【小説・ヴィーナス症候群】(748)東京の痴漢騒ぎ
蘭は、浪速大学の研究倫理審査委員会事務局でのロジを終え、ようやく昼休みに入った。
審査書類の不備確認、委員の日程調整、外部審査員への照会メール――ひと通り回して、頭の中がまだ事務処理のまま抜けない。
そのまま構内のベンチに腰を下ろし、スマホを取り出した。
何気なく開いたのは、トルコミ。
もう随分前に、試着モデル――いわゆる「トルソーさん」を辞めている。
生まれつき両腕のない女性が多く就く、アパレルや義肢業界での着用モデルの仕事。
今は大学職員だし、現場に立つこともない。
それでもアカウントは消していない。
OGスレッドに、ときどき近況を書き込むくらいには、距離を保って繋がっている。
古い写真の場所を探してくれなんて話もあった。(本編255話)
そのトルコミが、やけに騒がしい。
「……なんやこれ」
スレを開いた瞬間、流れの速さで分かる。
誰かが、メールを転載している。(本編745話)
差出人は――コルチカムの会。
蘭と同じヴィーナス児の当事者団体。今でもトルソー経験者として会議に出たこともある。(本編159話)

目を通す。
件名: 【注意喚起】電車内トラブルについて
コルチカムの会 会員各位
事務局の守実です。
先日、東上線内で痴漢行為に遭った会員が、反射的に義手で振り払ったところ、相手が重傷を負うトラブルが発生しました。加害者家族から当会への抗議も確認されています。
義手は力加減が難しく、混雑時は特に注意が必要です。痴漢被害時は自分で対処せず、すぐに駅員・警察へ通報してください。トラブル時は速やかに事務局へご連絡を。
何卒ご留意ください。
コルチカムの会 事務局
淡々とした文章だった。
「……あー」
蘭は短く息を吐いた。
その下に並ぶ書き込みを見る。
《痴漢に反撃して何が悪いの?》
《殴り返した子GJ》
《犯人も私たちみたいに義手にすれば悩みなくなるんじゃない?www》
スクロールしても、似たような調子が続く。
言葉はどんどん強くなる。
怒りと、嘲りと、少しの笑い。
蘭は画面を見たまま、小さく呟いた。
「……そらそうやろ」
触るな、という前提が崩れている時点で、話はシンプルだ。
反撃された結果について、後から文句を言う筋ではない。
ベンチの背もたれに体を預ける。
キャンパスの木々が風に揺れている。
昼休みの学生の声が遠くで響く。
その穏やかな空気と、画面の中の荒れた言葉が、妙にちぐはぐだった。
「……まぁ、こうなるわな」
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