カナの婚礼(上):ミシュナが明かす、「水曜日」の結婚式に隠された理由と「死刑」の影
※本記事は、古代イスラエルの律法(モーセ五書および口伝律法ミシュナ)における法廷運用や賠償制度を、宗教史・法制史の観点から解説する学術的考察です。一部、当時の法律用語に基づいた表現を含みます。
イエスが最初のしるしを行った「カナの婚礼」。なぜこの婚礼は「三日目(水曜日)」に行われたのか?
福音書の場面を旧約聖書の最高権威モーセ五書(トーラ)と口伝律法(ミシュナ)を参考に紐解くと、そこには単なるお祝い事ではない、ユダヤ社会の法廷スケジュールと、死刑に関わる厳しい掟が姿を現します。
祝宴の初日にぶどう酒が切れることが、なぜ新郎新婦の人生を破滅させかねない致命的な事態になり得たのか。後編へ続く真相を、当時の法的背景から解説します。
ヨハネ伝が記す「三日目」の謎
ヨハネによる福音書2章には次のように書かれている。
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
まず冒頭に「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって」とある。ユダヤ暦では週の第1日目は日曜日であり、「三日目」は水曜日にあたる。彼らの1日は日没から始まるから、火曜日の日没から水曜日の夕方の日没までの時間である。カナの婚礼はこの時に開かれていたことになる。
ミシュナの掟:なぜ処女の結婚は「水曜日」なのか
これに関して、口伝律法ミシュナ「Ketubot(ケトゥボット)」1章には次のように書かれている。
おとめは水曜日に結婚するべきであり、やもめは木曜日にするべきである。というのも、1週間に2回、月曜日と木曜日に法廷ではセッションがあるからである。-彼が彼女の処女性について疑問を持ったなら、翌朝早く行くことが出来るから。
トーラが定める「処女性」を巡る過酷な裁判
律法において、再婚する女性は木曜日であるが、処女は水曜日に結婚するとされている。これはすぐ後にある通り、「1週間に2回、法廷ではセッションがあるから」である。旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)には次のように書かれている。
人が妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「わたしはこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老たちに差し出し、娘の父は長老たちに、「わたしは娘をこの男と結婚させましたが、彼は娘を嫌い、娘に処女の証拠がなかったと言って、虚偽の非難をしました。しかし、これが娘の処女の証拠です」と証言し、布を町の長老たちの前に広げねばならない。町の長老たちは男を捕まえて鞭で打ち、イスラエルのおとめについて悪口を流したのであるから、彼に銀百シェケルの罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。彼女は彼の妻としてとどまり、彼は生涯、彼女を離縁することはできない。しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。
名誉と罰則:新郎を縛る三つの重罰
これは新郎が初夜の後に法廷に訴え出た場面である。彼は「花嫁が処女ではなかった」と主張する。
それが新郎の中傷であるなら、両親が娘の処女である証拠を携えて、町の門にいる長老たち、つまり法廷の判事たちに差し出す。具体的には血の付いた衣類や寝具である。
本人でない者が提出している点が気になるだろうが、通常女性は12歳から半年間のnaarah(ナアラー)と呼ばれる期間に嫁に出される。この期間は成人に達する直前ではあるが、成人ではない。
また娘の貞潔は家族全体の誉れでもあるので、証拠を管理し、法廷に出すのは娘の両親の役割とされている。
そこで証拠が認められるなら、新郎は法廷の判決に従って鞭打たれ、銀100シェケルを妻の父親に払うことになる。銀200シェケルは離縁の場合の補償がその半分であることを考えると、かなりの高額である。経済的に大きな罰則を規定することで、軽率な非難を抑止している。
もう1つ、中傷した新郎の罰則は「生涯離縁出来ない」事である。トーラには次のように書かれている。
人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。
離縁をして婚姻関係を解消するのは、男性の権限である。その権利を奪われることになる。
(離縁に関する詳細は、次の記事からご覧頂けます)
◉イエスの離縁禁止――トーラの権威とミシュナへの抵抗
https://note.com/mishnah/n/n45d511758037
23人法廷の出動:父親の家の戸口で執行される裁き
まとめると、新郎への罰則は次の3つになる。
鞭打ち
銀200シェケルの罰金
生涯離縁出来ない
しかしその非難が正当であるなら、恐ろしい展開が待っている。「娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである」(ibid.)とある。
結婚の契約を結びなら、他の男性と性行為することは、たとえまだ夫の家に移っていない、「父親の家にいる」段階でも姦淫と見なされる。
「父親の家の戸口」で執行されるのは、娘の監督責任が父にあったことを示し、家族の恥をその家で清算するという象徴的な意味を持っている。
なお、以上のようにこの種の事案は死刑に関わる裁判になるので、23人の判事による法廷によって審理されなくてはならない。
23人の法廷は120人以上の人口のいる町に、エルサレム神殿の最高法院の決定によって認められる。
23人判事の法廷については、以下の記事に詳しく解説しているので、そちらも見て欲しい。
◉イエスを裁いた『最高法院』への道(4回目):旧約聖書の裏に隠れている23人判事の法廷
https://note.com/mishnah/n/n2f6ef3d336ed
安息日の壁:日曜日が選ばれない現実的な理由
話を戻すが、「おとめは水曜日に結婚するべきである」という「ketubot」1章1節の掟は、木曜日に法廷が開かれるからという事情による。
従って現代人の私たちの感覚では、上のような状況を知ると、お祝い一色の雰囲気であるより、物々しい感じがする。
法廷は月曜日にも開かれるから、婚礼は日曜日でも良さそうなものである。しかしもし日曜日に結婚式をするなら、土曜日(安息日)に準備をしなくてはならない。安息日には極めて多くの活動が、神の安息を記念して慎まれる。準備が可能な日ではない。
七日間の祝宴:初日にぶどう酒が切れることの絶望
カナの婚礼は「三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって」とあるので、この点で一致するものである。
次に婚礼の期間について述べる。トーラには次のように書かれている。
ラバンは答えた。『我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。』ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。
期間が1週間であると述べられている。同じことは士師記14章にも書かれている。
あなたたちになぞをかけたい。宴会の続く七日の間にその意味を解き明かし、言い当てるなら、わたしは麻の衣三十着、着替えの衣三十着を差し上げる。
この7日間は 花婿側が宴会の費用を負担し、村中をもてなすのが通例であったらしい。そのため、ヨハネによる福音書2章で「ぶどう酒が足りなくなる」というのは、新郎側にとって契約不履行となり得るものであり、一種の法的賠償を伴う社会的不名誉であった。
口伝律法ミシュナ「Bava Kamma」8章1節は損害賠償について扱っているが、そこには次のように書かれている。
もし誰かが誰かに傷を負わせたなら、彼は5つのことで有責になる。傷害、苦痛、治療、時間、恥。
・・・(中略)・・・ 恥とは?全ては侮辱した者、侮辱された者の社会的な地位に従う。
ここではもしも傷害事件を起こしてしまったら、「5つのことで有責になる」と言っている。具体的には「傷害、苦痛、治療、時間、恥」である。これは5つの側面から被害者に補償するという事である。
ここで直接的に扱っているのは傷害事件であるが、人の身体に傷を負わせない形での損害にも準用される。婚宴においてぶどう酒を提供しないのは、最後の「恥」に関わる。これは「Bava Kamma」本文にある通り、加害者と被害者の社会的地位を元に、精神的な苦痛を補償するものである。
招かれた客、特にchaverim(ハヴェリーム)など地域の名士が十分なもてなしを受けられず、恥をかかされた場合、それは一種の不法行為にあたる。
(chaverim[ハヴェリーム]については後の回で扱いますが、以下の記事で詳しく解説しています。取りあえず福音書のファリサイ派をイメージして下さい)
◉ファリサイ派とは何者か?(1)―アム・ハアレツとネエマンの境界線
◉ファリサイ派とは何者か?(2)―「仲間(ハヴェリーム)」だけが座れる聖なる食卓
他方でこのような失態は、新婦の家族に対する侮辱にもなる。公的な場で面目を潰したのだから、婚約破棄や慰謝料請求の法的根拠にもなり得た。
更に広く、社会における信用にも関わったものである。当時の社会は相互扶助で成り立っており、「婚礼の祝宴」は、新郎が「独立した家庭を持ち、地域社会の一員として客をもてなす能力があること」を証明する場でもある。
ここで初日からぶどう酒を切らすという事は、法的な賠償以上に、社会的な信用を失うことを意味する。
この続きは次回扱うことにする。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef
