「106万円の壁」が消える年──増える事務を、抱える前に分ける
2026年は、中小企業の「事務」が静かに増える年になりそうです。
2025年6月13日、年金制度改正法が成立しました。何が決まったかというと、パートやアルバイトとして週20時間以上働く人は、これから「会社の規模に関係なく」社会保険(厚生年金・健康保険)に入っていく、という大きな方向転換です。あわせて、これまで「年収106万円の壁」として知られてきた月額8.8万円という賃金の線引きも、なくしていく方針が示されました(出典:厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」)。
ニュースでは「働く人の手取り」や「将来の年金が増える」という話ばかりが取り上げられます。でも私が気になるのは、別のところなんですよね。これ、実は会社側の「手続き」がじわじわ増えていく話でもあるんです。今日は、その増える事務とどう向き合うかを、一緒に考えてみたいと思います。
変わるのは「誰が入るか」、増えるのは「手続き」
今回の改正のポイントを、働く人ではなく会社の立場から並べてみます。
・週20時間以上働く短時間労働者は、企業規模に関係なく社会保険の加入対象へ(10年かけて段階的に拡大)
・「月8.8万円(年収106万円)以上」という賃金要件は撤廃の方針。全国の最低賃金が1,016円以上になるのを見極めて判断
・個人事業所も、常時5人以上を使う事業所は原則すべての業種が対象に(2029年10月〜。土木・建設業はもともと対象業種)
(出典:厚生労働省「社会保険の加入対象の拡大について」)
ここで効いてくるのが最低賃金です。2025年度の最低賃金は、全国の加重平均で1,121円。前の年から66円上がり、すべての都道府県で1,000円を超えました(出典:労働政策研究・研修機構)。つまり「1,016円以上になったら」という撤廃の目安は、もう多くの地域で超えているんですよね。壁が消える日は、思っているより近いんです。
働く人が新しく加入するということは、会社側には事務が積み上がります。加入のときの「資格取得届」(加入を届け出る書類)、毎月の保険料の計算、年に一度の「算定基礎届」(保険料のもとになる報酬を届け出る手続き)、給与が変われば「月額変更届」。一人増えるごとに、これが繰り返されます。今までは扶養の範囲で働いてもらっていたパートさんが、これから何人も加入対象になる。事務の総量が、誰にも気づかれないまま増えていくわけです。
システムを入れても、7〜8割が「その人しか分からない」
「うちは給与ソフトを入れているから大丈夫」と思う方もいるかもしれません。でも、データはちょっと違う景色を見せてくれます。
ある給与計算の実態調査では、システムを導入している企業でも、約7割の担当者が毎月の「給与締め」を負担に感じていました。さらに負担の中身を工程ごとに見ると、属人化(その人にしか分からない・できない状態のこと)の割合が次のように高いんです。
・勤怠情報の収集・確認:82.0%
・変動情報(残業や手当の変化など)の収集・確認:77.6%
・計算後の追加手続き:76.0%
・給与・控除の計算:72.8%
(出典:株式会社LayerX「給与計算の実態調査」)
ソフトは計算そのものを速くしてくれます。でも「誰の勤怠を、どこから集めて、どう直すか」という前後の段取りは、結局その担当者の頭の中にある。だから人が増えても、制度が変わっても、負担が一人に張りついたままなんですよね。ここに社会保険の加入手続きが上乗せされたら、どうなるか。想像はつくと思います。一人の残業時間で、こっそり吸収されていくんです。
増やす前に、いったん「書き出す」
では、どうするか。私がおすすめしたいのは、事務担当を増やす前に、いったん手続きを「書き出す」ことです。紙でもエクセルでも構いません。社会保険や給与まわりの作業を一行ずつ書き出して、3つに仕分けてみるんです。
・自社でしか判断できない仕事(誰を加入させるか、賃金体系をどうするか)
・外に出せる仕事(届け出の作成、毎月の計算、年末調整の集計)
・そもそも要らない・やめられる仕事(二重入力、形だけのチェック)
社会保険の手続きには、社会保険労務士さんでないと扱えない領域もあります。だからこそ「自社で抱える/専門家に任せる/外注する」の線引きを、制度が変わる前にやっておくと強いんです。そして書き出した1枚は、人を雇うときの引き継ぎ資料にもなりますし、外に出すときの依頼書にもなります。一度の準備が、二重に効くんですよね。
ここで一つ、質問させてください。御社で社会保険や給与の手続きは、今、何人が・どの工程を・月に何時間やっているか、パッと言えますか。もし言えないとしたら、それは制度が変わったときに「誰かの見えない残業」で吸収される、ということでもあります。逆に言えば、書き出して見える形にした瞬間、その仕事は分けられるし、渡せるようになります。
まとめ――壁が消える前の今が、いちばん動きやすい
制度の流れは、私たちには止められません。壁はなくなり、加入する人は増え、手続きも増えていく。これはもう決まったことです。
でも「増える事務を、誰がどう持つか」は、今から設計できます。慌てて人を雇うのでもなく、担当者に黙って背負わせるのでもなく、まず1枚に書き出して分ける。そこから始めれば、変化は脅威ではなく、ただの準備運動になります。壁が消える前の今が、いちばん身軽に動けるタイミングだと、私は思っています。
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