【小説・ヴィーナス症候群】(333)恋が終わる時
第1章 重い雰囲気
赤坂のドレスブランド・Felice。そのアトリエは、朝から仮縫いや展示準備で慌ただしかった。
この日「トルソーさん」として現場に立っていたのは夜久野由美だった。
「いたっ!」
小さく声を漏らした由美の肩に、アシスタントデザイナーの檜山若菜の手が触れた。ピンを打とうとしていたのだ。
「あ、ごめん!」若菜はすぐに謝る。
「というか、由美ちゃん、ピン打ちの時ぐらい、もうちょっとピッと立てない?」
「申し訳ないです……」由美は小さく頭を下げた。
その後、控え室。
白い壁に囲まれた狭い空間で、仲間のトルソーたちが集まっていた。
「由美ちゃん、最近どうしたのよ」武隈莉子が心配そうに問いかける。
「それがね……」由美は口ごもる。
檜皮谷奈緒が目を細める。「彼、警察のお世話になったんでしょ?」(第325話)

「いや、別にそのことはいいのよ。そのことはいいんだけど……」
由美の声が少し震えた。
「蓮君たら、『こんな体になっちまって、ロボットみてえな女にしか相手にされなくなった』とか言うの。私、その言葉をどう処理していいか分からなくて」
「ハァァァァ!?そいつ狂ってんの?もう別れなって!」
莉子が義手で机を叩いた。
奈緒も冷静に続ける。
「その方がいいかもね。“ロボット女”なんて言葉を許したら、ヴィーナスの子全体をそう見ていいってことになる。他の子にまで迷惑がかかる」
「私だってそう思うよ。でも蓮くん、たまに『お前がいなかったら俺はもう死ぬしかねえ!』とか言うの。この状態で別れたら……」
「確実にストーカーなるね。こりゃ難しいわ」莉子が肩をすくめる。
「でしょ?」
奈緒が首をかしげる。
「じゃあ、わざと変なことして嫌いになってもらうとか」
「男が決定的に嫌いになるポイントってどこ?そんなの分かんない」
由美は苦笑する。
「屁こいてみるとか」
莉子が茶化した。
「他人事だと思って適当なこと言わないで!」
「ご、ごめん……」
だが現実は、そんな冗談で済むものではなかった。
第2章 決定的な瞬間
蓮と会っても由美の心は上の空だった。
「おい、由美、聞いてる?」
「あ、ああ、ごめんなさい」
「どうせ俺みたいなチンコのねえ男なんて、捨てられて終わりだろうけどさ」(第275話)
「そういう言い方しないでよ……」
それでも、蓮は繰り返した。
「なんかさぁ、気がくさくさするから飲み行こうぜ」
「いいけど、飲みすぎないでね。警察のお世話になってるの分かってるでしょ?」
「分かってるよ」
「今度あんなことがあったら、もう付き合いきれないかも」
夜の街。酒場の灯りの下、由美は自分をキャバ嬢か何かだと割り切るしかなかった。
蓮の深酒に付き合い、スマホをいじりながら適当に相槌を打つ。
蓮は勝手にしゃべり続け、もはやカップルの体をなしてはいなかった。
いつまで続くのか分からない関係。
次の店に向かう途中、路地で中年の男が立ち小便をしていた。由美は眉をひそめて横を向く。
「おい、オッサン!立ちションしてんじゃねーよ!」
「仕方ねーだろ!こんなに小便がジョボジョボジョボジョボ出てきたことなんて生まれて初めてだよ!俺の膀胱にこんなに小便がたまってるなんて、俺だって知らなかったよ!たぶん1リットルはある!1リットルの小便なんて…!ああーっ!」
その瞬間、蓮が狂ったようにその男を蹴り倒した。
「蓮!」
「立ちションしたくてもできねえ奴だっているんだよ!」
周囲は騒然となり、男は蹲ったまま動かない。誰かが叫んだ。「救急車!救急車!」
取り押さえられる蓮。立ち尽くす由美。涙が頬を伝うだけだった。
結局、蓮は駆けつけた警察に逮捕され、由美も事情聴取のため交番に連れて行かれた。
第3章 交番にて
交番の蛍光灯はやけに白く、狭い部屋に緊張を張りつめさせていた。
ベンチの上で蓮はまだ荒々しく叫んでいる。
「離せって!立ちションしてたから注意しただけだろ!俺は悪くねえ!」
「静かに!」制服警官の声が響き、手錠がかちゃりと鳴った。
由美は隅の机に案内され、若い警官に向かい合った。
「ではお名前とご住所からお願いします」
「……夜久野由美。練馬区……」
淡々と答える声の奥に、奇妙な落ち着きがあった。
警官が書き留める間、蓮の怒声が交番の壁越しに漏れてくる。だが、それすらもう遠い音のように感じられた。
「さきほど、“立ちションできない奴もいる”と叫んでいましたが、あれはどういう意味でしょうか」
由美は少し視線を落とし、ため息をひとつ漏らした。
「……彼、事故というか事件で……男性のあそこを切断されて。それでずっとやけになってるんです。週刊誌で“チン切り事件”って、見たことありませんか」(第325話)
ペンを走らせる警官が一瞬だけ顔を上げ、すぐにまた視線を紙へ戻した。
「なるほど。そうした背景があったんですね」
「でも、それで暴れる理由にはならないです」由美はあっさり言い切った。
自分の口から説明しながら、心の奥では別の思いが湧き上がっていた。
――これで、もう終わる。
彼が警察に連れて来られたことで、ようやく関係を切るきっかけができた。
泣きつかれ、脅され、ストーカー化する未来を恐れていたけれど、ここまで壊れてしまえば、もう後戻りはできない。
「供述はこれで結構です。本日は帰宅して大丈夫です。後日またご協力をお願いするかもしれません」
「……分かりました」
交番を出ると、夜明けの空気がひんやりと肌を刺した。
吐く息は白く、胸の奥は奇妙な軽さに満たされていた。
悲しみではない。涙も出ない。ただ――
「やっと、終わる」
小さく呟いた声は、朝の喧噪に溶けて消えていった。
第4章 翌朝
翌朝、Feliceの控え室に由美の姿はなかった。
「由美ちゃん、どうしたんだろうね」奈緒が心配そうにつぶやく。
「風邪ひいた程度ならいいんだけどね……」莉子の声は沈んでいた。
恋が終わる時は、いつだって唐突で、そして残酷だった。
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