【夫婦関係 家事分担】 家庭内分業は、なぜいつまでもモヤモヤするのか
「料理、得意だから任せてね」と言った妻が、10年後に怒っている。
夫には、何が起きたのかわからない。 得意だと言っていたじゃないか。自分は自分で、仕事を頑張ってきた。 何が問題なのか。
この「わからない」には、理由がある。 見えていないのは、夫が鈍感だからではなく、構造が見えていないからだ。
では、その構造とは何か。 家事の量の問題か。性格の問題か。それとも、もっと別の何かか。
なぜ、こうなるのか
夫婦が「話し合って決めた」と思っていても、実は、社会が最初から答えを出している。
男性の収入が高ければ、「効率的に考えると男性が長く働く」という方向に自然と流れる。 女性が出産すれば、保育所の空き待ちと配偶者控除の壁が「働く時間を減らす」方向に押し込む。男性の職場には長時間労働と転勤がある。家庭を優先したくても、そもそも時間が設計されていない。
男女雇用機会均等法ができ、共働きが当たり前になっても、この構造はそう簡単には変わらない。個人が選んでいるように見えて、選択肢の形自体が社会の在り方で決まってしまっている。
二人がどう話し合っても、坂道の上に立っていれば、転がる方向はだいたい決まってしまう。「なんとなくこうなった」の「なんとなく」の正体は、社会が決めているその坂道だ。
その結果として、得意な方が損をする
社会が作った坂道は、家庭の中にも続いている。
「得意な方がやればいい」は、一見正しい。 料理が得意な方が作った方が、早くておいしい。家庭全体としては、効率がいい。
ただし、これを続けると何が起きるか。
得意な方に、どんどん仕事が集まる。 料理だけではない。掃除も、洗濯も、子どもの管理も、「得意な方」に引き寄せられていく。担当が固定されると、もう一方はいつまでも不得意なままだ。やる機会がないから。
気づけば「私がやらないと回らない」という状態になっている。
そしていつの間にか、役割だけでなく、立場が固まっていく。妻は管理者になる。 夫は「頼まれればやる」作業員。妻は「全体を把握して、気づいて、回す」。
「手伝おうか」という言葉が妻を疲れさせる理由は、ここにある。
しかも、二人は、別の現実を生きている
問題は、この状態が夫には見えていないことだ。
皿は洗った。でも、シンクは汚れたまま。コンロ周りもそのまま。生ごみも残っている。 夫は「やった」と思っている。妻は黙って後片付けをしながら、モヤモヤしている。
調査によると、夫婦の家事分担を夫と妻それぞれに聞くと、同じ家庭でも答えが大きく食い違う。妻の約9割が「自分の負担が7割以上」と答えるのに対し、夫の多くは「自分も3割程度はやっている」と思っている。
同じ家の中で、二人が別の現実を生きている。
なぜか。
夫は「やった作業」を数えている。妻は「気づいて、考えて、段取りして、実行して、確認する」というプロセス全体を見ている。見ているものが違うから、答えが合わない。
かみ合わないのは、どちらかが嘘をついているからではない。 そもそも、別のものを見ているからだ。そこに、このモヤモヤの本当の正体がある。
モヤモヤの出どころは、家事分担そのものではなかった
「女性は家事が得意だから」という説明がよく出てくる。 ただ、世界のトップシェフのほとんどは男性だ。 得意・不得意は、やってきた時間の差が作る。能力差ではなく、経験差だ。
では、なぜ妻だけが家庭の全体像を把握し続けているのか。
夫は家庭を「帰る場所」として見ている。帰る場所である限り、全体を把握する必要がない。 妻は家庭を「一緒に作るもの」として見ている。作る側は、全体を把握しなければ動けない。
つまりこれは、「誰がどの家事をするか」という問題ではなかった。「この家庭に、二人がどれだけコミットしているか」という問題だったのだ。
夫は家庭を「帰る場所」として見ている。外で戦って、帰ってきて、休む場所。 妻は家庭を「一緒に作るもの」として見ている。
同じ「家庭」という言葉を使いながら、二人はまったく別の場所に立っている。
妻が本当に求めているのは、家事をやってくれる人ではない。 この家庭の、当事者だ。
「手伝う人」は、頼まれたことをやる。当事者は、頼まれなくても動く。 この違いが、妻の評価をまったく別のものにする。
逆説的に言えば、こういうことだ。
夫がどれだけ家事をこなしても、当事者でなければ妻はあまり認めない。逆に、夫が当事者であれば、家事の負担の程度はそれほど問題にならないかもしれない。
妻が測っているのは、家事の量ではなく、この家庭への関与の深さだ。
では、どうすれば当事者になれるのか
一つ、答えがある。すぐには受け入れがたいかもしれないが。
「下手な方にあえて任せる」という選択だ。 家の中は少し雑になる。効率は落ちる。最初は収入が下がることすらあるかもしれない。
ただ、その分もう一方が外で働ける時間が増える。キャリアが戻り、収入が増え、社会とのつながりが回復する。
そして任された方は、やってみて初めて気づく。献立を考えること、在庫を把握すること、子どもの予定を先読みすること—— 家事とは作業ではなく、家庭という組織の運営だったと。
最初は下手でも、時間が経てば学習が進み、スキルは上がる。 掃除、洗濯、料理——やり続ければ、いずれ妻より得意になる分野が出てくるかもしれない。 世界のトップシェフのほとんどは男性だ。やれば、できるようになる。
ただし、ここで一つ注意がいる。
「やらされている」と「任されている」は、違う。
やらされているだけでは、頭は本当の意味では動かない。 でも任されると、責任感が生まれる。責任感が生まれると、頭が動き始める。頭が動き始めると、家庭の全体像が見えてくる。
そこで初めて、妻と同じ景色に少し近づく。 それが、当事者への道だ。
うまくいっている夫婦には、共通点がある。「指示を出さなくても、お互いに進んで動いている」「失敗しても責めない」という状態だ。頼まれるのを待っていない。気づいたら動く。それが当事者の姿だ。ただ、そういう夫婦は全体の3割にとどまる。
ここで一つ、正直に言っておきたい。 男が当事者になることは、家事をたくさん負担することよりも、おそらく難しい。
家事は行動の問題だ。当事者になることは、意識の問題だ。 社会が長年かけて作った「家庭は帰る場所」という認識を、自分で壊すことが必要だからだ。
それでも、片方だけが全体を抱え続ける家庭は、長くは続かない。
坂道を転がり落ちると
外の仕事だけに集中し続けた夫は、気づかないうちに家庭の実務能力を失っていく。子どものことがわからない。家の在庫がわからない。妻が何に疲れているかわからない。 外で強くなったつもりで、家の中ではどんどん無力になっている。
一方、妻は最初、不満を口にする。 伝わらない。変わらない。 やがて言わなくなる。
夫はそれを「落ち着いた」と思う。 妻の中では、静かに何かが終わっていく。
そのまま20年、30年が経つ。
子どもが独立したとき、夫は「これからは二人でゆっくりしよう」と言う。 妻は、その言葉を聞いて、何かが決壊する。
夫には突然に見える。 妻には、20年かけた結論だ。
たどり着いた場所
この記事は、家事分担の話として始まった。 誰が料理をするか、誰が掃除をするか。
でも、たどり着いたのは別の場所だった。
分業とは、単に、仕事を切り分けることではなかった。 突き詰めて辿り着く場所は、この家庭に、二人がどれだけコミットするか、という問題なのだ。
夫が皿洗いの回数を増やしても、妻のモヤモヤは消えない。 妻が求めているのは、作業量ではなく、当事者だから。
昭和的な完全分業でも、共働きで折半する家庭でも、形はそれぞれ違う。 ただ、どんな形であれ、本当に問われているのはコミットメントだ。
この家庭を、二人で作っているかどうか。 相手が何を背負っているか、本当に見えているかどうか。 「なんとなくこうなった」のまま、流されていないかどうか。
家事をどう分けるかという問題は、夫婦の在り方をどうするかという問題と、同じだった。
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