伊藤和夫がやり残したこと(2)「文体論」「文体感覚」
(↑のつづき)
伊藤がその後に目指したであろう領域として私が考えるのは、言葉と社会との関係、具体的にいえば「文体論」である。

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これを意外と感じられる方もおられるかもしれない。
というのも、伊藤がおこなってきた分析は、静的であれ動的であれ、センテンスを単位としたものであり、とすれば、その次にくるのは複数のセンテンスの関係のあり方、つまりパラグラフ論やテキスト論に進むと考えるのが、どちらかといえば、自然だからである。
しかし、伊藤はそちらの方向には向わなかっただろうというのが、私の考えである。
理由としては、もし伊藤がパラグラフ論やテキスト論に強い興味を持っていたとすれば、はるか以前からその領域の分析をおこなっていたに違いないと思うからである。
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そもそも、センテンスの分析と解明もまともにできていない段階で、パラグラフやテキストの分析や解明に着手することなど、できるはずがない。
ところが日本の英語研究者の多くは、英米での研究の潮流に追随するかたちで、そうした研究へと傾斜している。
このような、相も変らぬ輸入学問のあり方を、伊藤はおそらく苦々しい気持ちで眺めていたのではないだろうか。
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文体論に話を戻すと、日本人が英語を読むときに決定的に欠けているのが「文体感覚」である。
日本人の外国語理解における文体感覚の欠如は英語理解に限られたことではなく、じつは漢文理解においても同様の事態が生じている。
というよりも、
千数百年にわたる漢文訓読の伝統が英語理解での文体感覚の欠如を生み出したと考えるべきである。
この漢文訓読での文体感覚の欠如については、高島敏男の『漱石の夏休み――房総紀行「木屑録」』に詳しい。
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このように日本人には英語の文体感覚が決定的に欠けているので、文体的に優れた英語もそうでない英語も、すべて同じものとして処理してしまうのである。
これでは本当の意味で英語が読めたということには決してならない。
文体感覚の欠如は、英語を書くときにも大きな障害となる。
自分の書いた英語がどのような文体なのかが自分自身で把握できないのであるから、言語感覚の鋭い人であればあるほど、なかなか筆が進まないのも当然のことである。
それでも英語が平気で書けるとすると、よほど言語感覚の鈍感な人であるにちがいない。
以上のようなことを考えると、文体論を伊藤が次に目指したであろうと推測することにそれほどの無理はないというのが、私の考えである。
もちろん、こんなことは、あくまで私個人の思い込みにすぎないのだが。
(つづきは↓)
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