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なぜ聖書にない「手洗い」で弟子は責められたのか?――旧約聖書の掟と伝統の絡む迷宮を解き明かす

 旧約聖書のどこを探しても「食前に手を洗え」という命令は見つかりません。ではなぜ、弟子の手洗いは死活的な問題となったのか。その鍵は、祭司に与えられる奉納物「テルーマー」の聖潔にあります。ミシュナ『テルモット』から『ヤダイム』へと至る、神聖な食物を汚れから守るための緻密な迷宮を読み解き、イエスの時代に根付いた「言い伝え」の正体を解明します。


はじめに:旧約聖書に存在しない「手洗い」の掟という謎


 新約聖書には食事の前に手を洗っていないことについて、ファリサイ派や律法学者から責められる箇所が幾つかある。

 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。』そこで、イエスはお答えになった。・・・

(マタ15:1~3)

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず

(マコ7:1~3)

 これらの箇所を読んで疑問に思った方はいるだろう。旧約聖書の中で、「食前に手を洗いなさい」という掟は1度も出てこない。しかし明らかにイエスの周囲では、それが社会的な慣習として定着している。

 この問題は単純である。しかし説明にあたっては、かなり複雑な事情がある。この背景を出来るだけ簡単に解説したいと思う。


祭司を支える義務:収穫から捧げる「terumah(テルーマー)」の正体


  まずイスラエルの民は収穫の中から一定の分量を祭司に与えなくてはならない。これはterumah(テルーマー)と呼ばれる。また、レビ人には収穫の中から10分の1を取り分け、与えなくてはならない。

 なぜなら祭司とレビ人はどちらもレビ族の一員であり、他の部族のように嗣業の地を持たないからである。

 しかし、手洗いの主題に関しては、祭司に与える分であるterumah(テルーマー)を考慮すれば足りる。terumah(テルーマー)は旧約聖書の中での最高権威であるモーセ五書(トーラ)の中では具体的な分量は示されていない。そこでトーラに従うなら、たとえ麦の穂1つでも義務を果たしたことになるが、ラビたちは一定の目安を定めた。

 口伝律法ミシュナの「terumot(テルモット)」4章3節には次のように書かれている。

ミシュナ『terumot(テルモット)』の基準:40分の1から60分の1の「気前の良さ」

 以下がterumah(テルーマー)の分量に関する基準である。気前の良い人の為に、40分の1 。Beit Shammaiは言う、「30分の1である」。標準的には50分の1、出し惜しみする人については、60分の1である。

terumot 4:3

 ここでは、terumah(テルーマー)を分ける人について、3つの評価を添えている。

①60分の1:出し惜しみする人
②50分の1:標準的な人
③40分の1:気前の良い人

 従って律法に従うなら、祭司への収穫は少なくとも60分の1与えなくてはならないことになる。

 これに対してレビ人はイスラエルの民から、収穫の10分の1を得る。レビ人はその受け取った分け前の中から更に10分の1を取り分け、祭司にterumah(テルーマー)として与える。

 従って、terumah(テルーマー)として祭司が得るのは、以下の2通りの仕方による。

1、レビ人から10分の1の10分の1。
2、その他のイスラエルの民から、60分の1から40分の1。

 次にそもそもterumah(テルーマー)が如何なるものであるのかを解説する。まずはトーラを読んで欲しい。

アロンとその子らに告げなさい。
聖なるわたしの名を汚さぬよう、イスラエルの人々がわたしに奉納する聖なる献げ物に細心の注意を払いなさい。わたしは主である。
また彼らに告げなさい。
あなたたちの子孫のうちだれであれ、イスラエルの人々が主に奉納する聖なる献げ物に汚れたまま近づく者は、永久にわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。

(レビ22:2~3)

 ここでは「聖なる献げ物に細心の注意を払うように」という注意と、「聖なる献げ物に汚れたまま近づく者は、永久にわたしの前から断たれる」という警告が与えられている。

 この箇所の言う「聖なる献げ物」とは、祭司に与えられるべき分terumah(テルーマー)である。神は汚れた状態でterumah(テルーマー)に近付くことのないように、terumah(テルーマー)を汚れにさらすことのないように命じているのである。

汚れの法理:民数記19章が定める「死体の汚れ」とmikveh(ミクヴェ)

 この「汚れ」とは以前の記事でも書いたが、衛生的なものではない。理由のないまじないのような意味でもない。もっと明確なことを表しているし、どのようなことになったら汚れるのか、トーラ自身が語っている。

 汚れの原因は多くあるが、最も重い汚れの源は人の死体である。次のように書かれている。

 どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである。

(民19:11~13)

 ここでは深入りしないが、人の死体に触れた者は、次の手続きを経る必要がある。

①3日目と7日目に「罪を清める水」で清められる。
②7日目にmikveh(ミクヴェ)で体を清める。
③日没後に完全に清くなる。

 mikveh(ミクヴェ)についても前回の記事で触れたが、雨水を溜めたプールのようなものと認識していれば、取りあえずは問題ない。身を清めるとは、その中に身を浸すことをいう。

 話を戻すが、上記引用の箇所には「死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す」(民19:13)とある。この記述は、汚れた者が神殿の敷地に入ってはならないことを言っている。

 神殿の敷地とは聖なるものである。そこに汚れたままの状態で入ってはならない。

 またterumah(テルーマー)について「聖なる献げ物に汚れたまま近づく者は、永久にわたしの前から断たれる」(レビ22:3)とあるのは、先に示した。祭司に与えられるterumah(テルーマー)も神聖なものであり、汚れた状態で扱ってはならないことを言っていることになる。

 これは祭司自身に対する警告でもある。他の箇所で次のように書かれているからである。

 次のもの、すなわち彼らの贈り物である献納物、イスラエルの人々がささげた奉納物はすべてあなたのものである。わたしは、あなたとあなたと共にいるあなたの息子たち、娘たちにそれを与える。それは不変の定めである。あなたの家族のうちの清い者はだれでもそれを食べることができる。

(民18:11)

 「彼らの贈り物である献納物」とはterumah(テルーマー)の事である。これは明確に「あなたの家族のうちの清い者はだれでもそれを食べることができる」としている。

 もしも祭司が何らかの事情で汚れてしまったら、清めの手続きを経てからでないと、terumah(テルーマー)を食べてはならない。

 これがまず最初の段階である。つまり、祭司はterumah(テルーマー)を食べる前には自らを清めなくてはならないのである。

手の聖潔(netilat yadayim;ネティラット・ヤダイム):なぜ「手」だけが汚れるのか

 次に「手」について語る必要がある。

 手は身体の中で如何なる部位であろうか?人は手を使って色々な物に触る。また意識しない内にも、色々なものを触っているものである。

 特に汗が出ているところを触ったり、その他綺麗でない物を触ることもある。もしその状態でterumah(テルーマー)を触ったらどうであろうか?人によるだろうが、不敬な行為と見る向きもあることは分かるだろう。

 元々トーラにおいては、人の体の一部だけ汚れるという規定は無い。しかし聖なる食物を不相応に扱わないように、ラビたちは手がそれだけでも汚れるものであり、terumah(テルーマー)を食べる前に洗わなくてはならないと定めた。

 この手洗いの習慣は後になって、terumah(テルーマー)を食べる時以外も、つまり特に神聖ではない食べ物においても、手は清めるべきとされたのである。口伝律法ミシュナ「chagigah(ハギガー)」には次のように書かれている。

 わたしたちは聖別されていない食べ物の為、maaserの為、terumah(テルーマー)の為に手を洗わなくてはならない。

(chagigah 2:5)

 ここでははっきりと「聖別されていない食べ物の為」にも手を洗わなくてはならないことを述べている。

 その洗い方についても述べておこう。具体的な洗い方の手順もラビによって定められている。口伝律法ミシュナ「yadayim(ヤダイム)」2章に書かれているが、文章が複雑であるのでここでは引用しない。根幹部分を要約するにとどめる。

二段階の浄化プロセス:mayim rishonim(マイム・リッショニーム)とmayim sheniyim(シェニイーム)

 基本的には2回洗うことになる。

1回目の水の注ぎをmayim rishonim(マイム・リッショニーム)と呼ぶ。
2回目の水の注ぎをmayim sheniyim(マイム・シェニイーム)と呼ぶ。

 これは次のように説明される。1回目の洗いで手の汚れを取る。これによって手は清くなるが、その上に残った水は汚れたものとなっている。2回目の水は、この1回目の水を流すものである。

 しかし一定分量以上の水で手を流すなら、1回でも構わないとする。具体的な分量はレヴィイと呼ばれ、今日の単位に換算すると90~150mlになる。レヴィイの分量を注ぐなら、手に水を注ぐのは1回で足りる。

結論:一般の食事への波及と「昔の人の言い伝え」の正体


 先程述べた通り、この手洗いは初めはterumah(テルーマー)を食べる時に求められたが、その後は一般の食べ物を食べる時にも掟となり、定められたものである。

 イエスの時代には、食前の手洗いはまだ掟としては公布されていなかったが、習慣としては既に民衆の中に根付いている様子が窺える。



(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef


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