ジェイムズ・ホエール監督 『透明人間』 : 奇妙なユーモアの秘密
映画評:ジェイムズ・ホエール監督『透明人間』(1933年/アメリカ映画)
楽しい特撮映画である。
なにしろ、おおよそ100年前の娯楽怪奇映画なのだから、筋としては、どうってことはない。悪いというのではなく、可もなく不可もない。言い換えれば、この種のB級映画の王道と言っても良いだろう。

本作の見どころは、やはり透明人間の「特撮」で、もちろん今の3DCGと比較するようなものではないが、これをアナログ技術でやったのだと思えば、すごいの一語に尽きる。
どうやって撮ったのかは、理屈ではわかるけれども、では、当時の技術で「お前がやってみろ」と言われれば、絶対にできっこない。そんな途方もなく手間ひまのかかった面倒なことをやっている。まさに職人芸の世界なのだ。
だから、これは純粋に「お客さん」としての立場から見る現代の観客には、ただ古くさくチャチに見えるのかも知れないのだが、少しでも「作り手」の目を持っている人には、とても愉快な作品であり、敬意を持って鑑賞することの可能な作品なのだ。
透明人間についての特撮は、基本的には、服を着た俳優の顔や手の部分を黒い布で覆ったうえでの演技を撮影し、次は、先に撮った服を着た人物の着衣の部分を黒い布で覆って(マスクして)、背景を撮影する。この別撮りした両者を合成すると、透明人間ができあがるわけだ。
黒い覆った部分は、フィルムが感光しないから、合成した背景がほぼそのまま映って、顔や手の部分が透けたようになって見えるというわけである。
もっとも、普通に考えて、後の背景撮影の際に、先に撮った人間の部分をマスクするというのは、言うほど簡単なことではない。なにしろ人間は動いている(演技をしている)のだから、マスクする部分もひとコマごとに変化するからである。
だが、ひとコマずつマットする部分を変えて撮影すれば、それはコマ撮りに等しい作業ななるわけだし、それでも合成すれば微妙なズレによる隙間も生じて、そこは後で、これまたひとコマずつ修正する必要がある。
だか、これもとてつもなく面倒な手作業だし、そこが今のデジタル合成とは違うのだ。

ともあれ、そんなわけだから、私が子供時分に見た、テレビの特撮ものにおける透明人間表現などにおいては(ワイヤーによる操演は別にして)、本作ほどの手間がかけられてはいないので、合成時のズレによる隙間がそのままチラチラと残っていたりして、本作よりもずいぶん見劣りするものだった。
まただからこそ、それよりおおよそ半世紀も前の作品でここまでやっていたのだからと、感心しないではいられないのである。
もちろん、それでも限界はあったようで、人間の部分をマスクして撮影したガウンなどの場合、頭部で隠れる「奥襟」の部分は消えてしまっており、背景がそのまま映って(合成されて)しまっている。
この部分を修正できなかったのかと疑問に思ったのだが、まあ、出来なかったのだろう。その理由は、私にはよくわからないので、特撮に詳しい方で、ご存知の方がいれば、是非ご教示願いたいと思う。
さて、ここまではもっぱら「特撮」のことを書いてきた。これは、本作に対する私の興味が、もっぱらその部分にあったからなのだが、以降は「映画」の内容の部分について書いていこう。
まず、ストーリーだが、これは前述のとおり、この手の作品における、型どおりのものである。
SFファンなら誰でも知っている、『タイム・マシン』や『モロー博士の島』『宇宙戦争』などで有名なSF小説の始祖H・G・ウェルズの原作で、それに比較的忠実だが、それなりの改変も加えられている作品だ。
(ちなみに、もう1人の「SF小説の始祖」は、『海底二万里』などで知られる、ジュール・ヴェルヌである)

こうした改変は、本作が活字作品ではなく映像作品で、映像作品としての楽しさを活かすためのものだ。
たとえば透明人間になった主人公の「心理的な葛藤」などは、原作ではそれなりに面白く読めても、映画では見たくもないものだから、そういう部分は、当然、動きのある映画になるよう改変されているのである。
ともあれ、本作のストーリーをごく大雑把に説明すると、科学者としての野心から、秘密裏に「透明薬」を開発していたグリフィン博士(クロード・レインズ)は、完成したその薬を服用して、自ら透明人間になる(なぜか、復元薬を完成させていない段階で)。
しかし、その薬の元となった漂白薬の副作用を知らなかったために、博士はその副作用で、世界征服も可能だという誇大妄想に囚われて凶暴化し、犯罪を繰り返すようになり、最後は警察によって射殺される。一一と、そんな物語だ。
本作を監督したのは、私もすでにレビューを書いている、『フランケンシュタイン』『フランケンシュタインの花嫁』などを監督した、ジェイムズ・ホエールである。
当人は、別に怪奇映画が好きなわけではないようだが、『フランケンシュタイン』の成功で、本作の場合は、いく人かの監督候補者を経た後に、ホエールにお鉢が回ってきたようだ。
本作『透明人間』が、いかにもホエールの作品らしいというのは、人物配置の設定が『フランケンシュタイン』のそれと、とてもよく似ているという点だろう。
ウェルズの原作には登場しない、主人公グリフィン博士の師匠筋に当たるクランリー博士(ヘンリー・トラヴァース)とその娘フローラ(グロリア・スチュアート)。そして、凶暴化したグリフィンが自身の野望実現のために脅しで協力を求める元同輩のケンプ博士(ウィリアム・ハリガン)。
この3人の存在がそれである。

つまり、クランリー博士の娘フローラは、グリフィンと相思相愛だったので、グリフィンが失踪した後、彼のことを心配するといった展開、元同輩のケンプ博士も、実はフローラのことが好きで一一といった部分が、『フランケンシュタイン』の設定とおおむね重なるのである。
では、どうしてこうした設定が必要だったのかと考えてみると、映像的に派手な展開とするために、グリフィンの真面目な悩みは削って凶暴性を与えたものの、ただ透明人間のグリフィンが暴れ回るだけでは、ドラマとして単調になってしまう。
そこで、脇を補強して、そこにメロドラマ要素を付け加えた、と、そういうことなのではないだろうか。
だが、繰り返して言うが、こうしたストーリー面には、本作の面白みや特徴らしい特徴は無い。
また、ホラー作品として、フランケンシュタインの怪物やドラキュラや狼男のような「恐怖」を喚起するような要素もない。なにしろ、姿が見えないからだ。
端的に言って、透明人間の魅力とは「恐怖」であるよりも、「驚き」や「サスペンス」などであろう。
あるべきところに肉体が無いという驚き。そして、それを「どうやって撮ったんだろう」という(観客の)驚き。さらには「姿なく忍び寄る怪異の恐怖」である。
だが、本作に関して言えば、後者の要素は薄い。「姿なく忍び寄る怪異の恐怖」というのは、作中人物には「恐怖」でも、私たち観客の場合にはたいがいの場合、そのモンスターがいつその恐ろしい姿を現すのかというハラハラドキドキにあって、モンスターが姿を現さないまま、被害者を襲っても、その被害当事者ではないので、いまいち怖くはないためであろう。
実際、本作中の登場人物たちでさえ、グリフィンが、顔を覆っていた包帯を解いて、透明の姿を見せると、たしかに驚きはするもののの、さほど怖がっている様子はない。


透明人間そのものが怖いというよりも、姿が見えないので、いつ何をされるか、どこから襲われるかわからないから怖い、という感じなのだ。
実際、グリフィンが人々を怖がられようとするシーンでは、カッターシャツ1枚になったり、ズボンだけになったりして、そこにいるということだけは示してみせるし、その上での怖さとは、要は半透明の「幽霊」的な怖さであったり、物を動かす姿の見えないポルターガイスト的な怖さであって、フランケンシュタインの怪物やドラキュラ、狼男の的な、その存在感で圧倒する「モンスター」の怖さとは、質が違っているのである。

そのため、本作では、グリフィンが裸になって完全に姿が窺えなくなってしまうシーンでは、その存在を表現するための「ピアノ線による、器物などの操演」等には感心するものの、ちっとも怖くはない。
だから本作は、「恐怖映画」と言うよりも、むしろ「怪奇映画」なのだ。
フランケンシュタインやドラキュラ、狼男といったモンスターのように、その容姿をいかにも恐ろしげに不気味に見せるというわけにはいかないから、演出もおのずと変わってくる。
では、本作の演出が、『フランケンシュタイン』の場合とどう違うのかというと、『フランケンシュタイン』では抑えられていた、ホエール監督の「シニカルな笑い」が、かなり前面に出てきている、という点であろう。
本作には、透明人間に驚く人々の姿が、いささか滑稽に描かれているシーンが少なくなくて、それらのシーンは、怖いというよりも、むしろ笑えるものなのである。
これは、恐怖の対象である透明人間自体は見えないけれど、それに怯える人たちの姿だけは見えるからなのであろう。
そして、そうした滑稽さを代表するのが、本作では、透明になったグリフィンが、元の姿に戻るための薬を作るための潜伏先として選んだ、田舎の酒場兼宿屋の女将であり、その老女を演じた、ウナ・オコナーであろう。

オコーナーは、『フランケンシュタイン』や『フランケンシュタインの花嫁』にも出演しており、脇役ながら、その特徴的に派手な悲鳴と大騒ぎぶりで、強く印象に残っていたのだが、本作でも同様の演技で、見る者を楽しませてくれる。
実際、ホエール監督はオコナーをとても気に入っており、滑稽なほどに派手な悲鳴と大騒ぎぶりを、求めてオコナーにさせていたのだ。
したがって、ホエール監督自身は、怖がらせることや、モンスターの悲劇を描くことよりも、むしろこうした滑稽さの方が好きだったのかも知れない。
そんなわけで、オコナーの名演は別にして、私が本作でいちばん気に入ったシーンは、村の夜道を、画面右奥から左手前に向かって、太った中年のおかみさんが「ギャーッ」と悲鳴をあげながら必死で走ってゆき、少し遅れて、ズボンだけが見えているグリフィンが、つまりズボンだけが、何か楽しげな歌を歌いながらスキップするような足取りで、おかみさんを追いかけていくカットである。
この、いかにも脅かすことを楽しんでいるというのがわかる「足取り」に、思わず笑ってしまったのだ。
こうした、女性の「ギャーッ」というような悲鳴を伴う、派手な恐怖表現を見ていて連想したのは、日本の怪奇漫画家・楳図かずおの異色作であるギャグ漫画『まことちゃん』である。


この『まことちゃん』でも、主人公のまことちゃんのむちゃくちゃな行動に、大人たちはしばしば「ギャーッ」と驚きと恐怖の悲鳴をあげる。
まさに楳図かずおが得意とした恐怖漫画の登場人物さながらの恐ろしい表情で「ギャーッ」という派手な悲鳴をあげるのだが、その悲鳴の理由が、まことちゃんのウンチ攻撃などが理由などだから、つい笑ってしまうのである(ちなみに、『まことちゃん』を、ソフトな下ネタに振ったのが『クレヨンしんちゃん』なのかも知れない。『クレしん』には、『まことちゃん』のような、振れ切った麻痺的な笑いは見られないようだ)。

そんなわけで、本作も『フランケンシュタイン』と同様、基本的な建付けは「悲劇」なのだけれど、ホエール監督の本来の趣味は、どうやらそんなところには無さそうであり、そう考えるなら、『フランケンシュタインの花嫁』での、恐怖映画の趣旨とは微妙にズレた滑稽さは、監督本来の趣味に由来するものだったのがわかる。
例えば、言葉を覚えて喜び、笑みを浮かべるフランケンシュタインの怪物のとかいった、少々間抜けにも映るシーンは、監督の「滑稽趣味」の現れだったと考えれば、納得もできたのだ。
そんなわけで、例によって私の興味は、作品そのものよりも、その作者に向かう。作品論ではなく作家論、という傾向だ。
つまり一一本来「恐怖」映画として観客を怖がらせなければならないはずの作品に、つい「ひねった笑い」を込めてしまうジェイムズ・ホエールとは、いかなる人なのか? 一一と、そんな興味である。
すでに、人から教えられて知った、ホエール監督の伝記映画『ゴッド・アンド・モンスター』(1998年)のDVDも買ってあるのだが、しかしその前に、これまではあまり興味のなかった、ホエール監督の『魔の家』(1932年)も見なければなるまい。

なんでこれまでは、この『魔の家』にあまり興味が持てなかったのかというと、この作品は、タイトルどおりにホラー映画ではあるのだが、「Wikipedia」によると「コメディ・ホラー」となっていたからだ。
つまり、コメディには興味がなく、あくまでも怖い映画を見せて欲しかったのである。

だが、今や私の興味は、ホエール監督その人へと移った。
だから、ホエール監督の人柄という謎を解くためなら『魔の家』も見てみたいと考えたのだ。
伝記映画である『ゴッド・アンド・モンスター』には、その「回答」の示されている公算が高く、それを見てからでは、『魔の家』を見る気も失せるので、先に『魔の家』を見て、自分なりに謎解きをした上で、『ゴッド・アンド・モンスター』で、可能ならば「答え合わせ」をしたいのである。
ちなみに、『ゴッド・アンド・モンスター』で、ホエール監督を演じるのは、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズでガンダルフを、「X-MEN」シリーズでは悪役マグニートーを演じた名優イアン・マッケランで、私の大好きな俳優である。

とは言え、多趣味な私は、同系統のものを集中的に鑑賞するということは避けているので、次に『魔の家』を見たあと『ゴッド・アンド・モンスター』を見るのは、数ヶ月先なるかもしれない。
だが、それが今からとても楽しみなのである。
(2025年11月15日)
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