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伊藤博文 - 制度をつくり国を導き時代を超えた
日本で最初に「 内閣総理大臣 」という地位に就いた人物。
伊藤博文 の生涯をたどることは、一人の政治家を見るだけではない。
幕末の長州藩士から明治政府の中心へ。憲法制定、議会政治、内閣制度、日清・日露戦争、そして韓国統監へ。
その歩みには、日本が近代国家として制度をつくり、列強の世界へ入り、やがて東アジアへ影響力を拡大していった過程そのものが重なっている。
長州から見た「 世界 」
1841年、伊藤博文 は周防国熊毛郡、現在の山口県に生まれた。
幕末には長州藩の尊王攘夷運動に参加する。
しかし1863年、伊藤 は井上馨らとともに密かに英国へ渡った。
後に「 長州五傑 」と呼ばれる留学生の一人である。
そこで 伊藤 が目にしたのは、産業革命 を経た英国だった。
工業力、軍事力、都市、鉄道、政治制度。
西欧列強 との国力差を直接見た伊藤は、単純な攘夷では日本を守れないことを認識していく。
長州藩が 外国艦隊 との衝突へ向かっていることを知ると帰国し、外国との全面対決を避けようと動いた。
幕末に海外を見た経験は、その後の 伊藤 の政治に長く影響する。
明治国家を「制度」にする
1868年、明治維新。
新政府が成立すると、伊藤 は明治政府へ入り、急速に政治の中心へ進んだ。
日本は幕藩体制を解体しただけでは近代国家にはならない。
中央政府、官僚制度、税制、軍制、通貨、教育、司法、外交。
国家を構成する仕組みそのものを再構築する必要があった。
1871年には岩倉使節団の一員として欧米を訪問する。
その後も 伊藤 は欧州へ渡り、特にドイツ・プロイセン系の憲法制度を研究し、日本にどのような政治制度を導入するのか、天皇の位置をどう定めるのか、政府と議会をどう接続するのか、様々な課題に直面する。
伊藤 は、欧米制度をそのまま輸入するのではなく、日本の政治構造に適応させた 国家制度の構築 を進めていった。
初代内閣総理大臣
1885年、日本に内閣制度が創設される。
それまで政府中枢を担っていた 太政官制度 に代わり、各国務大臣 とその中心となる 内閣総理大臣 によって政府を運営する仕組みが導入された。
初代内閣総理大臣 となったのが、44歳の 伊藤博文 だった。
伊藤 はその後、合計4度にわたって首相を務める。
そして1889年、大日本帝国憲法 が発布された。
翌1890年には帝国議会が開設され、日本で憲法に基づく議会政治が始まる。
近代日本がどのような制度によって動く国家になるのか、その基本設計そのものに深く関与した政治家だった。
政府と政党
しかし、憲法と議会を作れば政治が安定するわけではなかった。
帝国議会が始まると、政府と政党との対立が繰り返された。
政府は国家運営の継続性を重視する。
一方、議会には予算を審議する権限がある。
藩閥を中心とする政府と、選挙によって議席を得た政党。
新しい政治制度の中で、この二つをどう接続するのかが大きな問題となり、伊藤自身も次第に、政府だけで議会政治を運営することの限界を認識していくようになった。
1900年には 立憲政友会 を結成。
明治政府の中心人物だった 伊藤 自身が政党政治へ踏み込んだことは、日本政治の変化を象徴していた。
日清戦争と東アジア
伊藤 が二度目の首相を務めていた1894年、日清戦争が始まる。
翌1895年、日本は清に勝利し、下関条約 が締結された。
清は朝鮮の独立を認め、台湾などを日本へ割譲した。
日本は東アジアにおける新たな勢力として急速に台頭する。
しかし直後、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉によって、日本は遼東半島を清へ返還することになる。
軍事的に勝利しても、列強との力関係によって成果を維持できない。
明治日本はここでも、国際政治における大国間の力の差を突きつけられた。
そして東アジアでは、ロシアの影響力が急速に拡大していく。
ロシアと朝鮮
朝鮮半島は、日本とロシア双方にとって重要な地域となった。
日本国内ではロシアとの衝突を想定する議論が強まる。
しかし 伊藤 は、ロシアとの交渉可能性も探った。
1901年には 伊藤 自身がロシアを訪問し、日露間の利害調整を試みている。
交渉は最終的な合意には至らなかった。
1904年、日露戦争 が始まる。
1905年、日本は戦争に勝利したが、日本の国力も大きく消耗していた。
戦後の課題は、単純に「 勝者として勢力を拡大する 」ことだけではない。
ロシアとの再戦を避けながら、満洲と朝鮮を含む東アジアの秩序をどう安定させるのか、日本は新しい段階へ入っていた。
初代韓国統監
1905年、第二次日韓協約によって大韓帝国の外交権は日本の管理下に置かれ、翌1906年、統監府が設置される。
初代韓国統監となったのが 伊藤博文 だった。
伊藤 の統監時代、日本による韓国への関与はさらに強まった。
1907年には第三次日韓協約によって統監の権限が拡大し、日本は韓国の内政へ深く関与するようになる。
韓国軍も解散され、日本支配への抵抗は各地で拡大した。
伊藤 は、日本による韓国支配を進めた中心人物の一人である。
一方で、韓国を直ちに日本へ併合することについては当初慎重だった。
韓国政府という国家形式を残しながら、日本が重要政策を監督する保護国体制を運営した。
しかし1909年になると 伊藤 も併合を容認する方向へ移る。
同年7月、日本政府は適切な時機に韓国併合を実行する方針を決定した。
この時点で、日本の対韓政策は次の段階へ入りつつあった。
ハルビン
1909年10月、ロシア帝国の財務大臣ウラジーミル・ココフツォフとの会談のため、伊藤 は満洲へ向かった。
日露戦争 から4年、かつて戦った日本とロシアは、再戦ではなく、満洲を含む東アジアにおける利害を調整する方向へ進んでいた。
10月26日、伊藤 を乗せた列車がハルビン駅へ到着する。
伊藤 は列車内でココフツォフと会談した。
その後、ホームへ降りた 伊藤 に、韓国の独立運動家 安重根
が近づき、発砲した。
伊藤博文 は死亡、享年68歳だった。
安重根はその場でロシア側に拘束され、後に日本側へ引き渡された。
伊藤の死と韓国併合
伊藤 の暗殺が 韓国併合 を決定したわけではない。
日本政府は暗殺より約3か月前の1909年7月、すでに将来の併合方針を決定していた。
伊藤 自身も、その段階では併合を容認していた。
1910年8月22日、韓国併合条約 が調印される。
8月29日、条約が公布され、大韓帝国は日本の統治下へ入った。
伊藤暗殺 から約10か月後のことだった。
伊藤博文が残したもの
伊藤博文 の政治人生には、明治日本の大きな二つの側面が重なっている。
一つは、
近代国家をつくった日本。
東アジアへ勢力を拡大していった日本。
伊藤 はその両方に深く関わった。
明治日本が、列強に支配されない国家をつくろうとした過程と、その日本自身が周辺地域へ支配を拡大していった過程を、同じ人物の中から見ることでもある。
MVP Perspective
伊藤博文 は、幕末に英国を訪れ、西欧列強との圧倒的な国力差を目撃した。
その後、日本の国家制度をつくり、列強との外交を担い、日本を国際政治の一員へ押し上げていった。
そして晩年には、その日本が朝鮮半島の政治を左右する側に立っていた。
1840年代の幕末から1909年のハルビンまで。
伊藤 の68年間を追うと、「 列強から国家を守る 」という明治初期の課題が、「 日本自身が列強としてどう行動するのか 」という問題へ変化していく過程が見えてくる。
伊藤博文 という人物は、その転換点のほぼすべてを通過した。
彼の生涯は、一人の政治家の記録であると同時に、近代日本という国家が形成され、その力を東アジアへ拡大していった時代そのものの記録でもある。

