傷病手当金が5年で1.6倍──社員を追い込む"属人化"の正体
健康保険から支給される傷病手当金の総額が、2023年度に6,000億円を超えました。5年前と比べて約1.6倍。そしてその最大の要因は、メンタルヘルスの不調です(出典:朝日新聞 2026年3月29日付)。
「うちは少人数だから関係ない」と思った方もいるかもしれません。しかし、少人数の会社ほどリスクは大きい。たった1人が半年休職するだけで、残ったメンバーへの負荷は一気に跳ね上がります。私は、この問題の根っこに「属人化」があると考えています。属人化とは、特定の人にしかできない業務が整理されないまま放置されている状態のことです。
メンタル不調による休職の実態
協会けんぽ(全国健康保険協会)が公表した令和5年度のデータによると、精神疾患による傷病手当金の支給件数は約6万件にのぼります。新型コロナ関連を除くと、全支給件数の39.6%を精神疾患が占めている計算です(出典:労働新聞)。
さらに注目すべきは、令和6年度にはこの数字が7万件を超え、過去最多を更新したことです(出典:労働新聞)。増加の勢いは止まっていません。
もうひとつ、見逃せないデータがあります。精神疾患による休職の平均支給期間は約219日。これはがん(約194日)よりも長い数字です。つまり、メンタル不調で休職すると、平均して7か月以上、職場に戻れない可能性があるということです。
大企業であれば、人員に余裕があるため休職者が出ても業務を回す手段があります。しかし中小企業ではどうでしょうか。「経理は1人」「営業事務はあの人だけ」「見積書を作れるのは社長だけ」──そんな会社は少なくないはずです。実際、中小企業の58.2%は経理・財務担当者が1名しかいないというデータもあります(出典:マネーフォワード)。
あなたの会社で「あの人がいないと回らない」業務、いくつ思い浮かびますか?
業務集中が人を追い込むメカニズム
なぜ属人化がメンタル不調を引き起こすのか。メカニズムはシンプルです。
1人に業務が集中すると、その人は「休めない」「相談できない」「ミスが許されない」という三重の圧力を受けます。有給休暇を取りたくても、自分が休むと業務が止まる。誰かに頼みたくても、やり方を知っている人が自分しかいない。この状態が数か月、数年と続けば、心身に不調をきたすのは当然のことです。
建物施設設備のメンテナンスを50年以上手がけるTMES株式会社では、まさにこの問題に直面していました。少子高齢化にともなう人手不足から現場の属人化が進行し、OJTによる人材育成が追いつかない状況だったといいます。
同社は2019年から業務の可視化に着手しました。まずBI(データ分析・可視化ツール)で「問い合わせが多い設備」を特定し、優先順位をつけてマニュアル化を推進。3年間の取り組みの結果、マニュアルの作成数・閲覧数ともに前年比150%増を達成しています(出典:ITmedia 2023年2月2日)。
この事例で重要なのは、「ツールを入れる前に、何が問題かを分析した」という点です。いきなりシステムを導入するのではなく、業務のどこに負荷が偏っているかを可視化することから始めた。この順番が、属人化解消の成否を分けます。
中小企業でも同じことが言えます。バックオフィスが抱える課題のトップ3は「属人化」「非デジタル化」「人手不足」であり、この3つは相互に影響し合っています(出典:レジリエント株式会社 note)。1つを放置すれば、残りの2つも悪化するという負の連鎖です。
1人の休職が会社にもたらすコスト
「業務整理」と聞くと、優先度が低い仕事のように感じるかもしれません。しかし、数字で見ると印象は変わるはずです。
社員1人が精神疾患で219日(約7か月)休職した場合、会社に発生するコストを試算してみます。傷病手当金自体は健康保険から支給されるため会社の直接負担ではありませんが、見えないコストが積み上がります。
・休職中も続く社会保険料の会社負担分:月額約4〜5万円 × 7か月 = 約28〜35万円
・代替人員の採用・派遣コスト:派遣利用なら月額30〜40万円 × 7か月 = 約210〜280万円
・引き継ぎ不全による業務の遅延・品質低下(金額換算は困難だが、顧客離れにつながるリスク)
・残った社員への業務再集中 → さらなるメンタル不調リスク(連鎖休職)
控えめに見積もっても、1人の休職で300万円前後の追加コストが発生します。そして最も怖いのは、残されたメンバーにさらに負荷がかかり、2人目、3人目の休職者が出る「連鎖休職」のリスクです。
この連鎖を防ぐために、私は「業務の棚卸し」から始めることを提案しています。具体的には、以下の3ステップです。
ステップ1:業務の洗い出し
社内の全業務を「誰が」「どのくらいの頻度で」「1回あたり何分かかるか」でリストアップします。紙とペンでもExcelでもかまいません。まずは見える形にすることが大切です。
ステップ2:属人化リスクの判定
リストの中から「この人がいなくなったら止まる業務」を赤く塗ります。TMESがBIツールで問い合わせ集中箇所を特定したのと同じ発想です。
ステップ3:対策の選択
属人化リスクが高い業務に対して、3つの選択肢を検討します。
・マニュアル化して他のメンバーでも対応できるようにする
・外注(BPO=業務プロセスの外部委託)に切り出して社内の負荷を減らす
・AI(人工知能)ツールで自動化・効率化する
いきなり全部やる必要はありません。まずは「最もリスクが高い業務」を1つ選んで、対策を講じるだけでも十分です。
属人化の解消は「経営判断」
傷病手当金が5年で1.6倍に膨らんだ背景には、日本中の職場で「一人に頼る構造」が放置されている現実があります。特に中小企業では、1人の休職が会社全体の機能停止につながりかねません。
業務を整理し、属人化を解消することは、社員への「やさしさ」ではなく、会社の持続性を守る経営判断です。
今週中に、自社の業務リストを1枚の紙に書き出すことから始めてみませんか。5分でも10分でもかまいません。それだけでも、見えていなかったリスクが浮かび上がるはずです。
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