MVP ARCHIVE HISTORY | Annexation of Korea 1910 / 韓国併合 - 主権が段階的に失われた過程

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韓国併合 - 主権が段階的に失われた過程
1910年8月22日、日本と大韓帝国の間で 韓国併合ニ関スル条約( 韓国併合条約 )が調印された。
条約は8月29日に公布・発効し、大韓帝国は消滅した。
朝鮮半島は日本の統治下に入り、この状態は1945年まで続く。
しかし、韓国併合 は1910年に突然発生した出来事ではない。
19世紀末の朝鮮半島では、清、日本、ロシアなどの勢力が交錯していた。
日清戦争 と 日露戦争 によってその力関係が変化すると、日本は朝鮮半島における影響力を段階的に拡大した。
1910年の 併合 は、それ以前から進行していた大韓帝国の主権縮小の最終段階だった。
朝鮮半島をめぐる国際関係
19世紀後半、朝鮮は清との伝統的な関係を維持しながら、欧米諸国や日本との外交関係を拡大していった。
1876年、日本と朝鮮の間で 日朝修好条規( 江華島条約 )が締結される。
条約では朝鮮を「 自主ノ邦 」と規定し、日本との外交・通商関係が形成された。
しかし朝鮮国内では、近代化をめぐる政治対立や外国勢力との関係をめぐる対立が続き、清と日本も朝鮮半島への影響力を競いあうなか、その対立が1894年の 日清戦争 へつながった。
日清戦争と大韓帝国
1895年の 下関条約 で、清は朝鮮が「 完全無欠ナル独立自主ノ国 」であることを確認し、朝鮮と清の従属的な国際関係は制度上解消された。
1897年、高宗は国号を 大韓帝国 とし、自ら皇帝に即位する。
しかし清の影響力が後退したことで、今度は日本とロシアの影響力が強く衝突、満州と朝鮮をめぐる両国の対立は、1904年の 日露戦争 へ発展した。
日露戦争
戦争開始後、日本は大韓帝国との間で 日韓議定書 を締結した。
さらに1904年の 第一次日韓協約 によって、日本政府が推薦する財政・外交顧問が 韓国政府 に置かれた。
この段階から、日本による韓国内政への関与が制度として強まっていく。
1905年、日本は 日本海海戦 などを経て 日露戦争 で 軍事的優勢 を確保、
同年9月、ポーツマス条約 が締結される。
ロシアは、日本が韓国において政治上、軍事上及び経済上の卓絶なる利益を有することを認めた。
朝鮮半島をめぐる最大の競争相手だったロシアが後退したことで、日本の影響力はさらに強まった。
1905|外交権
ポーツマス条約 から約2か月後の1905年11月、日本と大韓帝国の間で 第二次日韓協約 が締結された、いわゆる 乙巳条約 である。
これによって日本政府は大韓帝国の外交を管理することになり、大韓帝国は独自に外国との外交関係を処理する能力を失った。
翌1906年には 統監府 が設置され、伊藤博文 が 初代統監 となった。
この時点では大韓帝国という国家そのものは存在しており、皇帝も政府も残っている。
しかし国家主権の重要な構成要素である外交権は失われていた。
1907|統制の拡大
高宗は 第二次日韓協約 の締結に反発した。
1907年、オランダの The Hague で開かれていた 第二回万国平和会議 へ密使を送り、協約の無効を国際社会へ訴えようとした、ハーグ密使事件である。
しかし密使は会議への正式参加を認められなかった。
事件後、高宗は退位し、純宗が即位した。
続いて1907年7月、第三次日韓協約 が締結された。
これによって韓国政府の法令制定や重要な行政処分、高級官吏の任免などに統監の関与が強まり、日本人官吏が韓国政府内部へ配置されるようになる。
同年、大韓帝国軍は解散、外交権に続き、行政と軍事における自己決定能力も大きく縮小した。
抵抗
日本の影響力拡大に対する抵抗も存在した。
特に1905年以降、各地で 義兵運動 が拡大する。
1907年の韓国軍解散後には、解散した軍人の一部も義兵へ参加した。
日本軍・警察はこれらの武装抵抗を鎮圧した。
また政治・教育・産業などを通じて国力を高めようとする 愛国啓蒙運動 も展開された。
主権縮小の過程が、大韓帝国内で一方向に受け入れて進んだわけではない。
伊藤博文暗殺
1909年10月26日、前韓国統監 の 伊藤博文 が中国東北部の Harbin 駅で、韓国人の安重根によって射殺された。
安重根は日本による韓国支配への反対などを暗殺理由として挙げた。
伊藤博文 の死後、日本政府内では 韓国併合 へ向けた動きが進む。
ただし、韓国併合 そのものは 伊藤暗殺 によって突然決定されたものではなく、日本政府ではそれ以前から併合を含む韓国政策が検討されていた。
1910|統治権
1910年8月22日、日本側の 寺内正毅統監 と韓国側の李完用首相によって 韓国併合条約 が調印された。
条約第1条では、韓国皇帝が韓国全部に関する一切の統治権を日本国皇帝へ譲与するとされた。
第2条では、日本国皇帝がその譲与を受諾し、韓国を日本帝国へ併合することを承諾するとされた。
8月29日、条約が公布・発効、大韓帝国は消滅した。
朝鮮総督府
併合後、日本は 朝鮮総督府 を設置した。
朝鮮総督 は日本政府の下で 朝鮮統治 を担当し、行政権だけでなく広範な権限を持ち、初代朝鮮総督には寺内正毅が就任した。
1910年代には憲兵警察制度を利用した強い統制が行われた。
土地制度については土地調査事業が実施され、近代的な土地所有・課税制度の整備が進められた一方、その制度変更は朝鮮社会の土地所有や農村経済にも大きな影響を与えた。
鉄道、港湾、道路、通信などのインフラ整備も進み、教育制度や行政制度も再編された。
これらは朝鮮半島の社会・経済構造を変化させると同時に、日本による植民地統治を機能させる制度として構築されたものでもあった。
三・一運動
1919年3月1日、朝鮮各地で独立を求める大規模な運動が始まった。
三・一運動( March First Movement )である。
独立宣言が発表され、学生、市民、宗教関係者などが参加する運動が各地へ拡大、日本側は警察・軍などを投入してこれを鎮圧し、多数の死傷者・逮捕者が発生した。
三・一運動後、日本の統治政策には変化が加えられた。
憲兵警察を中心とした統治から普通警察制度へ移行し、新聞発行など一部の社会活動への規制も変更された。
一般に文化政治と呼ばれる統治方針への転換である。
ただし朝鮮が日本の統治下にあるという基本構造そのものが変更されたわけではなかった。
1930年代以降
1930年代、日本が 満州事変、日中戦争 へ進むと、朝鮮半島は日本の戦時体制へさらに深く組み込まれていった。
工業化が進み、特に朝鮮北部では重化学工業や電力開発が拡大した。
一方で戦争の長期化とともに人的・物的資源の動員も強化された。
日本語教育や皇民化政策、創氏改名などが実施され、朝鮮人の日本軍・軍属、労働力としての動員も拡大した。
植民地統治は、国際情勢と日本の戦争拡大によってその性格を変化させていった。
1945|統治の終了
1945年8月、日本は 第二次世界大戦 で降伏した。
これによって1910年以来続いていた日本による朝鮮統治は終了する。
しかし朝鮮半島が直ちに一つの独立国家として再出発したわけではなく、
北緯38度線を境として、北部にはソ連軍、南部にはアメリカ軍が進駐した。
その後、 冷戦構造の中で1948年に南側では大韓民国、北側では 朝鮮民主主義人民共和国が成立、そして1950年、朝鮮戦争 が始まる。
韓国併合 から続いた歴史は、日本の敗戦だけで完結せず、戦後の東アジア秩序へ接続していった。
一つの条約ではなく、主権の変化を見る
韓国併合 を1910年だけで見ると、日本と韓国が条約を結び、日本が韓国を併合したという一つの出来事に見える。
国家は、国境線が消えた瞬間にだけ主権を失うわけではない。
外交権、行政権、軍事力統制、最終的な統治権を誰が持つのか。
国家の自主性は、複数の権限によって構成されている。
韓国併合 の過程は、その構造を歴史上きわめて明確に示している。
Archive Point
Annexation of Korea( 韓国併合 )は、1910年8月の 韓国併合条約 によって大韓帝国が日本へ併合され、日本による朝鮮統治が始まった出来事である。
日清戦争 によって清の影響力が後退し、日露戦争 によってロシアが朝鮮半島をめぐる競争から後退すると、日本は大韓帝国への影響力を強めた。
1905|外交権
1907|行政統制・軍隊解散
1910|統治権
という変化を経て、大韓帝国は国家としての自己決定能力を失っていった。
その後35年間、日本は朝鮮半島を統治した。
そして1945年、日本の敗戦によってその統治は終了する。
しかし、その先には米ソによる分割占領、南北国家の成立、朝鮮戦争が待っていた。
日清戦争 → 日露戦争 → ポーツマス条約 → 韓国併合 → 日本統治 → 第二次世界大戦 → 朝鮮半島分断
東アジアの国際秩序が大きく組み替えられていく歴史の中に位置する。
そしてこの過程を見ると、1910年の「 併合 」という結果より前に、国家を国家として成立させていた権限が一つずつ移動していたことが見えてくる。

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