イエスも驚く? 親不孝な誓いは取り消せる、ユダヤの法廷の懐の深さ
新約聖書マタイによる福音書15章における、イエスの「korban(コルバン)」批判は、往々にして「形式主義的な律法学者への道徳的批判」として語られてきました。しかし、その背景にあるユダヤ教口伝律法『ミシュナ』の法体系を無視しては、この論争の本当の是非を見出すことは出来ません。
本稿では、旧約聖書(タナハ)とミシュナ(特に「Nedarim:ネダリーム」)を一次史料とし、正統なユダヤ教参考書を元にこの場面を検証。
神と人の所有関係を変更させる「聖別」の本質、祭壇が持つ聖性と瑕疵の修復、そして何より、頑なな誓いを「最初から存在しなかった」ものとする、法廷の遡及的無効判断について詳述します。
はじめに:イエスの痛烈な批判と「コルバン」の謎
マタイによる福音書15章3~6節において、イエスは次のように言っている。
あなたたちは言っている。「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよいと。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
これは可能性としては2つのことが考えられる。まず1つ目は以下の通りである。
聖別(ハクデーシュ)の法的メカニズム:言葉が持つ「縛る力」
ユダヤ教徒が誓いを立てる時、一定の形式を伴うことは口伝律法ミシュナから見ることが出来る。特に「Nedarim(ネダリーム)」という巻では、様々な誓いの内容や効力が問われている。
ここでは物の利用収益を禁止する誓いが問題になっている。それは次のような形式で宣言する。
「この畑で収穫されるものは、献げ物と同様に私には禁じられる。」
「あなたの料理するものは、献げ物と同様に私には禁じられる。」
ここで言う「献げ物」とは、神殿での献げ物の為に取り分けられたものを指す。読者の皆さんは旧約聖書の祭儀に関する律法についてはほとんどご存知ないと思うので、簡単に説明するが、祭壇上で献げるものは聖別される。
この「聖別」とは言葉だけのもの、表現だけのものではない。実際に世俗の用途に用いてはならないものとなる。従って一定の仕方で扱わなければならないものであり、違反すると使えないものになってしまう。旧約聖書の中で最も権威の高いモーセ五書(トーラ)には幾つかの箇所でこれについて触れている。
もし、主への献げ物として家畜を携える場合、主にささげるものはすべて、聖なるものとなる。
これは本人が自分で所有している家畜について、「これは献げ物とする」と宣言することで、それが聖別されることを言っている。「聖別される」とは、ここではある意味では自分の所有ではなくなり、神の所有になることを言っている。
この点、口伝律法ミシュナ「Nedarim(ネダリーム)」1章には次のように書かれている。
誰かが誰かに「konam」、「konach」、「konas」と言うなら、これらはkorbanと同じである。
ここで言われていることを説明する。多分読者も「コルバン」という言葉を聞いたことがあるだろう。これは献げ物を意味する。これに関して、「コルバン(korban)」と言わずに、それを崩した言い方(「konam」、「konach」、「konas」)とをしたとしても、聖別の効力は成立することを述べている。
なぜ誓いの言葉に「korban」(献げ物)という言葉を入れるのかというと、それを自分や他人に禁止されたものとするからである。
なお、ここでは「誰かが誰かに」と書かれているが、必ずしも第三者に言明しなくてはならないものではない。自分で決めて取り分ければ足りる。
祭壇の聖化力と「物理的不可逆性」
もう1つトーラから挙げよう。
七日の間、祭壇のために罪の贖いの儀式を行って、聖別すれば、祭壇は神聖なものとなる。祭壇に触れるものはすべて、聖なるものとなる。
これはまだ臨在の幕屋が建てられる前に、祭壇の聖別について語った箇所である。ミシュナには次のように書かれている。
祭壇はそれに相応しいものを聖別する。ラビ・ヨシュアは言う、「何であれ祭壇の火に相応しいものであるなら、一度そこに上ったら、取り除くべきではない、次のように書かれている、『焼き尽くす献げ物は祭壇の炉の上に夜通し、朝まであるようにし、祭壇の火を燃やし続ける』(レビ6:2)。焼き尽くす献げ物は祭壇の火に相応しいものであるが、それが一端そこに上ったら取り除くべきでないように、何であれ祭壇の火に相応しいものであるなら、一度そこに上ったら、取り除くべきではない。」
これは次のような状況を想定している。誰かが自分の家畜を聖別したが、その後でその家畜が傷を負ってしまった。傷を負った家畜は本来なら祭壇で献げることは出来ない。
それは傷をおったいけにえの規定に従って対応しなくてはならないが、間違えて祭壇上で献げてしまった。そのような場合である。
この場合、家畜を取り分ける(聖別する)ことは有効に成立しているので、一端祭壇上に上げてしまったなら、そのまま燃やすというものである。言わば祭壇が瑕疵を補っていることになる。
ともあれ、献げ物として取り分けられたものは、祭壇上で焼かれるべきものとして区別されたものとなるので、それ以外の用途に用いることは出来ない。勿論自分で食べることも許されない。
従って「この畑で収穫されるものは、献げ物と同様に私には禁じられる」という誓いを端的に言うなら「私はこの畑の収穫物を食べないことを誓います」という意味になる。
これは同様に次のように言うことが出来る。「私の畑の収穫物は、あなたに対して献げ物のように禁じられる。」しかし「あなたの畑の収穫物は、あなたに対して献げ物のように禁じられる」と言うことは出来ない。
他人の財産について、その用途を制限することは出来ないからである。これは私たちの感覚でも分かることである。
以上が1つ目の可能性であり、本人は親を扶養する義務があるのだが、自分の財産を両親に対して全般的に禁止したものである。
2つ目の可能性は以下の通りである。
レビ記27章では自分の財産を神殿のものとして聖別する手続きが語られている。
①家畜を献げる場合(レビ27:9~3)
②家屋を献げる場合(レビ27:14~15)
③先祖伝来の土地を献げる場合(レビ27:16~21)
④他人から購入した土地を献げる場合(レビ27:22~25)
この内、①は献げ物に関して言っているので、マタイによる福音書15章の当該箇所には関係がない。ここで問題になるのは②~④であると思われる。
②~④は家屋と土地を聖別し、神殿所有のものとする場合の手続きや買い戻しについて規定したものである。これによるなら、マタイによる福音書で誓う者は、自分の不動産を神殿の為に寄進したことになる。それは親だけでなく、彼のものでもなくなるという事を意味する。
この2番目の可能性は「献げ物になる」という言葉を真に受けた解釈であるが、これは自然な文脈ではないだろう。親に使わせない為に、わざわざ自分の所有権まで放棄することはない。1番目の可能性が該当すると考えるのが普通である。
誓いの「脱出口」:ラビたちが用意した驚くべき救済措置
さて、1番目のケースとして話を進めるなら、彼のしたことは「(親を扶養するのに使うべき財産も)私の財産は献げ物と同様に親には禁じられる」と誓ったことになる。イエスはこのような誓いを非難しているのである。
これは一見何の問題も無いように見える。
しかし誓いは公のことに関わり、ユダヤの法廷はこのまま見過ごしている訳ではない。両親に対する不当な誓いを解くための手続きが、律法で定められている。以下は「Nedarim(ネダリーム)」の1節である。
ラビ・エリエゼルは言う、「彼らはnederの無効に関して、父親と母親の名誉を根拠にしてよい。」しかしラビたちはそれを禁止した。ラビ・ツァドクは言った。「父親と母親の名誉を根拠にする前に、彼らは神においてそうするべきである。もしそうなら、如何なるnedarimも存在しない。」ラビたちはラビ・エリエゼルに同意する。-ただし彼と、両親との間における事柄において、父親と母親の名誉を根拠にすることが出来るという事である。
口伝律法は読んだだけでは分からないものが多い。ほとんどの箇所がていねいな解説を要する。
まず先程述べた通り、律法においては誓いを無効にする手続きが存在する。方法は2つあり、1つは一般のユダヤ人男性だが、律法に精通した3人によって構成される法廷によって判断する。もう1つは1人のラビの前で、立てた誓いを後悔していていることを述べる。
【核心】将来の無効か、遡及的無効(Retroactive Nullification)
どちらの場合で行うにしても、誓いを立てた本人は、その誓いによって起きている不都合を予見していなかったことを陳述し、無効化を求めるのである。
上に引用した「Nedarim」9章1節は、具体的にどのような場合、誓いを無効にしてよいかを論じたものである。この内、ラビ・エリエゼルの見解は「あなたがその誓いを立てることで、あなたの両親の名誉が傷つく(あるいは両親に苦労をかける)と最初から知っていたら、それでも誓いましたか?」という問いによるというものである。
これに拠るなら、本人が「分かっていたら、誓いませんでした」と答えてもらうことで、無効と判断されることになる。ここで言う無効判断とは、将来に向けての無効ではなく、遡及的な無効である。彼の立てた誓いは始めから有効ではなかったことになる。
次に「しかしラビたちはこれを禁止した」とあるのは、もし「親不孝になった」という理由を認めると、事実上大部分の誓いが簡単に取り消せてしまい、誓いの重みが失われると判断するからである。
ラビ・ツァドクはこれに関して、両親ではなく、先に神の名誉を考えるべきとする。そして、それを理由に誓いを取り消せるなら、この世から無効に出来ない誓いは一つもなくなると警告する。
最後に「ラビたちはラビ・エリエゼルに同意した」とある。結論は「彼と、両親との間における事柄において、父親と母親の名誉を根拠にすることが出来る」としているが、これはやや言葉足らずである。
分かりやすく説明すると、次のようになる。「原則的に第三者が関わる一般的な誓いにおいて、安易に『親の名誉』を理由に無効化することは認めない。しかし『自分と両親との間の扶養や直接的な関係に関わる誓い』については、両親への敬意(名誉)を根拠として誓いを取り消すことを認める」というものである。
ともあれ、法廷によって無効判断が確定すると、上記の通り彼の誓いは遡及的に無効になる。始めから無かったものになるのである。
これに拠るなら、ユダヤの法廷はイエスが問題にしている誓いについて、合理的な判断の余地を残しているに留まらず、むしろ親を助けるために、その誓いを無効化する法的な救済手段を備えていたことになる。
【関連記事】
◉イエスを裁いた『最高法院』への道(1回目):旧約聖書の裏に隠れている3人判事の法廷①
本稿では、最高法院の議員数の起源から、聖書の裏側に隠された日常的なトラブルを裁く「3人の判事による法廷」の実態までを網羅しています。
結論:シナイ山での誓いと、沈黙したファリサイ派の真意
イエスの非難はファリサイ派や律法学者に向けられたが、彼らの反応は書かれていない。おそらく呆気に取られ、返す言葉も無かったのだろう。
他方で、イエスはで誓い一般については次のように言っている。
また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
彼は「誓うべきではない理由」を物々しく語る。しかしユダヤ教の教えとして、そもそも誓うことがよいことであるとは認めていない。なぜなら彼らはシナイ山で既に「律法を守る」という誓いを立てている。次の通りである。
モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。
このように、イスラエルの民は既に全方位的な誓いを立てている。神から与えられた律法は完全なものである。それ以上に個人的な誓いを増やすことは、不遜な行為とも考えられる。
本稿は正統なユダヤ教参考書の注釈に基づき、伝統的な彼らの視点から考察しました。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
