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なぜ許せないのか?

クリスチャンの方々にも、クリスチャンではない方々にも、みなさんがよいクリスマスをお過ごしできるようにお祈りします。

「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:33〜34)

https://seishonyumon.com/words/1083/

わたしはクリスチャンではありませんし、これまでの人生で聖書というものそれ自体を手にとって読んでみたことは一度もありません。ただ、とはいえ探求者として様々な書物を読み漁っていくなかで、聖書の中でもよく引き合いに出されるような有名な聖句というものを目にする機会はそれなりに多くあったかと思います。

そんなわたしにとって、聖書の中の言葉で一番印象に残っているのが上に引用したものですが、これは聖書の中の言葉でというよりも、わたしが見聞きしたすべての言葉のなかで最も意味深いものといえます。この言葉を最初に読んだのがいつどんな本を通してであったかはもうまったく覚えていないのですが、たぶんずっと若い頃で、おそらく20代のどこかだったろうと思います。もちろん、その時点のわたしにこの聖句の意味を深く理解することはできず、そのままずっと忘れていました。

ところがその後のわたしの人生のある局面において、この言葉が突然、意識にのぼってくるということがありました。その時のことは in SPIRE の最初から2番目の記事に書いていますが、薬物とギャンブルへの依存と、父親との不和によってどん底といってよい状態にあったさなかに、その父親が急死した時のことでした。すこし長いですが、その部分を引用します。

こういう風に書いていくと、泣きっ面に蜂というか、大変な状況に追い打ちをかけるような不幸に見舞われたというような話と思われるでしょう。しかし事実はというと、その時私はホッとしたんですね。肉親が死んでホッとするなんて、不謹慎だしひどいじゃないかと自分でも思いますが、それが事実です。

(中略)

私が薬物やギャンブルに逃避していたのも、一つにはこの、父親との葛藤を克服しきれなかったことが要因としてあったと思います。もちろん自分の人生が荒れ果てていたことを父親のせいにするつもりは微塵もありませんし、根本的な原因は私自身の未熟さにあります。しかしいずれにしても、そうしたわけがあって父親が亡くなったときに、私の抱えていたストレスがかなり解消されてしまったのでした。と同時に、もしかしたら父親は私の真実に気づいていて、そのせいで彼を苦しめ、弱らせて死に追いやってしまったのではなかっただろうか? という疑念が私の中に生まれました。生前においてはそんなことに思いを至らせたことは一度もありませんでした。

言い方は悪いですが、目の上のたんこぶが消えて安堵したせいですこし冷静になったのだと思います。開放感と罪悪感が同時にやってきて、いままでの人生で一度も味わったことのない意識の状態を体験しました。うまく説明できませんが、これまで自分の心だと思っていたものの外側に、より大きな心があることに気づいたような感じでしょうか。

聖書に「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」というイエスの言葉がありますが、その時に私は初めてほんとうの意味で、自分が何をしているのかわかったのでした。その感覚は今も続いています。

これが、私の意識が目を覚ました最初の瞬間だったと思います。そしてこの目覚めが、深刻であった私の依存症を癒していったのです。それ以降、違法な薬物に手を出すことはなくなりました。強烈だった覚せい剤への渇望がどこかへ消えてしまったのです。ギャンブルに至っては、なぜそんな無益なことに中毒していたのか自分でもさっぱり分からなくなってしまうという、不思議ともいえる心境の変化を経験しました。もっとも、法に触れない類の薬物への依存はその後まだ数年続きます。とはいえ、この出来事は私の人生を大きく変えるターニングポイントとなったことは間違いありません。

https://merciful.hatenablog.com/entry/2018/04/28/191155

この記事の書き方からすると、その時のわたしは「自分が何をしている(していた)のかに気づいた」のだと、つまり、自分がいかに愚かな生き方をしてきたのかということをようやく直視することができたという意味に受け取られたかもしれません。もちろん、それが当時における真実ですし、この記事を書いた2018年のわたしにとっても、この出来事はそのような意味でした。つまり、このときに起こったのは自我への気づきの芽生えであり、確かにそれは霊的な目覚めのはじまりでもありました。

しかしながら、この気づきが起こった時点のわたしはまだ、この聖句の本当の意味を理解できていませんでした。2018年においても充分には分かってなかったようです。

さてこの聖句、みなさんはどのように理解していますか? あるいは、読んでみて、どんな意味だと感じましたか? この聖句は "許し(あるいは赦し)" の本質を語っているものですが、おそらくこの聖句を知っている人のほとんどがその正しい意味を知らないはずです。もう一度、核心の部分だけ引用しましょう。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:33〜34)

一般的な(そして誤った)理解はこうです。つまり、罪人や悪人であっても、彼らは自分でやっていることの意味、つまりそれがどんなに悪いことであるかが分かっていないのだから、彼らを責めてはいけない。だから彼らは父である神から赦されるべきである――と。

この通りの意味であるのなら、聖書の結論としては、どんなに悪いことをされても、それをした相手が自分でやっていることの意味が分からないほど愚かであるのなら、あなたは忍耐をもって彼を赦さなければならない、ということになるはずです。実際には、相手が愚かだというところは省略されがちですが、そのような理解がまかり通ってると思います。

キリスト教に限らず、広くスピリチュアルな文脈において「許し」は重要なものとされていますが、本質的には許しが重要というよりも、「許せない」ことが問題なのです。誰かにひどい目に遭わされたとしますね。それで、その相手を許せないわけです。まあそれは分かりますよ。問題は、そのことで苦しんでいるのは誰なのか? ということです。許したいと思っているかいないかに関わらず、人を許さないという情動は意識レベルの非常に低い領域にあるものです。それは言い換えると怒りや憎しみであり、自分が正しいという思い(プライド・傲慢)でもあります。誰かを許せないというとき、その人はこういったネガティブなアトラクターの影響下にあるため、とても苦しいはずです。また、誰か他の人ではなく、ひどいことをした自分自身を許せないということもありますが、この場合も同じです。

ですからスピリチュアルな教えでは必ずといってよいほど「他人を許すこと」や「自分を赦す」といったことが説かれているわけです。わたしも探求をしていた時代には、こうしたことについて書かれた本を何冊も読みました。許すことに似たところでいえば「手放すこと」というのもありますね。怒りを手放すとか、他者へのジャッジを手放すとか、これも要するに許しの言い換えというかバリエーションだと言えるでしょう。

おそらくこの記事を読まれている人もそうした情報、すなわち許しや手放しの重要性について書かれたものを目にされていると思いますし、実際に許しや手放しに取り組んでいる方もいらっしゃるかもしれません。そうした方々におたずねしますが、ぶっちゃけどうですか? うまく赦すことができるようになれましたか? 手放し上手になれましたか? ここで「はい」と言える方はこの先を読む必要はありません(おまけを除く)が、おそらくそんな人はほとんどいないでしょう。

なぜ許せないのでしょうか? なぜネガティブな思いを手放すことは難しいのでしょうか?

これにお答えするためには、なぜ許すことができるのかについて話した方が早いでしょう。クリスマスにくそ長い文章を読ませるのはいかにも無粋なので前置きはこれくらいにして以降は手短に書きますが、これまでのわたしの記事をちゃんと読まれている人ならすんなり腑に落ちる話になることでしょう。

イエスが言ったのはこうでした。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

これがなにを意味しているかというと、「人間は誰も彼も何をしているのか自分でわからない」ということです。すなわち、人間に自由意志はないということです。

自由意志がないのですから、その人がなにをしようとも、それはその人の責任ではありません。そう言うと、それこそ無責任だ! と思われるかもしれませんが、そうではありません。もちろん、犯罪を犯せば逮捕され、牢屋に入れられるでしょう。仕事で大きなミスをすれば減給されたり、クビになったりします。でもこれはその人の肉体精神機構に起こった行為には相応の結果が伴うということであって、その起こった行為の責任が当人にあったとは言えないわけです。

品行方正だった人があるとき事故で脳に損傷を受け、無事に一命はとりとめたのですが、その後その人の人格が変貌し、非常に粗野で下品な人物になってしまったという話が事実として伝えられていますが、この人が下品に振る舞うことの責任は彼にあるでしょうか? このケースでは、粗野で下品な人物になってしまったのは事故のせいであって彼の責任ではないと言えるはずです。ただし、彼がもし犯罪を犯したなら、警察は彼を逮捕するでしょう。しかし裁判では責任能力の有無が焦点となり、無罪となるかもしれません。

脳に損傷を受けたことによって人格や判断能力が劣化するというとき、その人の自由意志は脳の損傷によって制限されていると言えると思います。もちろんこれは自由意志が存在するという観点での話です。でももう少し踏み込んで考えると、健常な誰であっても、その人の脳がどんな状態であるかは本人の知るところではありませんし、自分が "その人格" であることも、そのようになろうとした結果ではなく、遺伝や環境の様々な影響によって "たまたまそうなっている" に過ぎないことが分かるはずです。

ともあれ、意識が覚醒のレベルに近づいてくると、人間に自由意志がないことは自明のこととして知覚されるようになっていきます。なぜなら、この世界に分離というものはなく、すべては一つのものであり、したがって独立して存在する行為者などどこにもいないということがこのレベルにおいて理解されるからです。

さて繰り返しますが、 自由意志がないのなら、誰にもどんな責任もありません。悪人がひどいことをしていても、それが本人にもどうにもならないのなら、つまり彼にはそうするしかできないのなら、どうして彼を責めることができるでしょうか? 自分がひどいことをしてしまった時のことを思い出してみてください。あとからであれば「あの時こうするべきだった」とか「あんなことするべきじゃなかった」と言えるでしょうが、そのときの自分には、どう考えてもそうするしかできなかったことが分かるはずです。そうするしかできなかったんですから、そうしたことを悔やんだり怒ったりしても仕方がありません。

そもそも責任がない他者や自分を、どうやって許すのでしょうか? あるいは、どうやって許さないでいることができるのでしょうか?

許すとか許さないとか言っているのは自我エゴです。エゴは自分に自由意志があると思ってそのことを疑いません。そんなエゴは、ですから当然に他者にも自由意志があるとみなしています。自由意志があるとみなしているので、自分の行為にも、他者の言動にも、責任があると信じています。責任があるというのを言い換えると「あいつが悪い」ということになり、「あいつが悪い時は自分は悪くない」わけですから、「あいつは許せん」ということになるわけです。

つまり、まとめるとエゴの領域にいる限り、「許し」や「手放し」は難しいのです。いや、難しいというよりそれは不可能なのです。なぜなら、そもそも許しも手放しもなく、あるのはエゴの作り出している分離という幻想だけだからです。エゴの領域とは意識レベル500未満のすべての領域ですが、この領域にいる人々は人間には自由意志があると信じていますから、その自由意志によって自分や他者を「赦す」ことが可能であるとも信じています。しかしながら、彼らが実際にできるのは「許そうとする努力」だけであり、しかもそれは必ず失敗に終わります。なぜならそれは本当の許しではなく、ただの忍耐であるからです。

一ヶ月だけ禁煙してまたタバコを吸いはじめた人はタバコをやめることに成功したのではなく、単に一ヶ月我慢しただけです。それと同じで、意識レベルがエゴの領域にある限りは、許しや手放しも我慢の言い換えでしかありません。

では本当の許し、本当の手放しとはなにかというと、それは「許そうとしているエゴ、手放そうとしているエゴとの一体化が破壊されること」です。

冒頭に紹介した昔のわたしに起きた出来事も、このエゴとの一体化が破壊された事象です。破壊することではなく、破壊されることであるところがポイントです。言うまでもないことですが、幻想であるエゴに自らを破壊することはできません。それができるのは全体性であるところの神だけであり、それゆえ、こういう事象のことを "恩寵" と呼ぶわけです。

許そうと努力することも、それは自由意志ではなく単にその肉体精神機構に起こってくることです。それが起こることは、たぶん起こらないよりもよいことです。ですから、これまで努力してきた人はどうぞそのまま努力してください。すくなくとも、許しの本当の意味、すなわち許すものも許されるものもいない、ということを今知ったことによって、あなたの運は変更されたはずです。

その運が十分によければ、いずれ向かう先には「許そうと努力していた自分」や「あいつを許せなかった自分」がどこかに消えてしまう日が来ることでしょう。それが本当の許しのときです。そのときあなたの目には、悪人でさえも気の毒なカルマを経験している肉体精神機構だと映ることでしょう。その眼差しのことを "慈悲心" と呼びます。

今回はこれでおしまいです。クリスマスなのでキリストにちなんだわけ、では実はなく、すこし前からこのことを書こうと思いながらずるずる無為な日々を過ごしてしまっていて、ようやく着手しようとしたのがたまたま今日だったのでした。


おまけその① みんなに読んで欲しい漫画

これはめっちゃ面白いです。文句なしにおすすめですが、個人的にはわたしの好きな銀杏BOYZの曲を歌う登場人物が出てきてハート的ななにかを鷲掴みされました。出てくるバンド名や楽曲の大半はわたしのストライクゾーンの内側(外側のものもあるというわけではなく、未知なだけですが)にあるので熱いですが、そうでなくても普通に漫画としてめっちゃ面白いです。あと、ロケーションは大阪市内でそれも親しみがありまくりです、わたしにとっては。


おまけその② みんなに聴いて欲しいAudible(読んで欲しい本)

前からずっと気になっていたものの、仕事中のながら聴きに小説はあんまり向いていない(というか聴き逃しが気になる)ので保留にしてたんですが、最近は家にいるときも Audible を聴くようになりました。

これもめっちゃ面白いです。短編をオムニバス的に繋いでいく形式で、池上永一の「統ばる島」もそうでしたが、こういう作品を書ける人はセンスがすごくいいと思います。

予備知識ゼロで聴く(読む)ほうがいいので内容には触れません。ただ、アミンチュ(琵琶湖畔で暮らす民)は絶対に読んだほうがいいと思います。すでに読んでいたらごめんなさい。

おまけその③ みんなに聴いて欲しいバンド

最近ずっと muque(ムク)ばかり聴いています。トラックの音作りがすごく好みなんですが、だけでなくボーカルの個性に寄り添った曲作りになっていて、これはなかなかやなあと思うわけです。

そういえば以前紹介したことのある Maestraudio(マエストローディオ)の MAPro1000
 というイヤホンにMAPro1000 Ⅱ という後継機種が出て買いました。これは旧作の限定改良品として出ていたMAPro1000 Bluish Snowというモデルとおなじ中身の色違いに相当するものになるのですが、旧作とは内部配線に用いる半田の材料が違う(よくなっている)のと、チューニングがそれに合わせて再調整されているとのことです。

Bluish Snow が出た時点で「そんなに変わらんやろ」と高をくくっていたらレビューで結構違うと書かれていて気になっていたわけなのですが、Ⅱとして改めて発売されたので思い切って購入しました。実際、聴いてみるとかなり違いますね。基本的な音の方向性は変わらないですが、音のクリアさや分離感、解像感などすべての点でブラッシュアップされている印象です。Ⅱと同時にダイナミックドライバーを更によいやつに変えて低音をもっといい感じに鳴らすMAPro1000 Drop というモデルも出ていて迷ったんですが、Drop もいずれ買うと思いました。

それではまた次回の記事でお会いしましょう。最後まで読んでくださって、ありがとうございました。今年はこの記事が最後になると思います。今年一年、記事を読んでくださった皆様、ギフトを贈ってくださった方々、チップをくださった方々、本当にありがとうございました。また来年もよろしくお願いしますね😉✨️✨️

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