今、この国にはびこる「貧乏」を、私たちはどうとらえ、どう考えるべきなのか?
以前、某・・・都区内の、私より幾分年上の方々が多数集う昼カラオケのお店で、黒澤明とロス・プリモスの「ラブユー東京」を歌ってみたことがあります。
その後しばらくして、その場にいた私よりいくらか年上の女性の方から、こう声を掛けられました。
「『ラブユー貧乏』って知ってる? 歌える?」って。
きっとご存知の方もいるでしょうが、メロディーは「ラブユー東京」と同じで、歌詞だけを自虐的に変えたものです。
その時、私は「一応、知ってはいますが……」と曖昧な返事をしました。
なるべくなら、自分の口から「♪貧乏~」などというマイナスイメージの言葉を発する歌は避けたかったからです。
自ら発した言葉が、その現実を引き寄せてしまう側面も否定できないと考えているためです。
しかし数分後、「声をかけていただいた以上、これも何かの御縁として歌った方が良いのではないか」と思い直し、デンモク(選曲端末)で検索しようとしました。
すると、幸いなことに(?)、声をかけてくれた女性の方ご自身がその歌を入れたとのことだったので、私が歌う事態は回避されました。
(その後、別件において「自分を必要としてくれる誰かの希望に、無理には合わせないほうが良い」という経験をしたこともあり、現在ではこういった自分にとってマイナスになりそうなお誘いは明確にお断りすることにしました)
また別の機会、場所は代わって同世代の多くの方々が集まるカラオケの場でのことです。
ある女性の方が、高橋真梨子さんの「for you…」を歌っていました。
そして、「♪あな〜たが〜ほしい〜」と繰り返すサビの場面で、その方は、その歌詞と交互に「♪おか〜ねが〜ほしい〜」と歌い替えていました。
周囲にいた何十人もの聞き手に、それが大ウケしていました。
そんな情景を思い返していた折、インターネット上で次のような一文を目にしました。
カナダの大学の経済学で取り上げられたそうだ。
日本の貧困者は薬物もやらず、犯罪者の家族でも移民でもない。
教育水準が低いわけでもなく、怠惰でもなく勤勉で労働時間も長く、スキルが低いわけでもない。
世界的にも例の無い、完全な『政策のミス』による貧困だ。
これを目にしてしまった私は、先に出した例の「♪ビンボー、ビンボー……」という歌や、「♪おか〜ねが〜ほしい〜」という替え歌を、もはや無条件に笑い飛ばせなくなっていることに気づきました。
今回は、このネット上の言説を足がかりに、現在の日本にはびこる「貧乏」の本質について考察します。

まず、事実関係の確認が必要です。
この「カナダの大学の〜」という文章は、よく調べてみると、ネット上で広く拡散されたいわゆるコピペであり、具体的な大学名や教授名、論文といった一次ソースは(「日本語」や「英語・フランス語の自動翻訳」で私自身がネット上で調べられた範囲内では)確認できませんでした。
これを「権威ある学術機関の客観的事実」としてそのまま引用することは、論理的な正確性を欠くことになる様です。
しかし、発信源の真偽は別として、ここに記述されている「日本の現状描写」については、マクロ経済のデータや社会実態に照らし合わせて、おおむね妥当であると言わざるを得ません。
日本の実質賃金は長期にわたり停滞ないし下落傾向にあります。
高校大学などへの進学率は高く、治安は維持され、労働者は勤勉に長時間の業務に従事しています。
諸外国で貧困の要因とされやすい「薬物問題」や「治安の悪化」「公教育の崩壊」といった要素をほとんど持たないにもかかわらず、今の日本の社会の構造として相対的貧困が拡大しているのは事実です。
最後の一文にある「完全な『政策のミス』」という断定については、一面的すぎるきらいがあります。プラザ合意以降の産業構造の変化や、少子高齢化という人口動態など、複合的な要因が絡んでいるからです。
しかし、労働市場の二重構造(正規・非正規の格差)の放置や、長期にわたるデフレ脱却の失敗など、歴代政権や現政権の経済・雇用政策が、現在の状況を招いた極めて大きな要因の一つであることは否定できません。
諸外国の視点から見れば、この日本の現状は、きっと極めて特異な現象だと思います。
社会インフラが整っていて、街は清潔だし、労働者が低賃金でも高品質なサービスを提供し続けているのに、経済は停滞し、人々は貧しさを抱えている。
これは「Japanification(ジャパニフィケーション・
日本化=長期停滞)」として、他国が陥るべきではない反面教師としての分析対象となっているそうです。
…と、これを書きながらネット検索し、また書いてネットを・・・を繰り返し中・・・に見つけてしまった『Japanification』のお話でした。
…そういう風に他国から見られてたなんて、思わずビックリ('〇';)。長期停滞の意味での「ジャパニフィケーション」や、ひところ良く言われた英国病ならぬ「日本病」なんて言葉の存在にも!

では、なぜこのような状況にあって、日本の社会は暴動や大規模なストライキといった形で社会構造への異議申し立てを起こさないのでしょうか。
ここで、冒頭のカラオケのエピソードが意味を持ってきます。
「♪貧乏〜」を自虐的に歌い、「♪お金が~欲しい~」と替え歌にして皆で笑う。
これは、社会の理不尽さや貧しさに対する不満(ルサンチマン)を、エンターテインメントとして消費し、ガス抜きをしている状態に感じます。
本来であれば、構造的な問題に対しては、政治的な意思表示(投票やデモなど)によって現状の変革を求めるのが民主主義における合理的な行動だと思います。
しかし、日本の多くの人々は、問題を正面から見据えることを避け、自虐的な笑いに昇華してやり過ごすことを選びます。
この背景には、長年にわたる日本の「管理教育」の影響が色濃く表れています。
波風を立てずに、そして場の空気を壊さず、また、与えられた枠組みの中で諦観を共有する。
この同調圧力が、「皆も同じように苦しいのだから仕方がない」というある種の心地よい連帯感すら生み出しています。
カラオケでの大ウケは、その象徴的な風景に見えました。

さて、このような状況下で、私たち日本人が真に豊かになるためにはどうすれば良いのでしょうか。
…いや、そもそも、私たちは本当の意味で「良くなること」を望んでいるのでしょうか。
社会を良くして、経済的な豊かさを取り戻すためには、既存のシステムに異議を唱えて、摩擦を恐れずに、そして自らリスクを取る必要があります。
しかし、現在の日本を覆っているのは、極めて強力な「現状維持バイアス」です。
貧困を「政策のミス」と他責にし、ネット上の言説で溜飲を下げて、カラオケで自虐的に笑い合っているだけでは、現実は1ミリも変わりません。
その政策を選択し、あるいは投票に行かないことによって(事実上)今の権力者への白紙委任を行ってきたのは、他ならぬ有権者自身だからです。
この国にはびこる「貧乏」の根底にあるのは、経済の問題以上に、主権者としての当事者意識の「貧困」です。
私たちが真に良くなることを望むのであれば、まずはこの「諦観の連帯」から抜け出さなければなりません。
有権者一人ひとりが管理された枠組みから思考を解放し、社会の課題を自らの問題として捉え、自らの意思で判断すること。
政治に対する「どうせ変わらない」という冷笑主義(シニシズム)から脱すること。
自虐的な替え歌を無条件に笑い飛ばしている現状そのものに危機感を抱くことこそが、この国の状況を変えるための、唯一の出発点なのではないでしょうか。
