【小説・ヴィーナス症候群】(49)義手でバトントワリング
第1章 コルチカムの会のサマーキャンプ
夜の山は、虫の声と、わずかな風の音しかしなかった。
ロッジの裏手、木製のベンチに腰かけた中学生たちの会話は、昼間のにぎやかさから一転して、どこか内緒話のようなトーンになっていた。
「来年は高校の制服着て写真撮りたいなー」
「うちの学校、ブレザーだけど暑いから夏服だけでいいかな」
義手を外して膝の上に置いたまま、彼女たちは自分の未来を、服装の話として語る。
それはほんの少し先の夢であり、叶うかどうかはわからないけれど、話すことが許された夢だった。
その中で、ぽつりと声が落ちた。
「……私、本当は、バトンがやりたかったの」
話していた輪の一角にいた、笠幡玲奈(かさはた れいな)がつぶやいた。
埼玉県内の公立中学校に通う中学一年生。ヴィーナス児。両腕は生まれつき、肩の位置からまったく存在していない。
筋電義手を使ってはいるが、まだ慣れず、実際の生活の多くは足や補助具に頼っていた。
周囲の子たちは一瞬だけ静かになったが、「バトンって……」と、誰かが続けた。
「バトントワリングの?」
玲奈は、うなずいた。
「うん。小さいころ、お祭りで見たの。……黄色い衣装で、くるくる回してて、すごく綺麗だった」
「え、衣装って……あれ? レオタード?」
「そう。……レオタード、着てみたいってずっと思ってた。でも、私の身体じゃ、無理かなって」
その声は恥ずかしげだったが、どこか固い。
笑われるとも思っていない。分かってもらえるとも思っていない。
ただ、言いたかったのだ。
同席していたスタッフの一人がぽんと手を打った。
「あー……誰か、社協の人か義肢メーカーの人で、バトンやってたって言ってなかったっけ?」
「いたかも。バトントワリングって運動部じゃなくて文化部扱いって話してた人でしょ?」
「そうそう、経理の……あれ、ナマミちゃん?」
「ああ、サイセイの“ナマミちゃん”!。義手のメーカーなのに生身の腕だからナマミちゃん、って呼ばれてる人。本名はマナミなんだけど。九州の子だったかな?」
「うん、たしか全国出たとか言ってた。高文祭?」
玲奈は、そのやりとりを黙って聞いていた。
その名前が誰かも、何ができるかも、分からない。
けれど、どこか遠くで切れていた糸の端が、また結ばれたような気がした。
第2章 経理部のナマミちゃん
午前十時、提出締切の合算シートは未提出、消費税計算表は旧フォーマット、備品発注の申請は控えの控えしか残っていない。
サイセイ義肢、経理部。
そこは、義肢メーカーであるにもかかわらず、最も「生身」が集まる部署だった。
鍋島愛未(なべしま まなみ)はその一角に座り、何年も変わらない椅子の軋みを聞きながら、画面と数字を睨んでいた。
「鍋島さん、おつかれですー」
「はいはい、岸本くんもおつかれー。あと、私の年齢で“さん”付けはやめなさいって言ってるでしょ」
「いやいや、“ナマミちゃん”て呼ぶの、なんか怒られそうで……」
「怒んないよ。どうせ生身の腕で経理してるだけですからー」
にこやかに返してから、ため息ひとつ。
そう、“ナマミちゃん”――生身の腕を持つ経理の女。それが、愛未のこの会社でのあだ名だった。
義手の試験、装着テスト、トルソーさんの契約管理、どれにも関わらない。数字だけを相手に、日々こつこつと処理をこなしてきた。
そんな愛未のデスクに、昼前、ひょっこりと顔を出したのが、開発部の若手、牧田だった。
「鍋島さん……あの、少し、お時間いいですか?」
急ぎの請求書か何かかと思って顔を上げた愛未に、彼は妙に言いにくそうな調子で言った。
「昔……バトン、やってたって聞いたんですけど」
一瞬、意味がわからなかった。
バトン?
バトントワリング?
自分が?
「……そうですけど」
低い声が自然と出た。名乗るほどのことではない、と、咄嗟に思った。
「何かあったんですか?」
牧田はほっとしたように頷いた。
「サマーキャンプに来てたヴィーナス児の子で、バトンをやりたいっていう子がいて。社協のスタッフが“ナマミちゃんが昔やってたはず”って話してたそうで……うちで義手のプロトタイプ作れないかって、今ちょっと開発側で話が出てて。でも、そもそも動きが分からなくて」
「なるほど」
それだけ言って、愛未はしばらく黙った。
佐賀の高校時代の記憶が、不意に足元から立ちのぼってくる。
村中女子高の体育館。練習終わりの床の汗。ちいさなミラーに映した回転。
衣装はジャージの上に巻いたスカートだった。
「……教えられるかどうかはわかりませんよ」
と、静かに言った。
「でも、どんな動きがしたいのかくらいなら、聞くことはできます」
牧田は、嬉しそうに頭を下げた。
第3章 最初の顔合わせ
笠幡玲奈が初めてサイセイ義肢の本社を訪れたのは、秋も終わりかけの午後だった。
受付ロビーの壁には、義手と義足のモックアップが並び、奥には開発部の試作室とラボ。どこか未来の工場を思わせるその空間に、玲奈は少しだけ緊張した顔で立っていた。
ナマミちゃん――鍋島愛未は、約束の時間ぴったりにやってきた。
「笠幡さん……だよね。はじめまして。鍋島っていいます」
「……こんにちは」
玲奈は少しだけ首をすくめるようにして挨拶を返した。
制服ではなく、シンプルなパーカーとスカート。装着しているのは筋電義手だが、バッテリー部分にテープが巻かれていて、だいぶ使い込んでいるのがわかる。
愛未は一瞬、それを見て胸の奥がちくりとした。
「えっと……今日は、バトンの話、聞きに来たって聞いてます。私、佐賀の田舎の高校でバトン部だったんだけど、文化部のくせに体育館でしか練習できないのよ。床に落としたら傷つくから、絶対に外じゃできなかったの。……って、そんな話はいいか」
「いえ……聞きたいです」
玲奈が、小さく言った。
「テレビで見たやつとは違ってたけど、音楽に合わせて、誰かと合わせて、動きが揃って……。そういうの、やってみたいって思ってて」
「そっか……」
愛未は、あぐらをかくように椅子に腰かけながら、少し思案するように息を吐いた。
「本格的に教えられるような人間じゃないよ。今も身体動かしてるわけじゃないし、なんなら私、もう跳べって言われたら跳べないと思うし」
「……でも、投げたいんです」
玲奈が言った。
「一回でいいから、バトンを、投げて……キャッチしてみたいんです。義手で」
それは、願いというより、挑戦だった。
可能かどうかはわからない。でも、やりたいと思ってしまった以上、止められなかった。
そして、自分の身体でやるなら、誰に文句を言われる筋合いもない、と、そう思っていた。
愛未は、思わず口元を引き結んだ。
「……投げて、キャッチか。そっか」
手元のボールペンをくるりと指の間で回してみせる。
それは、かつて体に染み込ませたリズムだった。
「じゃあさ。まずは私の持ってるバトン、一本貸してあげるよ。練習用のだけど、まだ残ってるはずだから。……振ってみるだけでも、たぶん面白いから」
玲奈の目が、ぱっと明るくなった。
第4章 動きは、誰がつくるか
貸し出された練習用のバトンは、思ったよりも重かった。
笠幡玲奈は、左の義手でそっとそれを握ってみる。
義手のモーター音が、すこしだけ響く。
滑り止めがついていても、支点は義手の中。回転に耐えられるような設計ではない。
「もうちょっと、“止める”場所を意識してみて」
椅子に座ったままの愛未がアドバイスする。
「バトンって、見せる動きだから。なんとなく振ってると、見てる人が置いてかれちゃうのよ。ちゃんと、ここ!って場所で止まってくれると、観客がついてこれる」
「はい……!」
玲奈は大きく息を吐いて、もう一度、構える。
初めはただ握ることすら難しかった義手のバトンも、いまは少しずつ動かせるようになってきた。
――もちろん、義手の力だけではない。
サイセイ義肢の開発部は、彼女の練習と並行して、キャッチ時の反動に耐える“くわえ込み式の義手”を試作していた。
「衝撃吸収より、逃さず取り込む構造にしたほうがいいですね」
「回転は……自分で止めないと暴れますから、トルクの設定慎重に」
各所から、試作と検証の声が飛び交う。
開発チームの誰もが、止める気配を見せなかった。
「無理かもしれないけど、面白い」――それは、誰よりも開発者たちを動かす動機だった。
ただ、ある段階で問題が出てきた。
「玲奈の動きの補助」がしたくても、愛未自身がもう身体を動かせないのだ。
「肩が……上がらないのよ。右は四十肩で、左は事務用マウスでやられた」
冗談めかして愛未が言うと、開発部の誰かがぽつりとつぶやいた。
「……割出さん、頼んでみます?」
「え、結菜ちゃん? バトンやってないでしょ?」
「でも、動きの見せ方とか、回転のタイミングとか、そういうのは身体で分かってる人の方がいいかと」
⸻
その翌週。開発室に、細い肩の女性がふらりと現れた。
「こんにちは、結菜です」
割出結菜(わりだし・ゆいな)。社長と同じ金沢出身のトルソーさん。
玲奈と同じヴィーナス児で腕は肩先からなく、義手の装着経験はサイセイでもトップクラス。
装着時の精度は「トルソーさん」たちの間でも一目置かれている。
「バトンってぇー、やったことないけど、回す系ってぇー、大体コツは似てるからね。袖モノの撮影で、くるっと動かすのとかやってると、自然と“見せ止め”覚えるの」
義手を装着した結菜が、試作のグリップを握って軽くひねる。
「スナップはここで止めると、ちょっと可愛くなるよ」
何気ない一挙動に、玲奈の目が吸い寄せられた。
「わかりやすい……」
「でしょ? やるなら見せなきゃ。あたしは撮られる方だけど、見せるためには止めが命よ」
「……見せるって、大事なんですね」
「大事だよ。見せたいってぇー、思った瞬間から、もうそれは表現だから」
玲奈の義手が、静かに握られていた。
今日、何本も失敗して落としたバトンを、彼女はもう一度、拾い直した。
第5章 レオタードで出たい
「……でさ、もしパレードに出るとしたら、衣装どうしようか?」
義手の調整を終えてペットボトルの水を回し飲みしながら、ナマミちゃん――鍋島愛未が声をかけた。
「やっぱチアリーダーっぽいのが映えるかなあ。スカートふわっと揺れる系? それとも、可愛いの作る? アイドルみたいな感じとか……」
玲奈は黙ってうつむいていたが、ふいに顔を上げて言った。
「レオタード!」
愛未の顔が、ぴたりと止まる。
「……えっ、レオタード?」
「うん。レオタードで出たいです」
「いやいやいやいや」
愛未は慌てて手を振った。
「レオタードって、あれ体育館とか舞台での演技用でしょ。パレードって外よ? 道よ? しかも中学生が?」
「でも……本当は、そういうのが着たかったんです。バトンっていえば、レオタードじゃないですか」
「まあ……昔はね。昭和の先輩たちは、栄の国まつりのパレードでレオタード着てた写真はあるよ。うちの部の顧問も言ってた。でも、あれはもう昔の話。今はもう、そういうのはしないよ。ましてロリコン共がすぐSNSに写真流す時代に」
玲奈の目は、曇らなかった。
むしろ、ますますはっきりした光を宿していた。
「……でも、私はレオタードで出たいんです」
「はあ……」
一瞬、愛未は返す言葉を失った。
いつもの控えめな玲奈の声が、少しだけ強く響いた。
「……生身のナマミちゃんには、分かんないよ」
その一言に、部屋の空気が変わった。
愛未は、笑いかけようとして、やめた。
「……じゃあいいわよ。トルソーさん連れてくるから」
⸻
翌日。開発室の一角に、割出結菜が呼ばれた。
「どしたん?」
「結菜ちゃん、この子レオタードで出たいとか言ってるの。なんか言ってあげて。世の中の現実、分かってないのよ」
ナマミちゃんの語気はどこか刺々しかった。
けれど、結菜はおかまいなしに玲奈の前にしゃがみこむと、ゆっくりと言った。
「……レナちゃん、レオタードでぇー、出てみたら? やらないで後悔するより、やって後悔しな」
「……ちょっと! 中学生の子に何そそのかしてんのよ!」
愛未が声を上げた。
「分かってる? 世間はそんなに優しくないんだから!」
「まあ優しくはないでしょうね。変な男たちがレナちゃんのお尻なめ回すようにジロジロ見るでしょうね」
結菜は軽く肩をすくめた。
「でも、ナマミちゃんに分かる? 健常者の友達と新宿歩いてて、キャッチに声かけられたとき――」
「……うざいよね。私も昔、バイト探してる時に何回も」
「違うよ。私のことは素通りしてぇー、友達にだけ声かけてくんの」
言い終えたあと、しばらく誰も言葉を発さなかった。
「……あの時の気持ちがさ。ナマミの女に、分かる?」
静かな声だった。
玲奈も、愛未も、何も言えなかった。
「……もう、勝手にして」
ナマミちゃんはそう言って、立ち上がった。
第6章 見せるための身体
明治通りが封鎖され、何十組もの隊列がそれぞれのスピーカーを響かせながら歩いていた。
NO FILTER PARADE(ノーフィルターパレード)は、ありとあらゆる“見せたい身体”が集まる、都市の混沌だった。
その中に、黄色いレオタードに白いブーツ、そして金属製の義手を両肩から伸ばした一人の少女がいた。
笠幡玲奈。中学一年生。
義手はサイセイ義肢が開発した、バトントワリング専用のプロトタイプ。
手のひらで回転するためのスリットが仕込まれ、キャッチ時のショックを吸収する微細なスプリングが内蔵されている。

前後には派手な仮装をしたパフォーマーたちがいたが、通行人も観客も、気づけば彼女の方を見ていた。
リズムはBluetoothで流す打楽器系のループビート。
玲奈は、その音に合わせて歩きながら、義手でバトンをくるりと浮かせては受け止める。
バトンは宙を描き、太陽を反射し、そして彼女の義手に――吸い込まれるように落ちた。
「すごい……」
道端で、誰かがつぶやいた。
スマホのシャッター音が重なる。
「今の見た?」「義手の子?」「レオタード……本気だ」
SNSに、タグ付きの写真が次々にあがる。
#NOFILTER #義手バトンの子
玲奈は気づいていた。
注目されていることを。
目線が集まることを。
そしてそれが、怖くないことを。
⸻
ナマミちゃんと結菜は歩道の端から見守っていた。
「……人多いなあ。思ったよりずっと見られてるね」
ナマミちゃんがそうつぶやくと、隣の結菜がスマホを構えながら答える。
「これだけ出ててもさぁー、やっぱ目、いくよねー。あの子」
「わかる」
「たぶん、“やりたかったんです”って気持ちが、ぜんぶ出てる」
ナマミちゃんは、何も言わずにうなずいた。
いま、確かに見られている。
でも、それは見世物ではなく、“見せたかった姿”として――ちゃんと届いていた。
第7章 話題の中に
ノーフィルターパレードは、予定どおりに予定外だった。
明治通りに解き放たれた色と形と声。
主催者も全容を把握していないという、国内最大級の「見せたいだけの」市民パレード。
その本質は、カオスだった。
スピーカーで自作の環境音楽を鳴らすアーティスト集団。
ジェンダー平等を訴えるチームは水着姿で、逆に全身を黒布で覆った宗教的グループもいた。
何がメッセージで、何が単なる目立ちたがりなのか、区別すること自体がナンセンスだった。
けれど、そのなかで――静かに目を引いた者がいた。
黄色いレオタード。
両肩から銀色の義手。
中学生くらいの少女が、バトンを回しながら歩いていた。
音楽も踊りもない。
ただ、道の中央で、まっすぐに。
SNSの動画が最初に拡散されたのは、パレードの最中だった。
《義手の子、バトンまじで回してる》《これが一番かっこよかった》
タグはすぐに定着した――#義手バトンの子
主催は彼女の名前を把握していない。
テレビ局も放送では「中学生のようです」としか触れなかった。
それでも彼女の姿は、多くの「何かを見たい人」に届いた。
《自由って、こういうことかも》《支援より、これが大事だよな》
《これは、勇気もらった》
言葉は、彼女の外側で生まれていった。
⸻
「……これだ」
タブレットを見つめながら、五条誠司が声を漏らした。
国会議事堂内、党控室。
翌日のスピーチ原稿を開く手を止めて、彼の視線は動画に釘付けになっていた。
少女が、バトンを回している。
細い身体。真っすぐな背筋。
そして、銀色の義手がバトンを空に放つ瞬間。
「やってるよ……この子。自分で選んで、自分でやってる」
五条は誰に言うでもなくつぶやいた。
秘書の有馬が、静かに顔を上げる。
「ノーフィルターの“義手バトンの子”ですね。SNSでトレンドに入ってます」
「これ、すごいよ。まさに、“卒業の支援”だよ。
“できるようにする”支援。
できないことに補償じゃなくて、できることを増やす。それを見せた」
有馬はうなずいた。だが表情は読めなかった。
「個人情報は出ていません。中学生、埼玉の子という噂程度。名前は非公開です」
「逆にそれがいい。“名前のない象徴”って、浸透しやすい。人々の頭の中で自由に重なるから」
五条の目はまっすぐだった。
それは演技でも計算でもなく、本気の光だった。
「この国を、支えられる社会から、選べる社会に変える。
支援を終えたあとに、もっと自由に生きていい。
その象徴に……彼女はなれる」
有馬は、何も言わなかった。
⸻
その夜、玲奈の家ではテレビがついていた。
リビングの小さな画面で、リポーターがパレードの様子をまとめていた。
玲奈の姿が、ほんの数秒だけ、映った。
義手、レオタード、バトン。
そして、笑っている。
母は何も言わなかった。
玲奈も、何も言わなかった。
ただ、静かに――彼女は、バトンの先を見つめていた。
