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【小説・ヴィーナス症候群】(887)危機意識の温度差

「いやー、最近うちの現場、本当に雰囲気悪いんですよ」

下着ブランド『A muse(ア・ミューズ)』のアトリエ。
白いレースの新作ブラジャーとショーツを身にまとった武隈莉子は、すらりとした身体を預けるようにして、小さくため息をついた。

莉子はドレスブランド『Felice(フェリーチェ)』の専属トルソー(試着モデル)だ。
しかし、172センチという日本人離れした高身長と抜群のプロポーションを持つ彼女は、他社のアパレルブランドから「レンタルモデル」として声がかかることも多かった。
今日もそうして、Feliceからア・ミューズのアトリエへと貸し出され、フィッティングを行っている最中だった。

両腕のない莉子の肩先が、感情に合わせてかすかにすくむ。
低めの位置で品よくまとめられたローバンの髪が、スタジオの明るい照明を反射して艶やかに光っていた。

首にピンクのメジャーをかけたア・ミューズのデザイナー・萩安奈は、手元の型紙から顔を上げ、不思議そうに眉をひそめた。

「え、どうして? 『Felice』っていったら、今ノリにノってるドレスブランドじゃない。莉子ちゃんみたいな優秀なモデルも抱えてるのに」

「ノリにノりすぎて、うちの上層部のネジが何本か飛んじゃったんです。……安奈さん、この前のグヂャラートの番組観ました?」(番外編50
「観た観た。グヂャの番組いつも攻めてるよね」

「それに出てたピアニストの小枝恵が、演奏中の衣装について『このドレス、おっぱいが安定してる』とか言い出したの、覚えてます?」

安奈は思わず、吹き出しそうになるのをこらえた。
「あはは! 覚えてる。バラエティのノリとはいえ、テレビでそんなこと言う?ってびっくりした」

「あれ、うちのドレスなんです」
莉子は恨めしそうに唇を尖らせた。

「まあ、恵さんのために、うちの体型の似たトルソーが座った時とか、激しくピアノを弾いた時のフィット感まで徹底的に合わせて作ったのは事実なんです(本編115)。恵さんが気に入ってくれて、会社にとってありがたい話なのは分かるんですけど……。テレビで、しかもゴールデンで、遠慮なく『おっぱい』とか言う?みたいな。深夜番組のノリをそのまま持ってこられて、あんなの見たら分別のない子供とかがこっちのドレスを『おっぱいドレス』って認識するわけじゃないですか」
「まあねぇ。小枝恵って確かに天才だけど、たまに言うこと変だし、ぶっ飛んでるもんね」

安奈は苦笑しながら、莉子の胸元のレースを少しだけ引っ張り、下着のフィット感を確かめる
。流石は172センチの均整の取れたプロポーション、海外仕様の型紙が実に見事にハマっている。

「百歩譲って、それはいいんです。番組でバズったからって会社が完全に調子に乗っちゃって。問題は、うちの会社側の危機意識のなさなんです。安奈さんも知っての通り、私たちFeliceのトルソーって、たまにプロモーションでデパートの特設会場とかに立たされるじゃないですか」
「展示会とかじゃなくて、一般の売り場ね。結構、距離が近くて大変でしょ?」

「大変なんてもんじゃないですよ。先日も、同じトルソーのの檜皮谷奈緒ちゃんがデパートのブライダルフェアで立ってた時に、とんでもない事件があって」

安奈は手を止め、莉子の顔を見た。「事件?」

「フードコートから出てきた酔っ払いに、あの子がしつこく絡まれたんです。それで奈緒、相手を怯ませて追い払おうと思って、とっさに発達障害のふりをしたらしいんですよ」(本編775
「えっ……。強烈な撃退法ね」

「そう。でも、それが裏目に出ちゃって。その酔っ払い、普段ガチで発達障害の人に悩まされてたみたいで。奈緒ちゃんの演技を見た瞬間、理性がパチンと崩壊して、大声で暴れ始めちゃったんですよね。まあ別にそれ以上の暴力は無かったんですけど」

安奈は息を呑んだ。
「それは……恐ろしいわね。それで、どうなったの?」

「最悪なのはここからです。その修羅場を野次馬にスマホで撮られて、YouTubeに晒されちゃったんですよ。おかげで奈緒ちゃんは、ほとぼりが冷めるまでしばらく『外立ち(デパート等の現場)は禁止』って処置になって……。なのに、うちの営業、分かってないんですよ」(本編793

莉子は怒りで声を震わせた。

「グヂャの番組のおっぱい発言で『こりゃ、千載一遇のチャンスだ! ネットでバズるぞ!』って大喜びしたんです。完全にバラエティのノリに毒されてる。こっちの恐怖心や、奈緒ちゃんの恐怖なんて1ミリも考えてない。おかげでFeliceのトルソー仲間、みんな『もうデパートの現場だけは絶対に行きたくない』ってうんざりしてて」

莉子はふう、と深く息を吐き出し、安奈をじっと見つめた。

「デリカシーのない男たちに、見せ物みたいに消費されるのはもう懲り懲りです。こうやって他所にレンタルされて、下着のアトリエにいる方が、よっぽど平和で落ち着きます……」

安奈は首のメジャーを少し手繰り寄せながら、悪戯っぽく微笑んだ。

「――じゃあさ、もう『Felice』辞めて、うちの専属モデルになっちゃう? レンタルじゃなくて、完全に引き抜いちゃう」

「……最近、ガチでそれ考えたりします」

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#武隈莉子

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