ファリサイ派とは何者か?(1)―アム・ハアレツとネエマンの境界線
*「形式主義で愛がない」という批判的・典型的なファリサイ派像は、果たして真実なのか。律法の複雑さに取り残された「am haaretz(アム・ハアレツ:地の民)」と、厳しく十分の一税の遵守を誓った「ne'eman(ネエマン:忠実な者)」。ミシュナが語る膨大な口伝律法の山を背景に、当時のユダヤ社会の階層構造と、世俗的生活・敬虔な生活の境界線を浮き彫りにします。
新約聖書におけるファリサイ派の二面性
ファリサイ派と律法学者という組み合わせは1つになって、新約聖書に度々登場する。
今回から数回の回数を重ねて、まずファリサイ派とは何者なのかを解説したいと思う。
ファリサイ派は2つの仕方で登場する。まずは使徒言行録23章から。
(1)サドカイ派との対比において
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。
この箇所におけるファリサイ派は、上記の小見出しの通りサドカイ派との対比において現れている。
サドカイ派とは何者か、本文に書かれている通り、彼らは復活を信じていない。サドカイ派は旧約聖書を文字通りにしか扱わず、イスラエルの民が継承してきた口伝の教えを尊重していない。
正統なユダヤ教のラビたちが彼らをどのように見てきたのかという問題については、ここでは扱わない。結論としてサドカイ派とは異端であるユダヤ教のあり方であり、ファリサイ派は正統派である。それが政治的な軋轢にもなっているのが、上記引用から窺える。
つまり、この箇所におけるファリサイ派とは、ユダヤ教内部の対立構造の一端として使われている。
(2)律法を厳格に守る人たちの呼称として
ファリサイ派のもう1つの登場の仕方は、律法を細かい規定に至るまで、厳しく守っている姿としてである。
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。
ここでは、ファリサイ派の人たちが食前の手洗いを絶対に守っていた次第について、それどころか「杯、鉢、銅の器や寝台を洗うこと」までしており、「昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」ことを言っている。
寝台まで洗うことに驚き、真実性を訝る方もいるであろうが、如何なる場合に寝台も洗う必要があるのか、正統な律法の中で彼らは論じている。
この箇所は誇張でも何でもなく、事実をありのまま語っているのである。
私たちが問題にするのは、ほとんどの場合この2番目の特徴(律法を厳格に守るあり方)についてのファリサイ派である。私たちはファリサイ派というと形式だけにこだわり、愛がない浅薄で厳格な者をイメージしているのである。
しかし読者も少しは思ったことがあるだろう、「ファリサイ派とは、本当に形式だけの人たちであったのだろうか?彼らは旧約聖書には一切現れていない。一体いつ発生し、どのようにそこに属し、人々に認知されるようになったのか。また如何なる意味でその他の『貧しい人、無知な人々』と異なったのだろうか」と。
本稿、またこれに続く数回の記事においては、これらの一連の疑問(ファリサイ派の起源や実態など)に出来る限り答えるものである。
実はファリサイ派について理解するのは、それ程容易なことではない。ユダヤ教徒がファリサイ派について理解するのは、簡単である。なぜなら彼らは旧約聖書に何が書いてあるのか知っているから。
しかしキリスト教徒は実質的に、旧約聖書が何であるのかほとんど知らない。せいぜい「字面を追ったくらい」であるだろう。キリスト教徒はイエスの十字架の贖いに関連付けて、旧約聖書を「理解している」だけであろう。
当然ながら、ユダヤ教徒にとってイエスの十字架など何でもない。旧約聖書は全く異なることを語っている。
この隔たりを知らないことが、キリスト教徒が「ファリサイ派とは何者か?」分からないし、理解する準備も出来ていない原因になっている。
ミシュナに見る膨大な口伝律法
ともあれ、その第1段階としては、am haaretz(アム・ハアレツ)について、ne’eman(ネエマン)について知らなくてはならない。
am haaretz(アム・ハアレツ)は文字通りには「その土地(イスラエル)の民」であるが、実質的にはやや蔑称らしく、いわゆる普通のユダヤ人である。
以前述べた通り、ユダヤ教の律法は複雑であり、その理解や適用が難しい。一般の信者に守れるようなものではない。この複雑さについて、口伝律法ミシュナが自ら語っている。
形式主義か、プロフェッショナルか:律法の「髪の毛で支えられた山」
誓いから解くことに関しては、聖書の中に確かな言及は見られない。安息日、chagigah、me’ilahに関しては、髪の毛によって支えられた山である。というのも、トーラの言及は僅かであり、律法の数は多数であるから。他方で財産に関する法、献げ物、汚れと清め、不法な性的関係に関する法は、聖書の中に確かな根拠がある。これらはトーラの本質である。
全てはここで扱えないから、2、3の事例のみ説明する。
まず「誓いから解くことに関しては、聖書の中に確かな言及は見られない」について、民数記には以下のように書かれている。
人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。すべて、口にしたとおり、実行しなければならない。
しかしここでは取り消しや無効の手続きについては書いていない。民数記のこの後に規定されていることは、女性が誓った場合の父親または夫の取り消しの権限である。男性については書かれていない。
男性の誓いの有効性が問題になる時、1人のラビまたは3人の賢明なユダヤ人男性で構成される法廷で審理する。一定の条件が満たされれば、誓いは無効と宣言される。
これが「誓いから解くことに関しては、聖書の中に確かな言及は見られない」の意味である。更に詳しく学びたい方は次の記事を確認して欲しい。
◉イエスも驚く? 親不孝な誓いは取り消せる、ユダヤの法廷の懐の深さ
次に「安息日、chagigah、me’ilahに関しては、髪の毛によって支えられた山である」について解説する。と言っても、その答えは次の文章に示されている。「というのも、トーラの言及は僅かであり、律法の数は多数であるから。」
これは聖書の中でこれらの事柄に関する具体的な記述は非常に少ないが、それに関する律法は夥しく存在することを言っている。
(chagigah、me’ilahにつきましては、別個に記事を立てる必要がありますので、ここでは立ち入りません)
例えば安息日の仕事についてだが、モーセ五書(トーラ)では「第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる。」(出35:2)としか言っていない。
しかし口伝律法ミシュナ「Shabbat(シャバット)」には次のように「してはならない」活動を具体的に挙げている。
主要な仕事は40マイナス1である。1、蒔くこと、2、耕すこと、3、刈り取ること、4、集めること、5、脱穀すること、6、簸る(ひる)こと、7、濾し器でこすこと、8、挽くこと、9、ふるい分けること、10、捏ねること、11、焼くこと、12 、毛を刈ること、13、白くすること、14、梳くこと、15、染めること、16、紡ぐこと、17、経糸を張ること、18、2つの綜絖に糸を通すこと、19、2回織ること、20、2本の糸を抜くこと、21、結び目を作ること、22、結び目を解くこと、23、2針縫うこと、24、縫う為に破くこと、25、罠にかけること、26、屠ること、27、皮を剥ぐこと、28、塩をふること、29、皮をなめすこと、30、皮から毛を取ること、31、切ること、32、2文字以上書くこと、33、2文字以上書くために消すこと、34、建てること、35、壊すこと、36、消すこと、37、点灯すること、38、完成すること、39、空間から空間へ運ぶこと。これらが主要な仕事で、40マイナス1である。
これらは皆、幕屋の建設に関わるものである。トーラが「仕事をしてはならない」と命令する時、神が臨在する幕屋に関わる作業が念頭に置かれているのである。それが具体的に39の仕事として指示される。
これについても、私は以前の記事に詳しく解説した。詳細は下の記事を参照して欲しい。
◉安息日に禁じられた39のmelachah(メラハー):ミシュナ「Shabbat(シャバット)」により解明される、幕屋建設に関わる創造的活動
自分の立てた誓いを後悔した場合どうするか、1人では解決出来ない問題になる。また口伝律法を学んでいないと、安息日にしてはならないこともしかねない。
ne'eman(ネエマン;忠実な者)の誓い:食卓から始まる聖潔
以上の2つの実例からでも、「一般のユダヤ教徒が律法を正確に遵守するのは難しそうである」と分かるだろう。
話を戻すが、この「一般のユダヤ教徒」がam haaretz(アム・ハアレツ)と呼ばれる。
このam haaretzよりも少し律法について知っており、遵守している人たちをne’eman(ネエマン)という。
ne’eman(ネエマン)は文字通りには「忠実な人」を表す。最初は基本的に誰でもam haaretzであるが、敬虔な人は次の3つのことについて誓いを立てる。
①自分の食べるものから、十分の一税を正しく取り分ける。
②自分が売るものから十分の一税を正しく取り分ける。
③am haaretzの家で客にならない: 十分の一の捧げ物がなされていない可能性がある食物を、他人の家で食べないこと。
これも読んだだけでは分からないだろう。1つずつ解説する。
まず十分の一税とは如何なるものであるか、おそらく「収穫の10分の1を取り分け、どこか公のところへ税金のように納める」くらいの認識ではないだろうか?実際にはこの名称で指示されている「税金」は多い。結論から言うと、次のようになる。
terumah gedolah(テルーマー・グドラー):収穫の約2%。祭司に与える(民18:12)。
maaser rishon(マアセル・リッション):収穫の10%。 レビ人に与える(民18:21)
maaser sheni(マアセル・シェニ):収穫の10%。エルサレムで消費する分(申14:22~23)
maaser ani(マアセル・アニ):収穫の10%。貧しい人々に与える(申14:28~29)
これらの取り分けるべき収穫物の各項目について、また各項目間の関係については、今回の記事では述べない。
これを正確に厳密に話すには、独立した記事を準備しなくてはならないので、取りあえずここでは次のように理解して欲しい。
「十分の一税とは、収穫の一部から祭司に与えるべきものを与え、レビ人に与えるべきものを与え、貧しい人に与えるべきものを与え、
エルサレムで消費すべきものを取り分けることである。」
私たちも普段税金を納めているが、ユダヤの民においては、聖職者である祭司、その補助であるレビ人に対して収穫の一部を取り分けなくてはならない。
また貧しい人にも収穫の一部を分けなくてはならない。更に、決められた年には、収穫の一部をエルサレムで食べなくてはならないことになっている。
これらのこと、
・祭司
・レビ人
・貧しい人
・エルサレムでの消費
について、収穫から正しく取り分けることを、ne'emanを志願する者は誓う。上記掲載の
①自分の食べるものから、十分の一税を正しく取り分ける。
②自分が売るものから十分の一税を正しく取り分ける。
③am haaretzの家で客にならない: 十分の一の捧げ物がなされていない可能性がある食物を、他人の家で食べないこと。
の内、①と②はこのことを言っている。自分が食べるものは勿論、他人に売る前にも、彼らは間違いなく取り分けるのである。
結論:なぜ「他人の家」で客になれないのか
次に「③am haaretz(アム・ハアレツ)の家で客にならない」についてであるが、先程述べた通り、am haaretzとは一般の民である。彼らは律法に全然詳しくない。そこで、十分の一税も正しく取り分けていない可能性がある。
ne'emanになりたい人は、am haaretz、普通のユダヤ人の家では食べないことを誓う。なぜなら、十分の一税を取り分けていないものを口に入れる恐れがあるからである。
以上で1回目の解説は終わりにする。
普通のユダヤ人はam haaretz、それよりも敬虔な生活を公に送りたい人はne'emanを志願する。更に厳格な生活を送りたい人はファリサイ派になるが、その内容は次回に譲る。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
