【小説・ヴィーナス症候群】[275]幸せな手
赤坂のドレスブランド「Felice」でトルソーさんとして働く夜久野由美は、都営三田線の蓮根駅近くの古いアパートを出ていかざるを得なくなった。
築四十年を超え、雨漏りも壁の剥落も目立つ。大家から「建て替えるので」と立ち退きを迫られたのだ。
薄々分かってはいた。いずれはこうなると。
不動産屋に足を運び、家賃はこれまでと同じ六〜七万円台を希望した。
「できれば都営地下鉄沿線がいいです。障害者手帳を持っているので、運賃が無料になるから」
そう告げると、営業マンはにやりと笑い、数件の物件を提示してきた。
紹介されたのは練馬春日町のワンルーム。光が丘にも近い。
「赤坂までは大江戸線で一本ですよ」
そう言われれば確かに便利そうだった。
板橋区から練馬区へ。住所が変わるから、障害者手帳も書き換えが必要になる。
区役所の福祉課のロビーで番号を呼ばれるのを待っていると、不意に怒鳴り声が響いた。
「俺にはチンコがねえんだぞ!
一生ヤれねえし、シコることすらできねえ!
いや、もう“したい”って気持ちすら湧かねえんだ!
ションベンできるなら障害者じゃありません? ふざけんな! それで男として認められるかよ! 手足切断されたら障害者になんだろが! チンコだって切断されたんなら障害者1級じゃなきゃおかしいだろ!」
ロビーがざわめく。
(真っ昼間から何を言ってるの、この人……)
呆れて顔を向けた由美は、思わず目を見張った。叫んでいるのは、整った顔立ちの若い男だった。イケメンが何を血走った目でわめいているのだろう。
窓口の職員が声を震わせながらなだめている。
「お、お気持ちは理解しますが……現行法では、排泄機能が自立している場合は……障害者認定の対象外でして……」
「排泄だ? 俺はただションベン垂らす機械か!?
性欲もねえ、シコることもできねえ……それで人間として生きろってか!」
職員はしどろもどろに書類をめくりながら言葉を重ねた。
「ですので……生活上の基本的動作が可能と判断される以上、手帳や年金の交付は……」
「ふざけんな! 分かったよ! じゃあ死ぬよ! チンコ無くしたら生きてる意味ねーじゃん! 電車飛び込むわ!」
男は荒れ狂い、出口に向かって足を踏み出す。
「ちょっと! だめよ!」
由美は思わず立ち上がった。
「生きてたら……生きてたら良いこともあるから!」
「お前らに俺の気持ちなんて分かん……」
必死に腕を掴んだその手は、冷たい金属でできていた。
男ははっと目を見開き、掴まれた義手を見下ろした。
「……あんたも、障害者か」
怒りが少しずつしぼみ、ようやく足が止まった。
二人は一緒に区役所を出て、目白通りを並んで歩いた。
「えらいこと叫んでたね」
由美が苦笑まじりに言うと、男は舌打ちして肩をすくめた。
「……まあちょっとな。付き合ってた女が『推しっ子』の小水ゆまりみたいな可愛い子だと思ってたらさ、超ド級のヒステリー持ちでさ。そんなキチガイみてぇな女から逃げて別の女と寝てたら乗り込んできやがって、包丁でザクッと」
「やだっ。聞いてるだけで痛そう」
「あの女は懲役4年で栃木の刑務所に行ったらしいけどな。ショップの店員だったんだ」
「そりゃあ、あなたみたいにイケメンでおしゃれならモテるんだろうけど、やっぱり浮気は良くないよ」
「だからってよぉ、普通包丁持ってチンコ切りにくるか?」
「うん……ちょっとヤバい子かも」
聞けば彼の名は釜野蓮。原宿の美容室で美容師をしているという。
なるほど、イケメンでトークも軽妙ならモテないはずがない。
「ところで、なんであんた腕ねえんだ?」
「あら、聞いたことない? 第2サリドマイド病。生まれつき腕のない女の子」
「あー……なんか、うちの美容室の近所のアパレルビルから、そういう義手の子が出てくるの見たことあるようなないような……」
「たぶんそれ! トルソーさんって最近は多いの。私は赤坂のドレス屋なんだけど」
不思議な縁に導かれるように、体のどこかを失った二人の交際は始まった。
「ねえ、幸手ってところで曼珠沙華がすごく咲いてるんだって。見に行きたいな」
由美の言葉に、蓮は苦笑する。
「幸手・・・?あー、埼玉でもかなり田舎の方だよな。春日部よりまだ先の方だろ?なんか中学生みたいなデートだな」
それでも車は国道4号を北へ走った。
幸手の権現堂堤。堤防一面に赤い曼珠沙華が広がっている。
「わあ、すごいよね!」
「へっ、こんなんで感動するなんて……まあ、たまにはこういうのもいいよな」
感覚がないはずの金属の手。その冷たい手から、なぜか肩にぬくもりが伝わってくるようだった。
――私の手はきっと、世界一幸せな手。

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