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【小説・ヴィーナス症候群】(775)発達障害のふり

都内のデパート。ブライダルフェアが行われる上の階は華やかだが、ブライダルフェアなどで立つ試着モデル(トルソーさん)たちには評判の悪い場所だった。

近くにフードコートがあるせいで、ビールを飲んでふらつく酔っ払いが近づいてくることが少なくない。
トルコミ(トルソー仲間の掲示板)でも「定番の話」としてよく上がるトラブルだ。

Feliceのトルソーとして働く檜皮谷奈緒は、文学少女で気が弱い。
トルソーの仕事中は義手を外すので、足しか使えない。

「こんなことになったら…どうしよう」

彼女は以前から対策を考えていた。
足で遠ざけて、あとは気が狂ったふりをするしかない。
どうせやるなら、通信制高校の頃のスクーリングでムカついた発達障害の子の真似をしよう。
狂ったように「わたし発達障害なんだけど!配慮しないなんて思いやりなさすぎ!」と叫んで、相手をたじろがせよう——。

そして、その時が来てしまった。

フードコートでビールを引っ掛けたらしい中年サラリーマンが、奈緒の姿を見てニヤニヤしながら近づいてくる。
あれはやる。

案の定、男は手を伸ばして触ってきた。

奈緒は咄嗟に足を上げて男の体を押し返すように遠ざける。

男は顔を赤くして、酒臭い息を吐きながら 「今蹴ったよな? おい! 客を蹴るってどういうことだよ? 傷害罪だよな!」

奈緒は、計画通りに、高校時代のあの子の口調を真似て声を張り上げた。
少し震えながらも、意図的に狂ったようなトーンで。

「わたし発達障害ですけど? 配慮して欲しいんですけど? 思いやりないんですか?」

その瞬間、男の表情がガラリと変わった。

「発達障害だから配慮してください、だぁ!?してんだけど!毎日だよ…毎日!!
朝イチで来るのが『今日の指示、わかりません』だ!昨日、図にして渡しただろ!?手順も期限も書いたろ!?それでも同じ質問が来るんだよ!
それにメールは三行で済む話を、十往復だぞ!件名は空欄、添付は違う版、リンクは権限なし!『開けませんでした』って、そりゃ開けねえよ!
しかも締め切りは守らない、でも遅れる連絡も来ない!こっちから聞いたら『忘れてました』『集中してました』で終わり!その尻拭い、誰がやってると思ってんだ!
そうかと思えば、会議では黙ってるのに、終わったあとに長文のDMで『実はこう思ってました』って来る!それ今言えよ!全体で共有しろよ!!
それもレビュー返したら『否定されました』って人事に上げる!指摘は全部ハラスメント扱いか!?じゃあどうやって品質上げるんだよ!。
そして優先順位がめちゃくちゃだ!一番大事なタスクは手を付けないで、横道の細かいところだけ完璧にする!で、『やり切りました』って胸張る!違うだろ、そこじゃないだろ!!
しかも、引き継ぎもできない!手順書は自分しか分からない書き方!休まれた瞬間に全部止まる!属人化をなくせって言われてるのに、逆に深くなる一方だ!
そうかと思えば、ちょっと手伝ってって言われて入ったら、気づいたら全部俺の担当になってる!『助かりました』で終わり!いや、終わってねえよ!俺の仕事が増えただけだろ!
そしてミスが出たら『障害の特性です、配慮してください』って盾にする!配慮ってなんだよ!期限も品質も下げていいってことか!?チームで回してんだぞ!!
それに飲み会も1on1も『人間関係が苦手です』で全部回避!でも困った時だけ個別に来る!こっちは関係作ろうとしてんのに、一方通行なんだよ!!
こんなに苦労してんのに、評価は横並び、給料も横並び!俺はフォローで残業80時間、向こうは定時で帰る!それで『同じ成果です』って言われて納得できるかよ!!
上は『合理的配慮を』の一点張り!じゃあ誰が負担背負うんだよ!結局、現場の俺らだろ!!俺が潰れてもいいってことかよ!!
で、注意したらすぐ『ハラスメントです』!距離取ったら『冷たい』!関われば地雷、離れれば悪者!どうしろって言うんだよ!!
俺だって理解しようとした!本も読んだし、言い方も変えた!でも毎日これが続くんだぞ…毎日だぞ!!
我慢して、我慢して、我慢して……もう限界なんだよ!!」

男は息を荒げ、ポケットから社員証を乱暴に取り出した。
そして、両手で思い切り——

ビリビリッ……ビリビリビリビリッ!!!

社員証を真っ二つに引き裂き、さらに細かくビリビリと破り続ける。破片が床に散らばっていく。

叫ぶだけ叫び、破るだけ破りきった男は、突然動きを止めた。
肩の力が抜け、顔から緊張が消えていく。

……そして、ゆっくりと恍惚とした表情が浮かんだ。

目は虚ろで、口元が微かに緩み、まるで長年背負っていた重い荷物をすべて下ろしたような——ある種の解放感に満ちた、奇妙にスッキリとした顔。

ただ、深い溜息とともに、恍惚とした表情でその場にへたり込む。涙はまだ頰を伝っていたが、目には奇妙な充足感が浮かんでいた。

周囲は完全に静まり返っていた。
警備員は動きを止め、警察官は呆然と男を見つめ、野次馬たちはスマホを向けたまま固まっている。

奈緒は、ウェディングドレスの裾を足で軽く握りしめたまま、ただ男の顔を凝視していた。

想像を遥かに超えていた。
高校の同級生をマネしてちょっと神経を逆なでするだけのつもりだった。
足で遠ざけて、狂ったふりをして、相手をたじろがせて終わるはずだった。

なのに、目の前で起きたのは、日頃の会社という檻の中で静かに蝕まれ続けていた男の、本気の感情の爆発。そして、叫びきり、破りきった後の——不思議なまでの「スッキリした恍惚」。
文学少女の奈緒の胸に、重いざわめきが広がる。

「……なんか……ごめん」

声は小さすぎて、ほとんど自分にしか聞こえなかった。
それ以上、何も言葉が出てこない。気が弱い彼女は、ただ呆然と、社員証の破片が散らばる床と、恍惚とした表情でへたり込んでいる男を見つめ続けるしかなかった。

防犯カメラは、無情にすべてを記録し続けていた。

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