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意図(intention)の力について

The Effect of Intention(意図の作用) June 2007
今回はこの動画の内容について触れつつ、"意図" なるものについて書いていきますので、まずはご覧ください。


記事を書くことについての意図あれやこれや

記事を作成する場合、これまでは前書き的な話も本題も「おまけ」もすべて、頭から最後まで一気にその日の内に書き上げていました。それはそれで、その時のインスピレーションに任せているため、書き上げたものを自分自身で読んでみたときに「へえ、こんなものが(自分の頭もしくは手から)出てきたんだ」という驚きがあって面白かったので、2018年以来ずっとそうしてきました。

しかし今後は記事の書き方をちょっと変えて、余談的な話や「おまけ」の部分についてなにかアイディアが浮かんだ時にはそれを下書きとして書いて残しておくようにしていこうと思いました。こうする理由は、まずひとつには「せっかく浮かんだアイディアがもったいない」からです😌 そうしたアイディアのうち、強力なものはそれがそのまま記事を書く動機になっていたりするので、すべてのアイディアが水の泡として消えていったわけではないのですが、それでも忘れていなければもっとたくさんのことが書けていたなと思います。

もう一つには、長い記事を一気に書き上げるのはものすごく疲れるからです。一本の記事を書くのにかかる時間はざくっと言えば半日で、短ければ3時間ほど、長いときは8時間くらいです。若い時デスクワークで朝から晩までキーボードを叩いていてもそんなに疲れたことはなかったのですが、とくにこの3年くらいは記事を書き上げるとしばらく動けないほど消耗するようになりました。単に疲れるというだけでなく、書いているときは発汗がすごくて、夏場にクーラーをかけていても汗だくになってしまいますし、冬場はエアコンがいらないほどです。単純にキーボードを叩くだけではそこまで発汗するほど心拍数が上がるはずもありませんし、普段から運動もしているのでなおさらですよね。

自分のことを神秘めかして書くつもりはないのですが、でも不思議なことに、いま書いているような内容つまり霊的な話とは直接関係がないような話題なら、このような発汗とそれに伴う消耗はほとんどないんです。実際のところ、いまこの文章は本題(この時点でそれがどんな内容になるかはわたしにも分かりませんが)とは別に前もって書いていたものなのですが、これを書いているいま現在は非常にリラックスしながら快適に書いています。

つまり、なんや知らんけど、霊的なことにまつわる話を書くときはめちゃめちゃ汗が出て、めちゃめちゃ疲れるのです。まあおそらく、わたしにとってもそういう作業は心身をフル稼働させる必要があるんだってことなんでしょうけどね。ともあれ、その上に前書きとかおまけとか、本題とは別の話題(この文章がそれに該当します)までいっぺんに書くのがちょっと大変やなあと思いはじめました。あと、書き上げたあとで誤字脱字のチェックや文章のリズムが良くない場所の手直しとかもやりたいんですが、気力が残っていないのでとりあえず公開し、翌日にそれをやっていることが多いです。

まあ、そもそも記事が長すぎる(たぶん、note の記事としては最も長い部類になるでしょう)んで、前書きとかおまけとか無くせばいいんじゃね? ということも思ったんですが、わたしの直感は "否!" と言っています。実をいうと、わたしの記事は誰に読んでもらいたいかを割と狭く限定しています。誰に? というのは特定の個人のことではなく、特定の層、ざっくりというなら意識レベル350位から500台の半ばの人で、中でも意識レベル 400台の「知性、理性の領域にいる人々」(※)をメインに想定しています。言うほど狭く限定してなくないですか!? と思われたかもしれませんが、人口比でいうと、この領域の人々は比較的少数なんですよね。

※400台の人々に肩入れする理由は、この領域の人々が500以上に飛躍することは、それ以下の領域の人々にとってよりも困難だからで、それ以外の理由はありません。もっとも、色々考えたうえでそうすると決めたのではなく、単にわたしという肉体精神機構の特性、つまりわたしの考え方、教え方、文章の書き方が、400台の人々に教えるのに最適であるように思えたからに過ぎません。

もちろん、無料で公開しているわけなので、誰でもわたしの記事を読めますよ。しかし、誰もが読みこなせるわけではありませんし、最後まで読み切ることができる人となると、かなり少ないはずです。読み切るためには「かならず最後まで読むぞ」という "意図" と、それを遂行するためのコミットメントが必要ですが、言い換えるとそれをわたしはみなさんに要求しているんです。なぜなら、それができる人こそがわたしが想定している読者の層だからです。

それ以外には、お金も、わたしへの称賛も崇拝もなにも要求しません。わたしのメッセージは「わたしを見ないで、あなた自身を見てください」というものです。お金儲けが目的だったり自己顕示欲や権力欲を満たすためにやっているような自称グルのメッセージは「わたしを見なさい。わたしだけを見なさい。わたしを称賛しなさい。わたしの壺を買いなさい。わたしのサロンに入りなさい。そして、わたしのメッセージを拡散しなさい」です。

わたしの記事は「読者の意識レベルを引き上げる」ことを意図して書かれています。ですから、それをしっかり読もうという意図はつまるところ "意識レベルを飛躍させるぞ" という意図とイコールなのです。

さて話を戻すと、記事の構成やボリュームを変えることはしない方がいいという判断をしました。わたしは基本的に、なにを伝えるにも可能な限り短い文章の方がよいと思っている人間ですが、それでも記事がこんなにくそ長くなっているのは、ここで伝えようとしているのは書かれていること(つまりコンテント)だけではなく、その文脈(コンテクスト)までも、ということだからです。

というより、大事なのはコンテクストの方です。コンテントはただの形であり、幻想です。コンテントをコンテクストの中に正しく配置するとき、コンテントはコンテクストに溶けて消え、真実が姿を現します。このときコンテクストは無限の意識のフィールドとして探求者をエンパワーします。何気ない日常のことや趣味などの雑多な話を避けるグルは非常に多いですが、そのようなグルが語る話(コンテントだけの話)はほとんど無意味です。

ですので、おまけと言えども、それがわたしによるものである以上、わたしという人間のもっているコンテクストの一部ですから。一方で、記事の書き方は変えることが可能です。ということで、新しい試みをしています。それによって記事全体の雰囲気が多少なりとも変わる可能性はありますが、本質的なところではなにも変わらないと思います。


意図の力

さて、最近また Veritas Publishing のホーキンズ博士の動画をよく観ています。残念ながら、わたしには博士の話している内容を英語でそのまますべて理解することはできないので自動翻訳に頼っていますが、それでも十分です。日本語で出版されている二冊の本には書かれていないような話題も多いので面白いです。

今回シェアした動画では、量子の世界が意識の本質にもっとも近いということから、意図(intention)の力がいかに強力かを説明されています。なぜ祈り(も意図の一形態です)が通じるのかというと、一なる意識という場において意図は空間的な距離や時間に制限されることがなく、因果律を超えている(=非線形領域にある)からですが、将来的には量子もつれという現象がこれを裏付ける可能性があります。

この動画で行われている講義において話題となっている "意図" とは、「必ず意識レベルを高めるぞ」という決意とコミットメントのことですです。さきほど、わたしの記事を読むにはコミットメントが必要であると述べましたが、そのコミットメントとはまさに「意識レベルを高めるためにこれを読むぞ」という決意を表明し、それを実行することです。ジュニャーナ(智慧の道)にせよバクティ(明け渡しの道)にせよ、それが成就するかどうかはこの決意コミットメント次第です。覚悟と言い換えてもいいかもしれませんね。

たとえば煙草をやめようと思ったとします。ほとんどの人が禁煙に失敗するのは「やめれるならやめたい」としか思っていないからです。「行けたら行くわ」という人がほぼほぼ来ないのと同じ道理です。つまるところ、やめられない人は "やめる決意、やめる覚悟" をしていないだけです。本当に、これは簡単な話です。なにがあろうと、つまりニコチンの禁断症状が辛かろうと、周囲からの誘惑が強かろうと、とにかく自分は二度と煙草は吸わないと心の底から決意できれば、煙草程度のものは苦労することなくやめることができます。決意あるいは覚悟したのに、もしもまだ迷いがあるのなら、それは決意でも覚悟でもなかったということです。

決意や覚悟ができたなら、あとは「そのためにやることをただやるだけ」です。あるいは「やらないことはただやらないだけ」です。リアリティ・トランサーフィンにおいて著者のヴァジム・ゼランドは意図のことを「所有し行動する決意」だと言っていますが、ここで述べている意図もゼランドのいう意図ももちろんまったく同じものです。

簡単に実現あるいは実行可能なことをするために、わざわざ決意したりはしないように思えますね? でも、実際はそうではなく、それを実現もしくは実行することになんの迷いもないということは、明示的には(つまり顕在意識においては)やってないだけで潜在意識では決意しているのです。一方、相当がんばらないといけない上、多少なりとも運の味方も必要になるような目標を実現させるには顕在意識において明確に決意する必要があります。そして、その決意ができたなら、あとは所有し行動するだけなのです。

個人的には、決意よりも覚悟というほうが好きです。決意を行動に対する約束とするなら、覚悟はあり方への約束という感じがすると思います。なので、ここからは意図=覚悟として続けます。

煙草をやめるのと同じだ、とはもちろん言いませんけど、霊的な成就もまた本当はこの覚悟次第なのです。そもそも覚悟をなぜ覚悟(覚醒の覚に悟り)と書くか分かりますか? わたしには分かりません……🤔 が、ともあれバクティでは自己中心的な言動、非統合的な思考は絶対にしない(代わりに神の仕事をする)と覚悟することが求められますし、ジュニャーナがたどり着く理解もまた、この覚悟とおなじ境地なのです。

せっかくですし、霊的成長を遂げたいと思っている人で飲酒や喫煙の習慣がある人は、今日からそれをやめてみてはどうでしょう? 実際の話、飲酒も喫煙も執着であり煩悩ですし、そもそも体に悪いから、やめたほうがいいですね。そう思わない人は多分いないでしょう。ですけど、やめたほうがよいと分かっていて、煙草や酒程度のものをとっととやめてしまわない人に霊的な成就は到底無理です。

ですから、まだやめていない人はここでスパッと! 悪習を捨ててしまいましょう! ここで思い切ってやめることができたなら、そのときあなたは "意図" と "決意(覚悟)" と "コミットメント" について真に理解するでしょう。その経験は、あなたのカルマを強く浄化します。ただし、失敗したら余計なカルマを増やすことになるでしょう。ですから覚悟が必要なのです。それが意図の力です。


脳機能の生理的限界

ちなみに、この動画のなかで博士は「意識レベル200以下の人と200以上の人とでは、脳の生理機能が違っている」という興味深い話をしています。ポイントは意識レベルが先だということで、200以下の人は左脳が優位になっていて動物的な思考をしています。左脳が優位だから意識レベルが低く動物的になるのではなく、意識レベルが低いと左脳が優位になるということです。

200以上の人の脳の状態については言及されていませんが、文脈からは「200以上の人は左脳と右脳のバランスが取れ、統合的な思考をしている」だろうと想像できます。右脳優位になるのではありません。なぜかというと、200以下の人が左脳優位なのは機能的な問題だからです。200以上の人にはこの機能的な問題がないので、右脳と左脳はバランスよく統合されるわけです。ですから仮に右脳優位という人がいたなら、それも間違いなく機能不全です。

博士の他での言及を踏まえて考えると、意識レベル200以上の人になにが起きるかというと、それは高次のメンタル体の活性化のようです。メンタル体には低次のものと高次のものがあるのですが、低次メンタル体は具体的な思考を司り、高次のメンタル体は抽象的思考や智慧に関わります。

意識レベル200以下の人には抽象的思考がまったくできないというわけではありませんが、低次メンタル体のほうが優位なため具体的で即物的な思考がほとんどになります。そして、200を超えると高次メンタル体が優位になるものと思われます。

ちなみに感情体(アストラル体)について博士の日本語の書籍では詳しく述べられていませんが、グルジエフはアストラル体にも低次と高次のものがあると言っています。グルジエフのいう人間第四番は意識レベルでは500~539に相当しますが、このレベルでは肉体とアストラル体とメンタル体のすべてが完成し、高度にバランスするとされています。肉体とは主に脳のことと考えてもよいでしょう。

関連記事:https://note.com/merciful/n/n94b4a3070c1f

いずれにしても、巷の右脳神話において語られている左脳優位の弊害というのと、ここで指摘されている意識レベル200以下の人における脳の生理的な機能の限界とはまったく別の話であることはお分かりいただけると思います。気の毒なことに、右脳神話というナラティブに関心を持っている人たちは、そもそも止まるわけがない思考が止まらないといって悩み、おまけに自分は左脳優位であると思い込まされています※。

しかし言うまでもありませんが、現代の情報化社会(これはある意味で左脳化が進んだ社会ということはできますが)において人が思考過多になり、それで悩まされるのは普通のことです。その悩みから解放されるには、右脳をどうこうするのではなく、左脳そのものをより統合的に成長させる(=意識レベルを高める)しかありません。

※中には本当に左脳優位の人もいるかもしれませんけどね。右脳神話の語り手は、自らの左脳がその神話を語り、書いていることについてはノーコメントのようですが、そういう不誠実な人こそが本物の左脳優位者かもしれません。


どう許せばよいのか?

すこし前に「なぜ許せないのか?」という記事を書きましたが、この動画でもおなじコンテクストの話がされています。そこでわたしが述べたのはつまるところ「相手に自由意志があると思っているから許せないのだ」ということです。もちろん、相手だけでなく自分にも自由意志はありません。

さて、許しを可能にするには「誤りを限界として捉えること」だと博士は述べています。なぜなら、人の犯す誤りは脳機能そのものによる生理的な限界だからだ、というわけです。誠実でない人は(脳機能の限界によって)そうなるしかできないので、許しなさいとイエス・キリストは述べたと博士は言います。これはおそらく、「なぜ許せないのか?」でわたしが引用した聖句のことを言っているのだと思われますが、他にも同様の趣旨の言葉があるのかもしれません。

これは、自由意志がないことを物質世界の理に反映させた説明です。逆に誠実な人は誠実であることを可能にするほど脳の機能が統合されているということであり、それは自由意志の問題ではなく、生理的な問題なのです。別の言い方をすれば、「見かけ上の自由意志は、脳の生理的な限界によって制限される」ということになります。見かけ上の自由意志というのは、要するに、人間はまるで自由意志があるかのように振る舞っているということです。そして、その見かけ上の自由意志ですら、脳機能の限界によって制限されているということです。

さて、誠実な人といいましたが、誠実と一口にいってもそれが該当するのは意識レベル200をすこし超えたくらいの人から意識レベル500を超える領域までの、広い範囲にいる人々です(誠実さというがあらわれるのは200からです)。したがって、誠実という点ではおなじでも、これらの様々の人はそれぞれに脳機能の生理的な限界を持っています。覚醒(600以上)が起こる肉体精神機構の脳機能は非常に高度に統合されている必要があると以前の記事で述べましたが、それはこういうことなのです。

ちなみにですが、誠実とはなんでしょうか? わたしは長年、「言っていることとやっていることが一致している」ことが誠実という言葉の本質だと考えていました。が、この定義でいうと「悪いやつだが嘘はつかない」人も誠実ではあるということになってしまいます。それで現在の理解において考え直してみたところ「真実から目を背けないこと」かな、と思いました。

※とはいえ、実用的には「言っていることとやっていることが違う」人を不誠実な人と判断するのは非常に簡単で確実な方法だと、経験上は思います。

誠実さが現れるのが意識レベル200ですが、200以下は虚偽であり、200以上は真実であると博士は述べています。ということは誠実さとは真実にコミットする態度のことであると考えてよいはずで、それをわたし流に表現したのが「誠実=真実から目を背けないこと」です。言っていることとやっていることが違うのは虚偽の態度ですし、言動一致させようとするなら真実から目を背けるわけにはいきません。そして不誠実とは真実に目を向けない虚偽の態度のことで、意識レベル200以下の「プライド」「怒り」「欲望」「恐怖」「深い悲しみ」「無気力」「罪悪感」「恥」からくる態度や言動はすべて不誠実であると言うことができますね。

さて、動画の終わり近くでもう一つ、イエスの言葉を引用して博士が重要なことを言っています。

彼ら(この文脈では意識レベル200以下の人々のこと)を避けなさい、彼らと関わり合いになってはいけません、彼らに彼らの誤りを理解させようとしてはいけません、彼らと戦ってはいけません、(彼らから届いた)メールを破棄してください。

意訳というか、自動翻訳で表示された文言をわたしの方で整理しています

なぜこうするべきなのでしょうか? それは、彼らがそんな風なのは脳機能の生理的な限界の問題であり、それを改善させたり、あなたの言い分を理解させて反省させたりということは、少なくともあなたにはできないからです。できないだけでなく、それをやろうとするとあなたに危害が及ぶ可能性が高いからです。

先にも言いましたが、脳機能の生理的な限界の問題と、自由意志がないことは同じ意味です。いずれにしても「彼らはなにをしているのか、自分で分からないのです」。

実は、このように理解して、ある種の思いやり(=慈悲)をもって彼らを避けることこそが、 "意味のある許し" なのです。

博士はこのようにして彼らを避けることは、彼らに敬意を払うことでもあると指摘しています。誰であれ、その人がその人であるのは自由であり、その人であることを他者から否定されるいわれはありません。ですからこの場合は、彼らと距離を取ることが彼らを尊重すること、敬意を払うことになるのです。慈悲心にはこのすべての他者への無条件の敬意も含まれます。したがって、キリスト教的文脈でいうところの「無条件の愛」とは慈悲心のことでもあるのです。

最後になりますが、よい "意図" を持っていると、やがてその人の脳機能が向上し、それに伴って(あるいは先行して)高次のメンタル体(200-)と高次のアストラル体(250-)が賦活され、存在として統合されていきます。意識レベル500を超えるとコーザル体の活性化がはじまり、540でそれが結晶化つまり形になります。この時点でその人の脳は全球的に活性化し、心は高度に統合されます。ここは明らかに一つの幸せなゴールですが、そこに至るためには統合的な "意図(決意、覚悟)" がなによりもまず必要です。

今回はこれで以上です。余談として将来の記事に付け加えるつもりで書いておいた文章にあった「意図」という言葉から本題の記事が「意図せず」生えてきました。おあとがよろしいようで……。


おまけ

この曲は仕事に行く前に聴くことが多いです。覚悟を決めないと働けない!

最後まで読んでくださってありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう。

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