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【夫婦関係】 「手伝おうか」——その一言に、全部が入っていた

一言に、全部が入っていた。

「手伝おうか」

この言葉を、私は何度言っただろう。

善意だった。 親切のつもりだった。
何もしないよりずっとマシだと思っていた。

でも、この一言には、
言った本人が気づいていない何かが入っている。


言葉の中に「答え」がある

「手伝う」という言葉を辞書で引くと、
「人の仕事を助ける」とある。

助ける。 つまり、主役がいる。

「手伝おうか」と言う瞬間、
夫は無意識にこう宣言している。

これは、君の仕事だ。
僕は助けてあげる。

悪意はない。
むしろ親切心から出た言葉だ。

でも、その一言に、
家事や育児の「主役が誰か」という前提が、
丸ごと埋め込まれている

妻が、「手伝おうかって、何?」
と反応するのは、
言葉尻を捕まえているのではない。

その言葉の奥にある前提に、
反応しているのだ。


誰も決めていないのに、決まっている

では、なぜ「妻が主役」という
前提が生まれたのか。

誰かが決めたわけではない。
話し合ったわけでもない。

いつの間にか、そうなっていた。

子どもが熱を出したとき、
病院に連れて行くのは妻だった。
保育園の持ち物リストを把握しているのは妻だった。
夜泣きで起き上がるのも、妻の方が先だった。

夫はそれを「妻の方が得意だから」と思っていた。
あるいは「妻の方がやりたがっているから」と。

でも本当は違う。

誰もやらなければ困るから、妻がやった。

それが積み重なっただけだ。

そしてその蓄積を、
夫は止めなかった。

止めようとしなかった、
と言う方が正確かもしれない。

「いつの間にか」の正体は、そこにある。
決定ではなく、蓄積だ。
そして、その蓄積を放置した側がいる。


行動より、判断の方が疲れる

「手伝おうか」という言葉には、
もう一つの問題がある。

「何をするか」を、
妻に決めさせている。

子どもが熱を出した夜、
夫が「何かする?」と聞く。
妻は答えなければならない。

「じゃあ、薬を取ってきて」
「着替えを用意して」
「病院に電話して」

夫は言われた通りに動く。
それは助かる。

でも妻は、動きながら、
ずっと考えている。
次に何が必要か。
何を頼めるか。
何を自分でやるか。

これを「メンタルロード」と
呼ぶことがある。
頭の中で回り続ける、
家事と育児の管理業務だ。

行動は分担できる。
でも、判断は、なかなか分担できない。

「手伝おうか」と聞く限り、
判断は永遠に妻のものだ。


頼まれてからやるのと、気づいてやるのは、別物だ

夫が「手伝おうか」と言う。
妻が「じゃあ、お風呂お願い」と言う。
夫は子どもをお風呂に入れる。

行動としては、同じだ。
でも妻の感覚は、全然違う。

頼んでからやってもらうのと、
気づいて自分からやってくれるのは、
同じではない。

なぜか。

頼む、という行為自体にコストがかかるからだ。
状況を説明して、お願いして、感謝して。
それだけで妻は少し消耗する。

しかしそれ以上に、深い理由がある。

気づいてくれた、ということ自体が、ケアだからだ。

「大変そうだね」と思って動いてくれる人と、
「言われたからやる」人では、
一緒にいる感覚が全然違う。

子どもが夜泣きしているとき、
言われる前に起き上がってくれた夫と、
「起こして」と言ってから動いた夫では、
妻の孤独感が全く異なる。


なぜ夫は気づかないのか

ここまで読んで、
こう思う夫もいるかもしれない。

気づこうとはしている。
でも気づけない。

半分は、本当だと思う。
でも半分は、言い訳だ。

やらなくても、回ってきたからだ。

子どもの熱が出ても、妻が対応した。
保育園の準備も、妻がやった。
夜泣きも、気づけば妻が起きていた。
夫がぼんやりしていても、家は回った。

その経験が積み重なると、
当事者性は育たない。
育たなくても困らなかったから。

これを「構造の問題」と呼ぶことはできる。
でもそれだけでは、正直さが足りない。

見ようとしなかったのだ。

悪意があったわけではない、
と思いたいだろう。

しかし
「女がやればいい」という感覚が、
どこかにある男は、
おそらく今でも少なくない。

意識していなくても。
むしろ意識していないから厄介だ。

見なくて済む側にいることに、
慣れすぎていた。
それは悪意ではないかもしれない。
でも、無責任だった。

そして「見ようとしなかった」ということは、
裏を返せば、
見ようとすれば、見える
ということでもある。

能力の問題ではない。 意志の問題だ。


善意は、当事者性の代わりにならない

夫は悪くない、と思いたい。
善意がある。動こうとしている。
「手伝おうか」と声をかけるだけでも、
何もしない夫よりずっとマシだ。

でも善意と当事者性は、別物だ。

善意は
「あなたを助けたい」
という気持ちだ。

当事者性は
「これは自分の問題である」
という感覚だ。

善意だけでは、判断は妻のままだ。
気づきも、妻のままだ。
孤独も、妻のままだ。

妻が本当に疲れているのは、
家事や育児の量ではないことがある。

一人で当事者でい続けることの消耗だ。


では、何をすればいいのか

「手伝おうか」をやめることは、簡単だ。
言われる前に動けばいい。 気づいたらやればいい。

でもそれは、言葉と行動の話だ。
本当に必要なのは、その前にある。

自分も当事者だ、という感覚を持つこと。

ではその感覚は、どうすれば育つのか。
言い聞かせても、話し合っても、育たない。
なぜ育たないのか。そして、どうすれば育つのか。

それは、続編に詳しく執筆した。


最後に、正直に書いておく

ここまで偉そうに書いてきたが、
私自身がこの構造の中にいた。
今もいる。

「女がやればいい」とまでは思っていない、
と言いたいところだが、
「妻に任せておいた方が効率的」
という気持ちは、今でもある。

実際、妻の方が段取りがうまい。
把握している情報量が違う。
だから任せた方がうまくいく
——そう思う瞬間は、今でも多い。
「手伝おうか」は消えてはいない。

ただ、一つだけ、
完全に自分の担当にしたものがある。
料理だ。

OKで買い物して、週末に作り置きをする。
週中で、おかずが足りなくなると、
冷蔵庫を開けて、今日は何を作れるか、
自分で検討し続けた。

3年かかったが、
冷蔵庫の中身から、レシピを参考にしつつ
創造的に何かを作れるようになっていた。

それともう一つ、渦中にいる夫に言っておく。

子育てのピークが過ぎると、
少しだけ景色が変わる。
妻の負担が減り、
「手伝おうか」で険悪になる場面も、
自然と減っていく。

永遠には続かない。

ただ、その前に、
冷蔵庫を一度開けてみることは、
できるかもしれない。


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