昭和、男もつらかった 8 生れ育った家②

 昭和初期、鹿児島の農村で生れ、農民としてこの地で82歳の生涯を全うした二夫(つぎお。父)の物語である。その生まれ育った家について、前項①から直接続ける。

 風呂場代わりに五右衛門風呂が台所の隅に置かれたのはずいぶん後になってからで、二夫が生まれた頃には近所に「もらい湯」をしていたと思われる。なにせ水道もガスもない時代、井戸から水を汲んで風呂を「立てる」(沸かす)ことはけっこうな労働であり、薪も大量に必要だ。

 そもそも現代のようにどの家にも風呂があったわけではなく、ふだんは行水ですませるのが都市部を含む当時の庶民の暮らしだった。例え農家でも薪は自分たちで木を切り倒し、適当な大きさに割ったり切ったりのあと、乾かしてからでなければ使えない。そんな労苦をかけた薪は、まず煮炊きに優先されたのだ。

 玄関から土間に入った右手は、木製の引き戸を隔てて納屋に続いていた。納屋は、外から直接入れるよう大きく開く引き戸が庭に面して付けられていた。中は15畳ぐらいの広さがあり、梯子を使って、いまでいうロフトのような中二階に上がることもできた。

 納屋は「うんまや(厩)」と呼ばれており、実際に牛を飼ってもいた。ここは鍬などの農具や収穫物などを収納・保管する場所であり、雨の日などに簡単な作業をする場所でもあった。湿気を避けられる中二階には、藁や軽い農具などを収納していた。

 「うんまや」の入り口や壁には隙間がたくさんあったので、小動物の類も自由に出入りした。次の年に植える穀物や野菜の種などは、風通しのいい袋に入れて納屋の柱や、梁から垂らしたる縄などに懸けてあったが、これはネズミに食われないためでもあった。中二階に保管した藁の中には大きな蛇が棲みつくこともあり、藁を取り出すとき吉太郎たちは慎重だった。

 トイレ、というか厠は納屋の外にある、いわゆる「外便所」だった。用を足すためには納屋を通ってもいったん外に出る必要があり、位置的には、「門口」(正門)から入って敷地のいちばん奥まった位置に厠があったことになる。ちなみに当時の農家の厠はほとんど外にあった。下肥(人糞)を肥料に使うためでもある。

 こんな造りの屋敷を「門口」側から見た景色で言えば、前方に長い庭が伸び、右手に畑、左手には小さな籔の先に屋敷があった。庭を進んでいくと、母屋の縁側が伸び、玄関、納屋、その先に厠、という順番になる。

 さらにその先は「木戸口」と呼ぶ裏門に相当する出入口である。こちらも別の坂に続いていたが、人ひとり通れる程度の細い山道といった風情の坂だった。すぐ脇を湧き水が流れており、昼間でも薄暗く湿っぽい坂だった。荷物が少ないとき、吉太郎はこちらの坂を通るのを好んだのがなぜだったのかはわからない。

 ところで、二夫が生まれてからかなり経つまで、母屋のそれぞれの部屋に畳は敷いてなく、床板の上に稲わらで編んだ茣蓙が敷かれている程度だった。のちに娘の二三四(わたし)が聞かされた「畳を入れた」時期は、二夫の「ごぜむけ」(御前迎え)つまり祝言のときか、ともかく何かおめでたいタイミングだったように思う。

 なお、屋根を藁から瓦に葺き直したのはもっとずっと後になってから、二三四が生まれた年のことだ。それとてまず母屋だけを葺き替えたので、「うんまや」の屋根が藁葺きだったことは二三四もなんとなく覚えている。

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