【小説・ヴィーナス症候群】(793)YouTubeで晒されて
いつもは「トルソーさん」たちの笑い声に包まれているFeliceの試着員控室が、その日は妙に重苦しかった。
赤坂のアトリエ。
ドレスラックには白や淡いピンクのドレスが並び、鏡台のライトだけがやけに明るい。
壁掛けテレビでは、ニュースキャスターが明るい声で喋っていた。
「世界的ヒット作『やさしいまぼろし』の舞台となった愛知県の三鼎村に、最近は中国や韓国からの観光客が急増しています。廃校となった旧三鼎小中学校が人気の撮影スポットとなっており、この影響で中国各地から中部国際空港・セントレアへの便も予約が取りづらい状態になっているということです」
画面には、山あいの小さな集落を歩く外国人観光客たち。
旧校舎の前でスマホを掲げ、映画のワンシーンを真似して写真を撮っている。(番外編3話)
しかし、控室の三人はほとんどテレビを見ていなかった。

檜皮谷奈緒は、椅子に浅く腰掛けたまま視線を落としている。
その両隣には、武隈莉子と夜久野由美。
莉子が慎重に口を開いた。
「……会社に何か言われた?」(本編775話)
奈緒は少し間を置いてから答えた。
「総務に呼ばれてさ。しばらくネット見るなって。それと……外仕事はしばらく出せないって」
由美が顔をしかめる。
「なんか“発達障害がどうたら”って話になってたけど……」
奈緒は苦笑いのような顔をした。
「あれはね。店立ちしてる時に絡まれたり触られたりしたら、高校の頃にいた“ちょっとどうなの?”って感じの発達障害持ちの子の真似しようと思ってたの。
『発達障害なんだよ! 配慮して!』って叫んだら、なんか男でも怯むかなって」
控室の空気が少し沈む。
莉子が肩をすくめた。
「発達障害っていうなら、私の方がむしろ持ってそうだけど」
「いや、ガチの発達障害を舐めない方がいいよ」
奈緒は即座に返した。
「ガチのそれ系って……まあいいや。
私も舐めた真似したから、こんなことになってるんだけどね」
由美はドレスの裾を見つめながら、小さく息を吐いた。
「でもさ……うちら店立ちの時って義手外してて、究極に無防備な状態なんだから、なんか対策してほしいよね」
「トルコミで最近流れてたよね」
莉子が言う。
「電車で痴漢されて義手で反撃したら大怪我して、“賠償しろ”って言われてるってやつ」(本編748話)
「あ、それ見た」
由美が顔を上げる。
「痴漢の方が悪いじゃんね」
「そうそう」
莉子も頷く。
「最初から痴漢しなきゃいいのに」
奈緒は黙ったまま、テレビの音だけを聞いていた。
「三鼎村では、観光客増加を受け、伊那落合駅に中国語・韓国語の案内表示も設置され――」
画面の中では、外国人観光客が笑顔で記念撮影している。
莉子がふと呟いた。
「あれってさ。結局、気の狂った先生の妄想日記だったんでしょ?」
奈緒はしばらく答えなかった。
やがて、小さく笑う。
「……やっぱりさ、気が狂ってるふりだけじゃ、本物の狂った人には勝てないんだよ」
奈緒の脳裏には、あのサラリーマンの顔が焼き付いていた。
怒鳴りながら社員証を破り、
最後には、妙にスッキリした顔で床にへたり込んでいた男。
あれは演技ではなかった。
会社という檻の中で、毎日少しずつ削られ続けた人間が、限界を超えて噴き出した、本物の崩壊だった。
そして、その瞬間だけは――
奈緒が作家志望者として憧れていた『やさしいまぼろし』の狂気より、ずっと生々しかった。
テレビでは、春の三鼎村を歩く観光客たちが笑っている。
その明るい映像だけが、妙に遠かった。
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