【小説・ヴィーナス症候群】(番外編3)大ヒット映画の舞台になったあの村
愛知県北設楽郡三鼎村。人口200人。
行政区分は愛知県だが、郵便は天竜川を越えた静岡側の奥天竜局が担い、最寄りの鉄道駅は長野県側の伊那落合駅という、県境に取り残されたような場所だ。
山あいの斜面に家が点在し、朝は川の音と鳥の声しか聞こえない。
役場に来る電話は1日に数件、来庁者が0の日も珍しくない。
そういう、何もない村だったはずだった。
それが映画『やさしいまぼろし』の公開と世界的ヒットで一変した。(本編725話)
中国SNSでの拡散をきっかけに海外からの巡礼が爆発的に増え、中部の玄関口である中部国際空港では中国便の増便が話題になるほどの騒ぎになっている。
笠松陽が出勤した朝、坂の下に見える車列を見た時点で、その異常は説明抜きで理解できた。昨日より長い。
いや、長いというより密度が違う。レンタカー、マイクロバス、徒歩の観光客が一塊になって、山道に押し寄せている。開庁前なのに人がいる、というレベルではない。
村そのものに対して、外から圧力がかかっているような光景だった。

8時を過ぎると完全に動きが止まる。
道路は詰まり、軽トラは畑から戻れない。
クラクションとともに、中国語の「快点走!」、韓国語の「빨리 가요!」、英語の「Move, move!」が入り乱れて飛び交う。誰の指示も通らない。
笠松は交通整理に立つが、追いつくはずもない。
役場に戻れば窓口は列、電話は鳴りっぱなしで、「トイレ在哪里?」「화장실 어디예요?」「Where is the restroom?」と同じ問いが重なってくる。
トイレと道順と立入の可否を、短い言葉と身振りで繰り返すしかない。
三鼎小中学校の旧校舎は行列の先にあり、教室では1組1分の“再現”が流れ作業のように回っている。
「出席をとってるのよ!」という日本語の叫びに、笑い声と各国語の感想が重なる。
かつて音のなかった場所が、言葉の洪水で満たされている。
昼前から熱中症の通報が重なり、救急は詰まった道の手前で止まる。笠松が走って人と車を押し分け、身振りで「Stop!」「뒤로!」「后退!」と叫びながら、ようやく通路を作る。
校庭にはブルーシートが敷かれ、「Water! 水! 물!」と声が飛び交う中、観光客だった人間が水を配り、横たえられた人の周りに輪ができる。
やがて上空にヘリの音が来て、あの校庭に降りる。
昼間に笑い声が満ちていた場所が、静かな搬送の場に変わる。
日が落ちるころ、音は引く。
校舎はまた暗くなり、天竜川の水音だけが残る。
笠松は役場の前に座り込み、今日1日を思い返す。
人口200人の村に、1000人が来る。それが数日続くだけで、生活も医療も道路も限界を越える。
それでも人は来る。何もなかったはずの場所に、何かがあると信じて。
笠松自身は、原作の小説どころかモデルとなった教師その人とも面識がある。(本編420話)
しかしまさかここまでの事態になるとは思っても見なかった。
笠松は暗い校舎を見上げて、小さく言う。「やりすぎだろ」と。
明日も同じことが起きると分かっている声だった。
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