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【エッセイ】【漫画】【映画】父と子と(上) 遠回り 萩尾望都と橋本忍を巡る幻想

 大好きな漫画がある。萩尾望都の「訪問者」(1980年)で、昔単行本のあとがきを読んでいたら、この作品が「砂の器」(1974年、野村芳太郎監督)にインスパイアされて描かれたという萩尾望都自身の言葉が紹介されていて、「えー!」と仰天した記憶がある。確かに、どちらも父と子の旅の物語ではあるのだが――。
 「訪問者」は少女漫画史に輝く名作「トーマの心臓」(1974年)のスピンオフ、前日譚的な作品で、「トーマの心臓」の主要登場人物、オスカー・ライザーが主人公である。オスカーは9歳。美しい母ヘレーネからは溺愛されるが、放浪癖のある売れない写真家の父グスタフからはネグレクトに近い扱いを受け、家庭に居場所のなさを感じていた。冷めきった夫婦仲。ある日、グスタフは別れ話を持ち出したヘレーネと口論となり、ヘレーネが薄々は感づいていたオスカーの「出生の秘密」を明かしたショックから衝動的に撃ち殺してしまう。他殺か、事故か、捜査を進めるバッハマン刑事。真相を知りながら父を庇うオスカー。バッハマンはグスタフの犯行を確信しながらも証拠が不十分のため、自首を促す。「あんたが自首して罪をつぐなうのが一番いいんだ。あの子はあんたの重荷の半分を肩がわりしてるんですよ」。グスタフはオスカーと愛犬シュミットとともに逃亡の旅に出る――ここから物語はドイツ各地を巡る一編のロードムービーのような展開となる。そう、父子の漂泊の物語である。

オスカー・ライザー

 父と子の旅といっても、その意味するところは「砂の器」とは大きく異なる。
 映画のクライマックス。執念の捜査の末に真相にたどり着いた警視庁刑事今西栄太郎(丹波哲郎)の捜査会議での逮捕状請求の弁。自作の初演を迎える作曲家、ピアニスト和賀英良(加藤剛)が指揮するピアノ協奏曲「宿命」。そこに幼き日の和賀と父本浦千代吉(加藤嘉)との放浪の日々の回想が重なる――カットバックを巧みに駆使した映画ならではの表現であり、日本映画史に残る名シーンとして語り草となっている。脚本の橋本忍は文楽における義太夫語り(=語り)、三味線(=音楽)、人形芝居(=映像)の一体化に着想を得たと述べている。そもそも松本清張の原作ではたった数行しか記されていなかった父子の遍路、そこからイメージを大きく膨らませてシナリオを大胆に構成し直し、この映画、すなわちこのシーンのために自らプロダクションまで立ち上げた橋本忍の賭けの勝利であろう。
 もっといえば原作は「父子の物語」ともいいがたく、大衆的基盤を欠いた若い「文化人」たちの倨傲と虚飾、その醜悪なエゴイズムを前面に押し出しているが、橋本忍はばっさりとそこを削っている。春日太一は「鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」の中でかなりのページを割いて「砂の器」を論じており、具体的なエピソードも交え、橋本と興行師の父徳治との関係を作品の中に読み込んでいる。映画のラスト、一心にピアノを弾き、指揮をする加藤剛の姿を見つめる、逮捕状を手にした丹波哲郎の決定的な台詞、「彼は今、父親に逢っている。彼には音楽……もう音楽の中でしか逢えないのだ」――「橋本も『フィルムの中で父と逢っていた』ように思えてならない」。この熱のこもった橋本忍論の白眉だと思う。
 ただ、「父子の宿命」というテーマが浮かび上がるのは、ようやく作品が終盤に差し掛かってからである。蒲田操車場での撲殺体の発見、駅近くのバーでの被害者と若い男の目撃情報、被害者の話す東北弁と「カメダ」という言葉、被害者三木謙一(緒形拳)の身元判明、東北とは縁もゆかりもないという三木、東北と出雲の方言の類似という余りに有名なトリック、「亀嵩」という地名の浮上、亀嵩村駐在所で善良な巡査として勤務していた三木、そして三木が助けたという乞食の親子、親子の影を追う今西……ミステリーの常道のように物語は進み、捜査がいよいよ佳境に入ろうとしたところで、かなり唐突に場面は先述の捜査会議へと飛ぶ。そして原作では背景として軽く触れられていたにすぎないハンセン病への差別という悲しい歴史が前景に出て、日本の四季を巡る父子の悲惨な旅が、ロマン派風の情緒たっぷりの主題曲をバックに、情感豊かに描かれる――。
 そう、この物語の展開の中での意表を突く場面の飛び方、作家としての「剛腕ぶり」、「力技感」とでもいったものに、橋本忍と萩尾望都、まったく異質に違いない両者の意外な資質上の親縁性のようなものを感じてならないのである。

砂の器

 「トーマの心臓」には同じキャラクター、別の世界線の「11月のギムナジウム」(1971年)という短編があり、前日譚である「訪問者」と併せて三部作として論じるのがふさわしいのかもしれないが、私の手には余るので深入りはしない。キリスト教からの直接、間接の引用、象徴群で満たされた「トーマの心臓」が、テーマとしては畢竟、パウロ神学の「代理贖罪」に収斂していくように思われるのに対して、「訪問者」のそれは親に受け入れられなかった子どもの苦悩と悲哀を描いている点で、すぐ後に連載が始まる「メッシュ」シリーズを先取りしているといえるかもしれない。また「トーマの心臓」がギムナジウム、全寮制男子校という閉鎖空間を舞台としているのに対し、「訪問者」後半では四季の移ろいを背景に、ドイツ全土を放浪する父子の様子が描かれており、暗澹たる物語ながら不思議な開放感がある。
 この父子の旅について、作品では「遠回り」という言葉が何度か印象的に使われている。最初、旅には目的があった。グスタフが生まれ育った北ドイツの街の凍った海を見に行くことだ。それはグスタフの心象風景だったのだろう。旅立ちの直前に刑事が自首を迫る場面を置いているところがうまい。しかし、堤防が切れていたため、目的地にはたどり着けず、二人はそのまま糸の切れた凧のようにさすらうことになる。「ぼくたちは長い遠回りを続けることになった。一月の末に家を出てから、ぼくたちは結局わき道にそれたまま、その日その日の気ままな旅人になってしまった」。グスタフに放浪癖があるという設定も効いている。
 この長い遠回りの間に、父子はそれまでの時間を取り戻すかのように、徐々に心を通わせていく。その日その日の困難をともに乗り越え、旅先での人々の人情に触れながら。それは氷が少しずつ解けていくかのようでもある。先回りしていえば、我々は時間軸ではこの後に続く「トーマの心臓」におけるオスカーの謎めいたキャラクターの由来を知らされる。なぜ彼は同学年の生徒たちより一歳年上なのか。「トーマの心臓」では主人公ユリスモールの庇護者、メンター的な立ち位置だが、彼の大人びたふるまい、落ち着き、包容力はどこからきたのか。この旅の経験が、少年に急激な人間的成熟を促したのであろう。
 やがて季節は一巡し、父子は当初の目的だった真冬の北海を訪れる。遠くまで凍った海、物悲しい風景が広がる。そして旅のよき道連れだった愛犬シュミットの死。シュミットは息子が生れた時、出生に疑念を持つグスタフが「当てつけ」のように飼い始めたのだった。父性愛の代理的対象だった愛犬の死をもって長い旅、遠回りは終わりを迎える。栄養失調のため視力を失いつつあったグスタフは、目が完全に見えなくなる前に南米に旅立つこととし、オスカーを大学時代の親友ミュラーが校長を務める全寮制のギムナジウムに預ける。大学を首席で卒業し、一流企業に就職するもドロップアウト、もっぱら芸術性の高い写真を撮るが周囲からは理解されず、ルンペン呼ばわりされる不適応者、哀れな中年男の物語として私はこの作品を読んでいる――ミュラー校長とオスカーの出生を巡る「因縁」、父子の永遠の別れ、オスカーとユリスモールの出逢い、涙が止まらないオスカー、父の家の中の子どもになりたかったという思い、オスカーを優しく慰めるユリスモール――物語はいったん幕を閉じ、そして新しい物語へと続く。

グスタフ・ライザー

 橋本忍と萩尾望都、普通に考えれば結びつくはずもないが、私の中では妙にしっくりくるものがある。結局のところ、私が資質的に惹かれるのは、精緻で堅固な構築性ということなのだろう。私は大島弓子がよく分からず、そのことをコンプレックスのように感じているが、その理由はその辺にありそうだ。岡崎京子がどこかで自身のことを萩尾望都の正統な後継者だといっていたと思うが、それもそういうことなのだろう。

 今回、「訪問者」を再読するにあたって、ほんの思い付きだが、「砂の器」の主題曲「宿命」を流しながら読んでみた。橋本忍は当初、映画のタイトルもテーマに即した「宿命」とするアイディアだったという。考えてみれば、出生の秘密、母の不慮の死、長い彷徨、父の遁走、実父が校長を務めるギムナジウムへの編入、心友ユリスモールとの出逢い、一本の糸に導かれるようなこの物語、「宿命」というタイトルだったとしてもおかしくはない。果せるかな、菅野光亮作曲のラフマニノフを思わせるピアノ協奏曲は、この愛すべき漫画にピッタリだった。

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橋本 健史 公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。

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