昭和、男もつらかった 7 生れ育った家①

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語を始めた。

 二夫の生年である昭和3(1928)年は戸籍上の記載でほんとうは1年早いことや、その背景などを述べたあと、昭和2年3年の概要を見てみた。そして二夫自身の物語に進む前に、生まれ故郷について前項で概観した。

 続いて、生れ育った家について述べてみたい。

 この家の建屋や屋敷についても、後に二夫の妻となるミヨ子(母)の物語を綴った「文字を持たなかった昭和」の中で「八十一(屋敷)」として述べている。再びミヨ子の物語から引用のうえ適宜加筆する。

  二夫が生まれ育った家屋敷に加え田畑山林、つまり一家が所有する不動産のすべては父親の吉太郎(祖父)が一代で買い求めたものだ。

 屋敷は、集落の中心部の田畑を囲むように走る農道から、外に向かって伸びるいくつかの坂のひとつを、少し上がったところにあった。敷地の入口(門口)は西を向いており、そこから細長い庭が延びていた。細いと言っても、入口はいまなら乗用車が通れる程度の幅があり、敷地の奥のほうはもっと広々としていた。

 吉太郎が屋敷を買った大正時代、そして二夫が生まれた頃ももちろん藁葺き屋根だった建屋は、母屋と納屋がつながっていた。建屋はもともと大工さんが自宅として建てたものを、まだ独身だった吉太郎が気に入って譲ってもらったらしい。購入後しばらくは大工さんも住んでいたという。天井を支える太い梁には原木の曲線が残り、味わいがあった。柱も太く、全体的にがっちりした造りだった。 

 建物全体は横長の南向きで、長く延びる庭に沿うように建っていた。庭を挟んで向かい側の、1メートルぐらい高くなった土地を畑として使い、畑の土手は土が流れないよう石垣を組んであった。

 もっともこの畑と石垣が最初からこんな造りだったのか、吉太郎が買い求めてから少しずつ改良したのかは、のちに生まれる娘の二三四(わたし)も確認したことはない。

 母屋の玄関を入ると広い土間があり、その左手に囲炉裏を切った10畳ほどもある居間「ゆるいん間」(囲炉裏の間)があった。居間のさらに左(上手)には仏壇と床の間をしつらえた「表の間」(仏間)があった。居間と表の間は庭に面しており、縁側で繋がっていた。縁側は夜になると雨戸を閉めた。玄関の引き戸も木製だった。

 居間の北側には箪笥などを置いた小さな部屋があり、これと壁を隔てる形で、表の間の北側にも四畳半ぐらいの納戸があった。このふたつは北向きである。

 台所は土間の奥、やはり北側にあった。古い造りの日本家屋の場合、食材が痛まないよう台所は北側にあるのが一般的で、この建屋も例外ではない。土間から地続きなので外履きのまま出入りする。北向きの台所は薄暗いうえ冬場はとても寒いが「台所とはそういうもの」でもあった。煮炊きは竈で、熱源はもちろん自分たちで刈ってきた柴や薪である。

 台所のすぐ脇には手押しポンプの井戸があった。坂の途中、つまりやや高い位置にある家ながら、的確に水源へたどり着けたのだろう、井戸の水は涸れることはなかった。(へ続く)

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