は警察署の地下牢に監禁されるが、鎖を引き千切り脱走する。怪物は盲目の老人が住む小屋に逃げ込み、老人は怪物を友として受け入れる。初めて自分を受け入れてくれる人間に出会った怪物は喜び、老人から言葉を教えてもらう。

しかし、猟師たちに発見された怪物は(※ 盲目の老人の)小屋から逃げ出し、墓地の地下に逃げ込む。そこには金で雇った犯罪者を連れたプレトリアスがおり、人間を創造するために少女の墓を荒らしていた。怪物と遭遇したプレトリアスは、「君に花嫁を作ってやる」と語り怪物を味方に引き込み、エリザベスを誘拐してヘンリーを脅迫する。ヘンリーはエリザベスを助けるためにプレトリアスに協力し、山奥の塔で花嫁の創造を行う。ヘンリーとプレトリアスは嵐の雷光を利用して花嫁の創造に成功し、怪物は仲間ができたことを喜ぶが、花嫁は怪物の姿を見て絶叫して彼を拒絶する。仲間からも拒絶された怪物は絶望して塔を爆破しようとするが、そこにエリザベスが現れヘンリーを助け出そうとする。怪物はヘンリーとエリザベスを脱出させ、プレトリアスと花嫁を道連れに塔を爆破し、ヘンリーとエリザベスは崩れ落ちる塔を遠くから見つめる。』

(Wikipedia「フランケンシュタインの花嫁」

以上のようなお話なのだが、本作における私の不満は、主に次の2点にある。

(1)本筋にはほとんど関係のない、コメディ的な要素が付け加わっている

(2)フランケンシュタインの怪物(モンスター)が、言葉を話し、表情も豊かになるなど、人間化しすぎていて、かえって「怪物の悲哀」が薄れてしまった。

まず(1)について

「ストーリー」で紹介されている、フランケンシュタイン男爵(博士)家のメイドのミニーというおばさんが、言うなれば物語冒頭部の状況説明役なのだが、これがとにかく元気で頑固でよく喋る賑やかなおばさんで、とてもホラー映画に似つかわしい登場人物ではなく、コメディ映画のそれなのだ。

例えば、上の「ストーリー」で紹介されている『メイドのミニーが現れ「怪物が生きていた」と叫ぶが、執事のハーミットは「見間違いだろう」と相手にしなかった。』というシーンだが、執事のハーミットにこうあしらわれて、ミニーおばさんは「ああ、そうかい。それなら、後がどうなっても私は知らないからね」と臍を曲げてしまうのだが、そういう問題ではないだろう、ということなのだ。
つまり、恐怖映画としてのリアリティがなく、コメディ映画的な性格描写になってしまっているのである。

(フランケンシュタイン家の、執事ハーミットとメイドのミニー)

また、フランケンシュタイン博士(ヘンリー)を再び人造人間制作に引き戻そうとする、新たなマッド・サイエンティスト(「哲学教授」という設定なのだが)のプレトリアス博士は、上で紹介されているとおり、ヘンリーに自分の人間創造の研究がどこまで進んでいるのかを説明するために、すでに開発に成功していた「ホムンクルス」を見せるのだが、このシーンがまた「コメディ」テイストなのだ。

最初は布を被せられていた高さ40センチほどの円筒形のガラスビンに閉じ込められた、身長20センチほどのホムンクルスは、それぞれに「王様」「女王」「法王」といったキャラクターが与えられており、そのまんまの衣装をつけ、それらしい様子でビンの中の椅子に座っていた。
だが、紹介のために、プレトリアスがビンからカバーを外すと、「王様」は隣のビンの中にいる「女王」が恋しいのか、自分が入れられたビンの開いた上部から逃走して「女王」のビンに取り付き、仕切りに「女王」の気を惹こうジタバタする。それに気づいたプレトリアスは、ピンセットで「王様」の襟首を摘むと、元のビンへと戻す一一といった「小芝居」がなされるのだ。
しかも、このシーンでの「ホムンクルス」の声は、意味は取れないが、いかにも人間の声を高速再生させただけの甲高いもので、小人の不気味さなどといったものはカケラもなく、どう見てもユーモラスなだけなのだ。

(ヘンリーに「ホムンクルス」を見せて、協力を求めるプレトリアス)
(ほとんどコメディ)

無論、これらが大笑いできるほど面白けば、それはそれで良いのだろうが、とうていそれほどのものではない。
単に、息抜き的に挿入されたコメディシーンという感じでしかなく、こちらとしては、そんな息抜きなどまったく期待していないのだから、むしろそんなものは邪魔でしかなかったのである。

次は(2)について

私の見たDVDのケース背面の「紹介文の見出し」は、次のようになっている。

人間味の加わったモンスターはどこかユーモラスで、ヒロインである“花嫁”モンスターとの共演は必見

ここでもわかるとおり、モンスター(フランケンシュタインの怪物)に「人間味」が加わった結果、彼の「悲哀」が強調されることになったのかと言えば、さにあらず。
たしかに、人間味は増したが、なまじ人間味が増しただけに、どこか間抜けな印象になって、その点で「ユーモラス」であり、コメディ的になってしまったのである。

もしかすると、ホエール監督は、モンスターの人間味を増すことで、彼の悲劇性を強調できる(より強く同情をひける)と考えたのかも知れないが、いずれにしろ、結果としては成功していない。
なぜなら、「モンスターは同情されて然るべき、哀れな存在である」という作り手側の意図が見透きすぎるために、かえってモンスターへの共感が薄れてしまったのである。

(モンスターに言葉を教える盲目の老人)
(モンスターに、パンと葡萄酒とタバコのうまさを教え、「友達」を作ってやると丸め込むプレトリアス。嬉しそうなモンスター。本作では、モンスターの笑顔が多い)

そして、その点では、

前作から引き続き怪物役を演じるカーロフは怪物が言葉を喋ることに反対だった。「話すだなんてばかげてる。怪物が衝撃的で魅力的だったのは、はっきりと喋らなかったからだ」

(Wikipedia「フランケンシュタインの花嫁」

というボリス・カーロフの意見は、完全に正しかったと言えよう。
だが、残念なことに、彼の意見は通らなかったようである。

「ストーリー」紹介にあるとおり、本作『花嫁』のラストは、

『怪物は仲間ができたことを喜ぶが、花嫁は怪物の姿を見て絶叫して彼を拒絶する。仲間からも拒絶された怪物は絶望して塔を爆破しようとするが、そこにエリザベスが現れヘンリーを助け出そうとする。怪物はヘンリーとエリザベスを脱出させ、プレトリアスと花嫁を道連れに塔を爆破し、ヘンリーとエリザベスは崩れ落ちる塔を遠くから見つめる。』

という悲劇的なものなのだが、そもそも「女性版モンスター」を作れば、モンスターの伴侶にできる(なる)という発想が安直であったというのが、このラストで明らかになる。

これは「子供脳」であるモンスターには予想できなかったことではあろうが、両博士がその可能性をまったく考慮していなかったというのは、ちょっと酷いのではないだろうか。

(花嫁をモンスターに引き合わせるが…)

言い換えれば、観客の立場としては、2体のモンスターが惹かれ合うように、何らかの工夫がされているのであろうと漠然と思い込んでいたのに、この身も蓋もない結末を見せられて、「なるほど、普通はそうなるわな」と納得はできても、「(フィクションとしての)お約束」を裏切られたような、釈然としない気持ちが残ってしまうのである。
「これでは、そもそもの花嫁創造作戦に、無理があったのだ」と。

だから、最後に、モンスターが、フランケンシュタイン博士ヘンリーとその妻エリザベスを逃すというのは、作り手の意図としては「感動的なラスト」ということなのだろうが、モンスターの、なまじ「人間味のある配慮」が、人造人間たるモンスターの悲劇には合致していないと、私には感じられた。

(警察署の地下牢に繋がれたモンスター)

つまり、私としては、モンスターの悲劇とは、本来は、彼自身状況をよく理解できないまま、悲劇の結末へと転げ落ちていく、といったところにあり、それでこそ彼の悲劇に説得力もあったと、そう考えるのである。

だから、モンスターが人間的になりすぎ、状況を理解できるようになったがために、かえって、その悲劇性が弱まり、陳腐化してしまったと、私は斯様に評価した。
作品全体としては、「続編としての工夫が、仇になってしまった」ということになるのではないだろうか。

 ○ ○ ○

さて、作品全体の評価を済ませた上で、いくつかの点について、補足的に書いておこう。

まず、肝心の「モンスターの花嫁」モンスターである。

デザイン的には「変わった髪型をした、性格のキツそうな女性」であって、外見的にモンスターらしいグロテスクさというのは皆無だ。
これは、プレトリアス博士が話すとおり、「人間の死体をつなぎ合わせるのではなく、(ホムンクルスと同様)植物を育てるようにして」作ったためであろう。

(古代エジプトの王妃ネフェルティティを参考にしたという髪型)
(物語冒頭のメアリー・シェリーと二役を演じたエルザ・ランチェスター

ただ、なぜか脳と心臓だけは人間のものを移植しなければならなかったようで、そのためにプレトリアスを墓荒らしをしていたのである。
またさらに、その脳や心臓は移植できても、それだけではモンスターに「生命」を宿らせることはできず、そこでフランケンシュタイン博士の協力による「雷の電気による、蘇生処理」という「仕上げ作業」が必要だった、ということのようだ。

なお、この「花嫁モンスター」が、なぜ「キツそうな女性」的外見を与えられていたのかというと、それはたぶん、外見的に「それなりにモンスター的」である必要があったからだろう。
つまり、死体をつなぎ合わせて作ったわけではないから、外見的には普通の人間そっくりで良かったのだが、ビジュアルとして、普通の美女では、死体が蘇っただけみたいな感じで、人造モンスター的ではないから、「キツそうな女性」という感じの外見が与えられたのではないだろうか?

しかしまた、そうした外見が与えられ、物語最終盤になってやっと登場した「花嫁モンスター」が、夫たるべきモンスターを見て、いきなり悲鳴をあげて恐れ、逃げようとするというのは、かなりの肩透かしである。

だから、私の好みで言えば、次のような展開の方が、まだマシだったように思う。

「モンスターは、花嫁を得たことに大喜びした。しかし、花嫁モンスターは、見かけどおりにキツい性格で、モンスターを自分の言いなりにして支配しようとした。
しかし、根が優しく子供のようなモンスターは、可憐な女の子が持つような優しさを求めていたので、その期待を裏切られたと知った時、彼はかえって絶望し、ついには自分を虐げた花嫁モンスターを焼き殺して、自分も同じ炎の中で死んでいくのであった…。」

一一と、こういうのは、いかがであろうか?

なお、本作『フランケンシュタインの花嫁』で、私が最も楽しめたのは、「花嫁モンスター」に生命を与えるための「落雷電気処理」のシーンである。

これは、基本的には、前作の「モンスター復活」シーンのバージョンアップ版なのだか、落雷用の凧を描くなど、作業の段取りがより丁寧に描かれており、そこにモンタージュされる、アングルに凝った博士たちの鬼気迫る表情も素晴らしい

可動性を増してバージョンアップされた実験室セットは、「メカフェチ」的な魅力に溢れるもので、このシーンを見るだけでも、本作を鑑賞する価値はあったと、「ストーリー」とは直接関係のない、この「見せ場の魅力」を、最後に強調しておきたいと思う。

(崩壊するプレトリアスの、城の研究所)



(2025年7月21日)


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