【小説・ヴィーナス症候群】(115)有名な演奏家のドレスを受注
第一章 一通の依頼
赤坂の、ひっそりとした一角に建つFelice本社ビル。
華美な看板もない、控えめな建物だった。
けれど、その中では、結婚式、式典、演奏会――
人の一生に刻まれる場面に向けて、静かに膨大な数の衣装が送り出されていた。
小さな会議室。
白い壁、木目のテーブル。
窓越しに遠く首都高速を望むだけの、飾り気のない空間に、
営業部と製作部門の責任者たちが集まっていた。
「――正式に決まりました。小枝恵さんです。」
営業課長が短く告げた。
回された資料に、目を落とす間もなく、部屋の空気が微かに変わる。
「小枝恵……」
誰かが小さく繰り返した。
若くして、カーネギーホールもウィーン楽友協会も満席にしたピアニスト。
演奏のたびに聴衆の息を呑ませ、いまやテレビや雑誌にも頻繁に名が載る。
クラシック界にとどまらず、広く知られる存在だった。
「本番用ドレス。ステージ衣装です。」
営業主任が付け加えた。
誰も冗談を言わなかった。
その意味を、全員がわかっていた。
「……軽い仕事じゃないな。」
「並みの仕上がりじゃ通らない。」
「Feliceの名前が、正式に出なくても、わかる人にはわかる。」
静かに言葉が交わされる。
要件は一点、演奏用ドレス。
しかし、その一着にかかる重みは、数字や仕様では表せない。
「既存のラインから候補を出します。」
製作責任者が静かに応じる。
「仮着用は?」
「演奏姿勢を考慮して。立ちと座り、両方見る。」
「わかった。――ぴったりの体型、頼むぞ。」
短い会議はそれだけで終わった。
だが、会議室を出た後も、肌に残る緊張だけは、誰にも拭えなかった。
第二章 控え室のざわめき
控え室のドアを開けると、空気がわずかにざわついていた。
Feliceの「トルソーさん」たち――仮着用や展示のために日々呼ばれる面々が、
簡素なソファに腰掛け、待機している。
夜久野由美も、その一角にいた。
低くまとめた髪に、控えめなナチュラルメイク。
目立つわけでも、引っ込むわけでもなく、
ただ、きちんとそこに座っている。
ふいに隣から声がかかった。
「えっ、由美すごいじゃん! 小枝恵のドレス、着るんでしょ?」
由美は少しだけ顔を上げ、
軽く息をついて応じた。
「……体型が近いからってだけだよ。」
「でもさー、そっか〜、小枝恵って美乳なんだね!」
すかさず、別のトルソーが茶化すように言った。
由美は小さく肩をすくめた。
「やめてよ、もう。」
笑い声が小さく広がる。
控え室の空気は、重すぎもせず、かといって軽薄でもない。
それぞれが、自分の役割を知りながら、静かに順番を待っている。
今日、由美に与えられた役割はただ一つ。
ドレスを着て、立ち、座り、
それだけで、ステージに耐えるかどうかを確かめること。
特別な何かを演じる必要はない。
ただ、静かにそこにあること。
それが、求められていた。
第三章 ドレスの重み
「お願いします。」
控え室の扉をノックして入ってきたのは、製作部のスタッフだった。
黒のシンプルな制服に、胸元だけ小さくFeliceのロゴが刺繍されている。
由美は静かに立ち上がった。
案内されたのは、仮着用用のフィッティングルーム。
白い壁、広い鏡。
そこに、今日着用するドレスが用意されていた。
パステルカラーのサテンとチュール。
柔らかな色味と、きめ細かな光沢。
肩のないデザインは、最初から静止の美を前提にして作られている。
「じゃあ、これを。」
スタッフが、そっと手渡してくる。
由美はうなずき、静かに着替えに入った。
腕を通す必要がない分、着せ付けは特殊だった。
ドレスを頭からかぶせ、脇や背中でそっと合わせる。
スタッフの手つきは慣れている。
けれど、その動きには、どこかいつもよりわずかに緊張があった。
生地を引っ張らない。
チュールを噛ませない。
一針一針が意味を持つことを、みんなが知っていた。
ドレスが落ち着くと、由美は静かに鏡の前に立った。
光を受けて、ドレスの表面に淡い波紋のような反射が広がる。
呼吸をひとつ整え、
スタッフの合図で、今度はそっと歩き出す。
向かう先は、演奏家専用フィッティングサロン。
そして、その中央に置かれた、グランドピアノ。
第四章 静止の美
サロンの空気は、外界から切り離されたように澄んでいた。
白い壁、自然光、そして中央に置かれた、黒いグランドピアノ。
余計な装飾はない。
ただ、そこにあるべきものだけが、静かに整っていた。
由美はサテンとチュールのドレスをまとい、
指示を受けて、ゆっくりとピアノへ歩み寄った。
腕はない。
けれど、歩みは乱れず、
布の流れを乱すものもない。
ピアノ椅子の前で、いったん立ち止まる。
スタッフの一人が目で合図を送る。
由美は静かに腰を下ろした。
ドレスのスカートがふわりと広がり、
チュールの層が、音もなく光を受けた。
由美の視線は、そっと鍵盤に向かう。
弾くわけではない。
ただ、そこに存在し、
ただ、静かに見つめるだけ。
それが、両腕のない由美の仕事だった。

誰も言葉を発しなかった。
製作部のスタッフたちは、慎重に、
布の落ち方、背中のライン、座ったときの腰まわりのたわみを観察していた。
仮着用の目的は、ただそれだけだ。
動きではなく、静止の中にある美を確かめること。
しばらくして、
スタッフ同士の、ごく小さなささやきが聞こえ始めた。
「ねえ、聞いた? 小枝恵さんって、すごいらしいよ。」
「プレフィッティングのときの話?」
「そう。仮試着の時の。ドレス合わせでピアノ椅子に座らせたら、いきなり弾き始めちゃったんだって。」
「えぇ……。」
「しかもドレス着たまま。止める間もなく、ショパン。」
「……まあ、ピアノあったら、我慢できないよね。」
小さな笑いが、静かに漏れる。
「それだけじゃないよ。チュールの感触が気に入っちゃって、ずっと袖をなでなでしてたって。」
「……気持ちは、わかる。」
「でね、丈の相談してたはずなのに、いつの間にかたこ焼きの話になってたって。」
「なんでたこ焼き!?」
「さあ?おなか空いてたのかも。」
「極めつけは、着替えに控え室行ったと思ったら、そのまま外出ちゃって……カフェでパンケーキ食べてたらしいよ。」
「うそでしょ……。」
(少し間があって)
「……小枝さんって、あれじゃ、トルソーの子たちより、生きるのが大変でしょうね。」
誰も否定しなかった。
由美は、何も聞いていないふりをしながら、
ただ、ピアノの前に静かに座り続けていた。
布の流れを、崩さぬように。
