ファリサイ派とは何者か?(2)―「仲間(ハヴェリーム)」だけが座れる聖なる食卓
なぜ、ファリサイ派は「罪人」との食事を拒んだのか。それは単なる道徳的な差別ではなく、旧約聖書最高権威であるモーセ五書(トーラ)の清浄規定の律法に理由があります。本稿では、一般のユダヤ教徒(am haaretz:アム・ハアレツ)から「忠実な者(ne’eman:ネエマン)」、そして最も広範に律法を遵守する「仲間(chaverim:ハヴェリーム)」へと至る階層構造を、口伝律法ミシュナの記述から紐解きます。
前回の振り返り
前回は以下の内容について学んだ。
(1)律法は難しく、複雑であり、一般のイスラエルの民が把握し、生活の中で完全に行うことは不可能であること。
(2)これら一般のイスラエルの民はam haaretz(アム・ハアレツ)と呼ばれていること。
(3)イスラエルの民am haaretz(アム・ハアレツ)の中から、より敬虔な生活をしたい者は誓いを立て、一定の見習い期間の審査を経て、ne’eman(ネエマン)として認められること。
(4)ne’eman(ネエマン)は文字通りには「忠実な者」であるが、ここでは具体的には、十分の一税を確実に納めている者として、公式に認められた者であること。
大体以上のような内容について述べた。細則を知りたい方は、下のリンクから読んで欲しい。
◉「ファリサイ派とは何者か?(1)―アム・ハアレツとネエマン
https://note.com/mishnah/n/n3a426e938ba8
ファリサイ派とchaverim(ハヴェリーム)の呼称の使い分け
今回はその続きから始める。
上記の「前回の振り返り」の通り、イスラエルにおいては一般のイスラエルの民であるam haaretz(アム・ハアレツ)とne’eman(ネエマン)から成っている。ne'emanはより敬虔な生活を送っている人たちと言うことが出来る。
しかし、ne’emanよりも更に敬虔な生活を送っている人たちもいるのである。それが福音書ではファリサイ派と呼ばれている人たちである。
厳密に言うなら、律法を更に厳格に守っている人たちはファリサイ派と呼ぶよりも、chaverim(ハヴェリーム)と呼ぶ方が適切である。
というのも、彼らをサドカイ派と比較する時、政治的見地から見た場合にはファリサイ派と呼び、「律法をどの程度守っているか」という視点から見る場合にはchaverim(ハヴェリーム)と呼ぶからである。
しかし福音書では一貫して彼らをファリサイ派と呼んでいるので、ここでもその点に配慮して、彼らをファリサイ派と呼ぶことにする。
一般のイスラエルの民am haaretz(アム・ハアレツ)はいきなりファリサイ派になることは出来ない。まず前提として、am haaretzは先にne’emanとして認められていなくてはならない。
「ne’eman(ネエマン)」への道 ― 忠実な者たちの誓いと義務
ne'emanとは前回も述べたが、次のような条件を果たすと誓い、受け入れられた人たちである。つまり
①自分の食べるものから、十分の一税を正しく取り分ける。
②自分が売るものから十分の一税を正しく取り分ける。
③am haaretzの家で客にならない。つまり十分の一の捧げ物がなされていない可能性がある食物を、他人の家で食べない。
これら3つのことを誓い、一定期間の見習い期間を経て、認められる立場である。
「chaverim(ハヴェリーム:ファリサイ派)」の聖域 ― アム・ハアレツとの峻別
ファリサイ派として認められるには、まず彼はne'emanでなくてはならない。そのne'emanはファリサイ派になりたいなら、次のことについて誓いを立てることになる。
①十分の一の献げ物について、疑いなく義務を果たしていること。
②清さを保つこと: 律法が定める清浄規定に従い、不浄なもの(死体、爬虫類、不浄な衣服など)との接触を避けること。
この内、①については、ne'emanとしての義務を間違いなく果たしているという確認になると思われる。
ミシュナ『Demai(デマイ)』の厳格な境界線 ― 禁じられた売買と会食
問題は②である。口伝律法ミシュナ「demai(デマイ)」2章には次のように書かれている。
chaver(ハヴェール)として信頼されている者は、am haaretzに食べ物を売らない。それが湿っているのであれ、乾燥しているのであれ。また、彼から湿ったものを買わないし、am haaretzの家で食事を提供されない。彼の服について、彼に食事を提供しない 。ラビ・ユダは言う、「彼は小さい家畜を飼うべきではないし、無闇に誓いを立てたり、軽薄な行動をするべきでもなく、死者に触れて汚れるべきでもない。彼は律法学者に仕えるべきである 」。彼らは彼に言った、「これらの事は含まれない。」
まず最初の単語chaver(ハヴェール)であるが、これは既出のchaverim(ハヴェリーム)と変わらない。chaverが単数形であり、chaverimが複数形であるだけである。本稿ではファリサイ派と読み替える語である。
ここでは、ファリサイ派は次の事項を守るべきとされる。
販売の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)に対し、食品を売らない。
購入の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)から、湿った食品を買わない。
会食の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)の家で食事の提供を受けない(客にならない)。
衣服と清浄:am haaretz(アム・ハアレツ)が主人の衣服に触れるような状況で、彼を食事に招かない。
この箇所を理解するには、食べ物に湿気を与えることの律法について理解していなくてはならない。
「hechsher(ヘフシェル:湿気の準備)」の法理 ― 7つの液体と汚れの受容
その死骸が土器の中に落ちた場合、その中のものはすべて汚れる。その土器は壊す。この器の中の水がかかった食物はすべて汚れる。・・・(中略)・・・それらの死骸の一つが種もみに落ちた場合、種もみは清いままである。しかし種もみが水に浸されていて、その上に死骸が落ちた場合、種もみは汚れる。
冒頭の「死骸」についてはここでは立ち入らない。とりあえず汚れの源と理解していればよい。これは神殿を始めとする、聖なるものに近付けてはならない。
それが土器の中に落ちた場合、「水がかかった食物はすべて汚れる」とある。所有者が湿気にさらしたものだけが汚れると明記されている。
食べ物は収穫されたばかりの状態なら、それは汚れを受ける状態ではない。所有者が水にさらして始めて、「これから汚れを受けるもの」となる。この原則はhechsher(ヘフシェル)と呼ばれる。
モーセ五書(トーラ)はその理由を説明しない。人間には分からない法理でも、神はお命じになることがある。hechsherはその種の律法の1つである。
さて、この意味で湿気を与えるものは水に限られず、全部で7つある。口伝律法ミシュナの「machushirin(マフシリン)」6章には次のように書かれている。
7つの液体がある。露、水、ぶどう酒、オリーブ油、血、ミルク、蜂蜜。
これは必ずしも所有者が進んで食べ物を漬けるような行動をすることを要しない。受動的に起こる現象でも、所有者がそれを喜ぶような状況であるなら、「湿気にさらした」ことになる。また、次の原則も表明されている。
それによって始めに満足したが、最後に満足しなかった場合も、最後に満足したが、始めに満足しなかった場合も、machushirinの掟に含まれる。
一度でもその状況に満足したと客観的に判断されるなら、それは汚れを受ける状態になっている。1つ具体的な例を挙げよう。
もし誰かが食べ物を取ろうとして、またはtameiのものを取ろうとして木を揺らしても、それはmachushirin(湿気の準備)に含まれない。そこから水気を取るためには、Beit Shammaiは言う、「そこから生じ、そこに残っているものは、machushirinに含まれる」。Beit Hillelは言う、「そこから生じるものは、掟に含まれるが、残るものは含まれない、なぜなら彼は全てを落とそうとしている筈であるから。」
これは以下のようなことを言っている。
事例1:「誰かが木の実を取ろうとして、木を揺らした。目的は木の実を落とすことにあるのだから、木から落ちる水滴は食べ物を汚れるものとして準備しない。」
文中のBeit Shammai、Beit Hillelとは対立する学派を指している。
事例2:今度は木の実を取る目的ではなく、木から水を払い落とす目的で揺らした場合である。それぞれ次のように述べる。
Beit Shammai:「木から落ちる水滴も、木の上に残っている水滴も、食べ物を汚れに準備する。」
Beit Hillel:「木から落ちる水滴は食べ物を準備するが、木の上に残ったものはそうではない」。
この問題については、これ以上深入りしない。話を戻すと、ファリサイ派になる為の2つ目の条件は「2. 購入の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)から、湿った食品を買わない」であった。
これは湿気にさらしたものをam haaretzから買うと、それが既に汚れている可能性が高いからである。彼らは汚れの掟に関して、ほとんど無知である。
では「1. 販売の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)に対し、食品を売らない」の理由は何であろうか?
それはam haaretzに食品を売れば、十分の一税を納めずに食べたり、汚して食べたりすると考えるからである。
(祭壇に献げるパン等聖なるもの以外は、汚してしまっても律法上は食べてよいです。しかしファリサイ派が厳格なのは、通常の食べ物も汚さないで食べる点にあります)
これはファリサイ派にとっては「目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない」(レビ19:14)に抵触するような行為であり、「隣人に罪(律法違反)を犯させる手助けをする」ことと同義とするものである。だからファリサイ派は、am haaretzに食べ物を売らない。
次の条件、「3. 会食の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)の家で食事の提供を受けない(客にならない)。」については、ne'eman(ネエマン)と同じである。
最後の条件「4. 衣服と清浄:am haaretz(アム・ハアレツ)が主人の衣服に触れるような状況で、彼を食事に招かない」については、次のミシュナを見て欲しい。
am haaretzの衣服は、perushim(ファリサイ派)にとってはmidras(ミドラ;重い汚れのひとつ)と見なされる。
ここではmidras(ミドラ)とは何なのか立ち入らない。取りあえず重い汚れであると思っていればよい。汚れは重いものであればある程、その伝染力も強い。
midras(ミドラ)は人間をも汚す程の汚れの程度が重い。ファリサイ派から見ると、am haaretzは汚れに関する律法に無知なので、その衣類も常時重い汚れを持っていると見なす。従って彼らと会食することは、その汚れを受ける恐れがあるという事である。
以上を前提に、ここで新約聖書を1箇所見てみよう。
イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。
この箇所から、いわゆる「汚れ」とは霊的な汚れ、心の汚れであるかのように読める。しかし旧約聖書で言う汚れとは、そのようなものではない。旧約聖書で命じられている汚れとは、明らかに物体的である。
話を戻し、ne'emanからファリサイ派になるには、如何なる意味で段階が上がったのか確認しよう。
ne'emanからファリサイ派になる要件
ne'emanの条件(前記事)
①自分の食べるものから、十分の一税を正しく取り分ける。
②自分が売るものから十分の一税を正しく取り分ける。
③am haaretzの家で客にならない: 十分の一の捧げ物がなされていない可能性がある食物を、他人の家で食べないこと。
これを見てみると、全て十分の一税を正しく納めることに関わっている。ファリサイ派の条件は以下の通りである。
ファリサイ派の条件(復習)
販売の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)に対し、食品を売らない。
購入の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)から、湿った食品を買わない。
会食の制限:am haaretz(アム・ハアレツ)の家で食事の提供を受けない。
衣服と清浄:am haaretz(アム・ハアレツ)が主人の衣服に触れるような状況で、彼を食事に招かない。
十分の一税を納めるだけでなく、汚れから身を守っているかも厳しく問われることになる。ファリサイ派になりたいと志願する者は、この種の清浄規定に精通し、かつ遵守しなくてはならない。
その為、まずは30日間の試しの期間、次に1年間の本格的な遵守期間が求められ、その後やっとファリサイ派として認められる。
(結論の前に)
*本稿ではファリサイ派と表記していますが、これは新約聖書を意識してあえて用いています。ユダヤ教から見るなら、上記の通りchaverim(ハヴェリーム)かperushim(ペルシーム)と呼ぶ方がよいと思います。
perushim(ペルシーム)は音で分かる通り、ファリサイ派という訳語の直接の元になっていると思います。
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結論:食卓の断絶と、イエスが挑んだ秩序の正体
1つ注目するべきポイントは、これは個人で認められるものではないという事である。主人が公式に認められればその家族、妻や子供もファリサイ派として認定される。
そもそもファリサイ派はam haaretz(アム・ハアレツ)と同じ食卓につくことは出来ない。従って家族全体を巻き込まないことには、彼の生活が成立しないのである。
おそらく皆さんの中には、ファリサイ派の語源として「区別された者」という意味が含まれていることを聞いたことがあると思う。
それは一般の民であるam haaretz(アム・ハアレツ)との食卓の断絶を表しているのである。
イエスの「心の汚れ」発言は、好意的に言うなら、当時のファリサイ派にとっては、『物理的・法的な秩序への挑戦』を意味していたと言える。
しかし彼らから見たならば、汚れの基本を無視した暴論であったろう。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
