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MVP ARCHIVE HISTORY | Manchurian Incident 1931–1933 / 満州事変 - 1つの事件が国家の進路を変えた

Manchurian Incident 1931–1933 / 満州事変 - 1つの事件が国家の進路を変えた

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満州事変 - 1つの事件が国家の進路を変えた

1931年9月18日、中国東北部の奉天( 現在の瀋陽 )郊外、柳条湖付近で 南満州鉄道 の線路が爆破された。
日本の関東軍はこれを中国側による攻撃として軍事行動を開始する。

しかし爆破は関東軍側によって計画・実行されたものであり、線路の被害も限定的だった。列車の運行は間もなく継続された。
この 柳条湖事件 を契機として、関東軍は奉天を占領し、その後中国東北部へ軍事行動を拡大する。

1932年には 満州国 が成立、そして1933年、日本は 国際連盟 からの脱退を表明する。
満州事変 は、その過程で、日本政府の方針を越えて現地軍が行動し、軍事的に形成された既成事実を政府が止められず、最終的に国家政策がその現実へ適応していった。

現地で始まった例外的な行動が成功し、その結果が追認されることで、国家の意思決定そのものが変化していく。

満州に存在した日本の権益

1904年、日本とロシアの間で 日露戦争 が始まった。
日本は戦争で軍事的優勢を確保し、1905年の ポーツマス条約 によってロシアが中国から得ていた 遼東半島南部の租借権 と、長春以南の鉄道 および 関連権益 を引き継いだ。
これを基礎として1906年、南満州鉄道株式会社( 満鉄 )が設立される。

鉄道輸送に加えて炭鉱、港湾、ホテル、調査活動など広範な事業を展開し、鉄道沿線には日本が行政・警察などに関する権限を持つ 満鉄附属地 が形成された。

また遼東半島南部には、日本の租借地である 関東州 が存在した。
これらの権益を防衛するために置かれた部隊が、後の 関東軍 である。
つまり1931年以前から、日本は満州に経済・軍事・政治上の大きな利害を持っていた。

中国の変化

1911年の 辛亥革命 によって清朝が崩壊し、中華民国が成立する。
しかし国内では軍閥勢力が各地に存在し、政治的分裂が続いた。

1920年代になると、中国国民党 を中心とした統一運動が進展する。
1928年、張作霖が爆殺された後、その子である張学良は 南京国民政府 への合流を表明、中国統一が進むにつれて、外国が中国国内に持っていた特殊権益への批判も強まった。

日本側では、満州に持つ権益や安全保障上の地位が将来維持できなくなるのではないかという危機感が強まっていく。
日本と中国の間では、鉄道、土地、経済活動などをめぐる摩擦も拡大した。

関東軍

関東軍は、日本の 満州権益 を防衛する軍事組織として存在していた。
しかし一部の関東軍将校は、単に既存権益を防衛するだけでは満州問題を解決できないと考えるようになり、満州を中国の政治変動から切り離し、日本の影響下に置く構想が形成された。

その中心人物として知られるのが 石原莞爾 板垣征四郎 らである。
重要なのは、この構想が日本政府の正式な国家政策として決定され、その命令に従って実行されたものではなかったことである。

1931年9月18日|柳条湖事件

1931年9月18日夜、奉天郊外の柳条湖付近で 南満州鉄道 の線路が爆破され、関東軍は中国軍による破壊工作として行動を開始する。

しかし現在では、爆破は関東軍の一部によって軍事行動を開始する契機として計画されたことが明らかになっている。
爆破による線路の損傷は小さく、その後列車も通過している。
それでも関東軍は近隣の中国軍部隊への攻撃を開始し、奉天は短期間で占領され、事件は鉄道沿線の局地的衝突では終わらなかった。

政府は拡大を止めようとした

東京の 若槻礼次郎内閣 は、事態を拡大させない方針を取った。
しかし現地では関東軍が軍事行動を継続、ここで日本の意思決定に重大なねじれが生じる。

既成事実が拡大する

関東軍はその後も作戦を拡大、吉林などへ進出し、1931年末から1932年初頭には錦州方面にも軍事行動を広げ、満州の主要地域は短期間で関東軍の支配下に入っていった。

ここで重要なのは、命令違反が起きたという一点だけではない。
命令系統を越えた行動によって成果が生まれ、その成果が国家によって最終的に追認されたことである。

1932年|満州国

1932年3月、中国東北部に 満州国( Manchukuo )が成立した。
清朝最後の皇帝だった溥儀が執政となり、1934年には皇帝となった。
日本政府は1932年9月、日満議定書によって満州国を承認する。

政治・軍事・行政の重要部分には日本、特に関東軍が強い影響力を持った。
満州事変 によって始まった軍事行動は、単なる占領ではなく、新しい政治体制の形成へ発展した。

国際連盟

中国政府は 満州事変国際連盟 へ提訴、国際連盟は事実関係を調査するため、英国の Victor Bulwer-Lytton を団長とする リットン調査団 を派遣した。

調査団は満州、中国、日本を訪問し、1932年に報告書を提出する。
報告書は、日本が満州に特別な利害を持つことや、事件以前から日中間に深刻な対立が存在したことを認めた。

一方で、日本軍の行動を正当な自衛措置としてそのまま認めることはできず、満州国についても自発的な独立運動によって成立した国家とは評価しなかったため、国際連盟 は 満州国 を承認しない方向へ進む。

1933年|国際連盟脱退

1933年2月、国際連盟総会 ではリットン報告書を基礎とする勧告が採択され、日本代表団の 松岡洋右 は総会場を退場する。
同年3月、日本政府 は 国際連盟 からの脱退を正式に通告、規約上の手続きを経て1935年に正式脱退となった。

なぜ止まらなかったのか

問題は、暴走が発生したことだけではなく、その行動が軍事的成果を生み、その成果が撤回されず、最終的に国家政策へ組み込まれたことにある。

「 命令系統を越えても、結果を出せば最終的に認められる可能性がある。」
これは文書化された制度ではないとしても、組織が実際に何を許し、何を追認したかは、その後の行動に影響する。

成功が統制を弱くする

日清戦争、日露戦争 を経て、日本軍は国家の国際的地位を大きく変えた実績を得た事で、軍の社会的・政治的権威を高める結果となった。
そこへ 満州事変 の成功が加わり、短期間で広大な地域を軍事的に掌握したという結果だけを見れば、関東軍の判断が正しかったようにも見える。
しかし国家全体では、軍事的成果 が上がると同時に、政府による軍の統制能力は次第に低下していった。

局所的合理性

満州にいる関東軍から見れば、中国の統一が進み、日本権益への圧力が強くなる前に行動することには独自の合理性が存在した。
軍事組織として見れば、敵対的になり得る勢力を排除し、鉄道や権益を安全な状態へ置くことも合理的に見える。

しかし国家は軍事だけで存在しているわけではない。
外交・財政・経済・国際関係・国内政治・そして将来の戦争リスク。
一つの部門にとって合理的な判断が、国家全体にとって合理的とは限らないことを、満州事変 は非常に明確に示した。

日中関係の悪化

満州国成立 後も、日本と中国の対立は終わらなかった。
1933年には 熱河作戦 が行われ、塘沽停戦協定 が成立する。
しかし中国国内では日本への反発がさらに強まる。

一方、日本では 満州国 の維持と中国北部への政策が新たな外交・安全保障問題となり、満州を確保したことで、確保した満州を維持するための新しい問題が発生した。

日中戦争へ

1937年7月、北京郊外の 盧溝橋付近 で日本軍と中国軍の衝突が発生する。
盧溝橋事件 である。
当初は局地的な軍事衝突だったが、戦闘は拡大し、日中戦争 へ発展する。

1931年の時点で1937年以降の展開が決定していたわけでもない。
しかし 満州事変 によって、日本軍の中国大陸での存在、満州国という政治体制、日中間の対立、日本と国際社会との関係、そして軍と政府の意思決定構造が変化した。

Archive Point

Manchurian Incident( 満州事変 )は、1931年9月18日の柳条湖事件を契機として関東軍が中国東北部へ軍事行動を拡大し、満州国成立へつながった一連の出来事である。

その背景には、日露戦争ポーツマス条約 によって日本が獲得した 南満州鉄道 や 関東州 などの権益、中国国内の政治変化、日中間の対立が存在したが、満州事変 が日本近代史の大きな転換点となった理由は他にもある。

日本政府が当初不拡大方針を示したにもかかわらず、関東軍は軍事行動を拡大、軍事的成功によって既成事実が形成されると、政府はその結果を止められず、最終的に国家政策へ取り込んでいった。

満州事変 では、局所的には合理的に見え、しかも短期的には成果を生んだ行動が、国家全体の統制構造と次の選択条件を変えていった。

満州事変 は、戦争の歴史であると同時に、組織が「 成功した例外 」をどのように扱うかという問題を残した歴史でもある。

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