イエスを裁いた『最高法院』への道(4回目):旧約聖書の裏に隠れている23人判事の法廷
※本記事は、古代イスラエルの律法(モーセ五書および口伝律法ミシュナ)における法的権利と賠償制度を、宗教史・法制史の観点から解説する学術的考察です。一部、当時の法律用語に基づいた表現を含みます。
イエスを裁いたことで有名な最高法院よりも1つ審級が下の法廷は、23名という人数で構成されていた。その根拠は40年の荒野放浪の原因となったカナンの偵察隊と、死刑に関わる裁判における「特殊な多数決のルール」にありました。今回は、ミシュナが解き明かす「23人法廷」の由来と、現代人の目には奇妙に映る「動物を裁く裁判」の深い意図を解説します。
死刑を司る「23人の法廷」とその定義
前回までは計3回を費やして3人判事の法廷について扱った。今回は23人判事の法廷について扱う。まず口伝律法ミシュナ「Sanhedrin(サンヘドリン)」1章4節の冒頭部分を読んで欲しい。
死刑は23人の法廷で裁かれる。
前回までの事案を例に取ると、盗難事件、傷害事件、婦女暴行に関する事件は3人判事の法廷で裁いていた。ミシュナのこの箇所において、死刑に関わる審理は23人の法廷で行うことが明記されている。
ミシュナが明かす「23人」の法的根拠
この「23人」という人数が気になるところであるが、その由来については「Sanhedrin」1章に書いてある。長文になるが引用する。
大サンヘドリンは71人の判事で構成される。下位は23人である。どこに71人という人数に根拠があるのだろうか?・・・(中略;最高法院の議員数の説明)・・・どこから下位のサンヘドリンは23人と言えるのだろうか?なぜなら次のように書かれている。「共同体は裁かなくてはならない・・・共同体は救わなくてはならない」(民35:24)。裁く会衆と救う会衆。こうして20人になる。どこから会衆は10人構成であることが分かるのだろうか?なぜなら次のように言われている。「この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか」(民14:27)。ここではヨシュアとカレブが省かれる。そしてあとの3人が含まれるのは、どこに根拠があるのか?次の節から暗示されているとする。「あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない」(出23:2)。それではなぜ、「多数決に従って判決を下さなくてはならない」(ibd.)とも言っているのであろうか?有罪判決を下すのは、無罪放免する判決とは異なるからである。無罪放免するのは1人で足りるが、有罪にするのは2人を要する。しかし如何なる法廷も偶数であってはならないから、我々はもう1人を加え、全部で23人としている 。
冒頭に「大サンヘドリンは71人の判事で構成される」とは、最高法院の議員の人数について言っている。これについてはこのシリーズの最初で解説しているので、そちらを見て欲しい。
◉イエスを裁いた『最高法院』への道(1回目):旧約聖書の裏に隠れている3人判事の法廷①
なぜ「10人」が単位なのか——民数記の「悪い共同体」
問題になるのは、「どこから下位のサンヘドリンは23人と言えるのだろうか?」から下の箇所になる。これは23人の法廷が存在することを証言すると共に、その人数の由来を問うものである。
最高法院はここでは「大サンヘドリン」と呼ばれている。1つ審級が下の法廷が「下位のサンヘドリン」と書かれている。私たちが通常サンヘドリンと言う時、最高法院をイメージするが、下位の審級もサンヘドリンと呼ぶことがある。これは3人判事の法廷も同じである。知っておいて欲しい。
ともあれ、ここでは23人である説明をしている。本文は難解だが、順番に説明する。まず、民数記35章の次の箇所を読んで欲しい。
共同体はこれらの判例に基づいて、殺した当人と血の復讐をする者との間を裁かなければならない。すなわち、共同体は、人を殺してしまった者を血の復讐をする者の手から救い出し、共同体が、彼の逃げ込んだ逃れの町に彼を帰さなければならない。彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない。
これは故意ではなく過失によって人を殺してしまった場合の法定手続きを語っている。過失致死の責任を負った者は、逃れの町に逃げなくては、親族から復讐される恐れがある。
この時彼を裁く「共同体」の役割は、2つに大別される。厳しく裁く役割と、彼を救い出す役割である。本文ではどちらも「共同体」という語が使われている。
「共同体」はヘブライ語の発音で表記すると「edah(エダー)」である。ユダヤ教の聖書解釈の方法では、異なった箇所で同じ単語が使われている場合、互いの意味を補足し合うという原則がある。
ではこの民数記35章以外のどこで「共同体(edah(エダー)が使われているのだろうか。次の箇所を見て欲しい。
主はモーセとアロンに仰せになった。「この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか。わたしは、イスラエルの人々がわたしに対して言う不平を十分聞いた。彼らに言うがよい。『主は言われる。わたしは生きている。わたしは、お前たちが言っていることを耳にしたが、そのとおり、お前たちに対して必ず行う。 お前たちは死体となってこの荒れ野に倒れるであろう。』
これはヨシュアを始めとする偵察隊がカナンの地を見回り、イスラエルの共同体にその報告をした後の部分である。神は偵察隊の偽りの報告に罰を宣告しているものである。
というのも偵察隊は全部で12名であったが、ヨシュアとカレブ以外の10名は、次のような報告をしたのである。
彼(カレブ)と一緒に行った者たち(10名)は反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。
このようなことを言う10名に対し、神は「この悪い共同体」と言われたのである。この「共同体」は「edah(エダー)」に他ならない。
話をまとめると、次のようになる。
①民数記35章の過失致死に関わる裁判(死刑に関わる裁判)においては、厳しく裁く共同体と、救い出す共同体がある。
②民数記13~14章において、「共同体」は10名の集団に使われている。
③従って、死刑に関わる裁判には、厳しく裁く判事10名、救い出す判事10名、合計20名がいるべきである。
それがこの記事の冒頭に掲げた口伝律法ミシュナ「sanhedrin」1章6節の次の箇所の説明になっている。
裁く会衆と救う会衆。こうして20人になる。どこから会衆は10人構成であることが分かるのだろうか?なぜなら次のように言われている。「この悪い共同体は、いつまで、わたしに対して不平を言うのか」(民14:27)。ここではヨシュアとカレブが省かれる。
20人から23人へ——「1票差では殺せない」という鉄則
ご自身で理解出来るであろう。次にこの続きをもう一度掲載する。
そしてあとの3人が含まれるのは、どこに根拠があるのか?次の節から暗示されているとする。「あなたは多数者に追随して、悪を行ってはならない」(出23:2)。それではなぜ、「多数決に従って判決を下さなくてはならない」(ibd.)とも言っているのであろうか?有罪判決を下すのは、無罪放免する判決とは異なるからである。無罪放免するのは1人で足りるが、有罪にするのは2人を要する。しかし如何なる法廷も偶数であってはならないから、我々はもう1人を加え、全部で23人としている。
これは言っていることは簡単だが、それを辿る文脈が難しい。解釈が困難なのは「多数者に追随して悪を行ってはならない」(出23:2)の句にかかっている。これは「多数派に迎合して正義を見失ってはならない」という意味ではない。
むしろ「もし極刑に関する法廷で有罪とする場合、単なる過半数(1票差)で決めてはならない」を意味していると考える。そこでその種の裁判で有罪にするには、2票差が付いていなくてはならないとするものである。まとめると
厳しく裁くもの10名+救い出す者10名+有罪となる為の2名 = 22名
が必要になる。しかし偶数では半分に割れて同数になってしまうので、もう1名足して23名になる。
このように計算し、死刑に関わる法廷は23名になるのである。有罪になるには2票差を要するから、11対12では有罪判決を下すことは出来ない。最低でも10対13になる必要がある。
以上で23人判事の法定の人数について扱った。
23人法廷の管轄事項——人間以外の「被告」たち
次に、この23人の判事の法廷にとって、どのような事案が管轄事項になるのか見てみよう。「sanhedrin」1章4節には次のように書かれている。
死刑は23人の法廷で裁かれる。動物との交わりに使われた動物の裁判は23人の法廷で裁かれる。次のように言われている通りである。「いかなる動物とであれ、これに近づいて交わる女と動物を殺さねばならない。彼らは必ず死刑に処せられる」(レビ20:16)。石打にされる牛 は23人の法廷で裁かれる。次のように言われている通りである。「牛は石で打ち殺され、所有者もまた死刑に処せられる」(出21:29)。所有者が処刑される仕方で、牛は殺される。
最初の文章「死刑は23人の法廷で裁かれる」についてはこれまで扱った。続きに具体的な管轄事項が列挙されている。以下の通りになる。
①性交に使われた動物の裁判
②人を殺した牛の裁判
以下、順番に解説する。
動物との交わりに関わった動物と「罪の記憶」の抹消
まず①について、トーラのレビ記20章に次のように書かれている。
いかなる動物とであれ、これに近づいて交わる女と動物を殺さねばならない。彼らは必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる。
日本語の翻訳では「彼らの行為は死罪に当たる」としか書いていない。しかし原文には更に「彼らの血は彼らの上にある」という句が付けられている。これは処刑の仕方としては最も過酷な石打ちの刑を指している。
動物と交わった者は、その者も動物も石打ちの刑になることを示唆している。ミシュナ「Sanhedrin」7章にも次のように書かれている。
次の者たちは石打ちにされる。実母と関係する者、あるいは父の妻、義理の娘、同性、動物と交わる者、動物と交わる女、・・・(中略)・・・もし人が罪を犯すなら、動物の罪とは一体何か?しかし人がその生き物を通して破滅を招いたのであるから、聖書はそれを石打ちにするように命じている。それはまた、その動物が歩いている時、人々が次のように言わない為である。「こいつのお陰で、誰々が石打ちの刑になったのだ。」
ここでは動物と交わる者が石打ちの刑になることを明確に記している。また、動物の罪とは何かと問いつつ、動物も殺されなくてはならない理由も説明している。
それはもしその動物が生きているなら、その動物が市場を通り過ぎるたびに、人々が「これがあの男が石打ちになる原因となった動物だ」と言うからである。
この種の事案も23人の法定で審理する。
人を殺した牛の裁判——命の重さを刻む法的儀式
次に「②人を殺した牛の裁判」についてだが、これに関してはトーラに「牛は石で打ち殺され、所有者もまた死刑に処せられる」(出21:29)と言っている。
所有者にも牛にも石打ちの刑という最も重い刑が指定されている。牛は「危険な個体だから」という理由で、勝手に殺してはならない。それは所有者と同様に法廷の場で決定する事である。
なぜ動物の殺し方まで法定で審理しなくてはならないのだろうか?それは人間の命を奪ったことの重大さを、律法に定められた法廷と執行という過程を通して、共同体全体に認識させる意図があるとされる。
結び——法廷の人数が示す「命の尊厳」
以上で23人の法廷について解説を終えた。次回はいよいよ71人の最高法院について語る。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるためのご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
【シリーズ目次】ミシュナ『Sanhedrin』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n8cf87c1bb399
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
