【小説・ヴィーナス症候群】(325)モロ出し変態男
第1章 カリスマ美容師
地下鉄の中。
二人の若い女性が週刊誌をのぞき込みながら、ひそひそ声を交わしていた。
「ねえ、この“チン切り美容師”の記事……この釜野蓮ってさ、原宿のLIMINALのREN君じゃない?」
「え、うそでしょ? あの予約取れないサロンの? インスタでめっちゃ見かけたよ」
「顔出てるじゃん、ほら。……やっぱREN君だよ」
二人は互いに目を見合わせ、声を落とした。
「イケメンで有名だったのに……まさかこんな事件になるなんて」
「もうお客さん戻ってこないよね……」
《練馬チン切り事件──怒れる彼女の凶行》
原宿の人気美容室「LIMINAL」でスタイリストを務める若手美容師・釜野蓮(26)が、交際女性に男性器を切断されるという前代未聞の事件が発生した。
犯行は深夜、東京都練馬区内の自宅マンションで就寝中に行われた。包丁を手に忍び込んだのは交際相手のショップ店員・鶴谷瑠美(23)。
蓮が悲鳴をあげて出血する中、鶴谷は切断したものを流しに投げ捨て、その場で取り押さえられた。
蓮は大量出血で都内の大学病院に緊急搬送され、命はとりとめたものの、機能の回復は絶望的と診断された。
鶴谷は警察に対し「浮気を繰り返していた。もう我慢できなかった」と供述。裁判では懲役4年の実刑判決を受け、現在は栃木刑務所に服役中である。
原宿では「REN君」の愛称で親しまれ、SNSでも人気を誇った釜野だが、その華やかな裏側で複数の女性との交際が重なっていたという証言もある。
第2章 深酒
──その“チン切り”された男は、池袋の居酒屋で夜通し飲んでいた。
ビールに始まり、焼酎、日本酒、チューハイ。
テーブルの上は空きジョッキと皿の山。
だがその目はどこか虚ろで、仲間を呼ぶでもなく、ただ一人で黙々と飲み続けていた。
「……死のうと思ったんだ。区役所で。
でもあの時、両腕が義手のロボット女に止められてさ」(第275話)
ジョッキを傾けながら、誰に聞かせるでもなく呟く。
氷のぶつかる音が、虚しく耳に残る。
「顔は可愛いんだ。だから流れで付き合うことになった。
……でも結局、そんな女にしか、もう俺は相手にされないんだよな」
口元が歪み、苦笑とも嘲笑ともつかない声が漏れる。
焼酎を一気にあおり、カウンターに叩きつけるように置いた。
店員が「ラストオーダーです」と声をかけたとき、蓮はかすかに笑った。
「……俺にラストなんてあんのかよ」
勘定を済ませて店を出ると、明け方の池袋の街は酔客と始発を待つ人々で雑然としていた。
どこへ行く当てもない。
ただ、どうでもよくなっていた。
普段は絶対に乗らない埼京線のホームにふらりと上がる。
人影のまばらな車内に身を投げ込み、揺られるまま十条駅で降りた。
理由はなかった。
ふらつく足で南口を抜け、適当に歩く。
やがてたどり着いたのは、誰もいない小さな公園だった。
尿意を感じ、壁際に立つ。
「……立ちションぐらい、できるだろ」
だが放たれたのは、前に飛ぶはずのない一筋の水。
真下に垂れて靴もズボンも濡れるばかりだった。
蓮は歯を食いしばり、耳に届いた幻の笑い声に顔をゆがめた。
(……ガキですらできるのに、俺にはできねえ……)
頭の中で嘲笑が響く。
気がつくと、ズボンもパンツも脱ぎ捨てて歩き出していた。
夜明け前の道を、王子駅の方向へ。
第3章 不審者
朝の通学路。十条台小学校へ向かう数人の児童が、公園のそばを歩いていた。
そのとき、木立の間から現れた男を見て、全員が立ち止まった。
「……え、なにあれ」
「ズボンはいてない!」
「でも……チンコなかった!」
声が一斉に上がる。
「ほんとだよ!」「おしっこしてたのに、何もぶら下がってなかった!」
子どもたちは怯えながらも、口々に叫び合った。
駆け込んだ職員室で、教諭たちが説明を聞く。
「公園に……ズボンを脱いでる変な人がいるって?」
「でも、子どもたちは“チンコがなかった”って……」
若い教諭が思わず呟いた。
「……男なのに? オナベとか、そういう……?」
教頭は険しい顔で首を振った。
「いずれにせよ、複数の証言がある以上、警察に連絡しよう」
受話器が取り上げられ、滝野川署へ通報が入る。
だが、当直の警官の返事は意外なものだった。
「その男なら、すでに王子駅前で現行犯逮捕しています」
第4章 警察署からの呼び出し
赤坂の「Felice」アトリエ控室。
撮影と仮縫いの合間、由美は義手を外してソファに腰を下ろしていた。
向かいでは武隈莉子と檜皮谷奈緒も紙コップを手にしている。
「でさ、由美ちゃん。最近の美容師の彼とはどうなのよ」
莉子がにやりと笑い、奈緒も興味深げに首を傾げる。
由美は少しだけ困った顔をして、声を落とした。
「……うーん、やっぱり心の傷は癒されないみたい。いきなり泣き出したり、パンツも履かないで部屋歩き回ったり、なんか変なんだよね」(第283話)
二人は顔を見合わせた。
「……やっぱり、アレを失ったんじゃなぁ……」
「そりゃあ……普通の男じゃいられないよね……」
重たい沈黙が控室に落ちた、そのとき。
由美のスマホが震えた。
画面を覗き込み、息をのむ。
「……滝野川警察署?」
応答すると、事務的な声が流れた。
「釜野蓮さんをお引き取りいただきたいのですが。場所は西ヶ原か上中里が最寄りになります」
由美は一瞬、息を詰まらせた。
スマホを切った由美は、しばらく言葉を失っていた。
控室に重苦しい沈黙が落ちる。莉子がそっと尋ねる。
「……行くの?」
「……うん。行かなきゃ」
由美は義手を装着し、荷物をまとめた。
地下鉄南北線のホームへ向かい、電車に乗る。車窓に流れる暗闇を見つめながら、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
(……また何かやったんだ。
いきなり泣いたり、部屋を歩き回ったり――やっぱり、心は壊れたままなんだ……)
第5章 面会
電車を西ヶ原で降り、地上に出る。
太陽の光は柔らかいのに、足取りは重い。
坂を上ると、正面に赤レンガ風の庁舎が見えてきた。
「滝野川警察署」――白地に黒文字の看板。
由美は義手の指先でハンドバッグを握りしめ、大きく息を吸った。

受付で名前を告げると、事務的な声が返ってきた。
「面会ですね。少々お待ちください」
背筋に冷たい汗が伝う。
やがてドアが開き、制服警官が由美を呼んだ。
「夜久野さんですね。こちらへ」
導かれる先に、あの男がいる。
胸の鼓動がいやに大きく響いていた。
厚いガラスで仕切られた面会室。
由美が受話器を手にすると、制服警官に付き添われて蓮が現れた。
視線が思わず彼の服装に吸い寄せられる。
上はいつものようにおしゃれなジャケット――原宿の美容師らしい洒落っ気を残している。
だが下は場違いなグレーのスウェットパンツ。
全体のバランスは崩れ、どこか滑稽で、痛ましかった。
椅子に腰を下ろした蓮は、目の下に深い隈を作り、受話器を握りしめる。
「……由美、来てくれたんだな」
由美は静かにうなずいた。
「……俺だって立ちションぐらいできると思ったんだよ」
蓮は言葉を吐き出すように続けた。
「でも真下にしか出なくて、パンツもズボンもびしょ濡れ。
そこら辺のガキでもできることが、俺にはできねえ。
それが頭きて、どうでもよくなって……
“チンコのねえ哀れな俺を見ろ”って思ったんだ……アハ、アハ、アハハハハハハハハ……」
狂ったように笑ったあと、彼は受話器を握りしめ、泣き崩れた。
由美はガラスに義手を押し当て、静かにささやいた。
「……もうやめて。あなたが笑いものになるのは、私も耐えられない」
第6章 釈放
数日後の朝。
由美のスマホに警察から連絡が入った。
「釜野蓮さん、本日釈放となります。西ヶ原の滝野川警察署まで迎えに来てください」
由美は電車を乗り継ぎ、署の前に立った。
夏の日差しが照りつける。
義手の指先がハンドバッグの持ち手をきしませる。
やがて玄関から蓮が姿を現した。
上半身はいつものようにおしゃれなジャケット。
だが下はだらしないスウェットパンツで、足取りは重い。
数日の留置で痩せたのか、頬もこけていた。
由美を見ると、蓮はかすかに笑った。
「……悪いな。迎えに来てもらって」
二人で駅へ歩き出す。
しばらく沈黙が続いたあと、蓮がぽつりと呟いた。
「……俺だって立ちションぐらいできると思ったんだよ。
でも真下にしか出なくて、パンツもズボンもびしょ濡れでさ……
小学生ですらできることが、俺にはできねえ。
それが頭きて……“哀れな俺を見ろ”って、脱いじまったんだ」
自嘲するように笑ったあと、彼は俯いた。
「チンコもねえのに、公然わいせつとか……意味わかんねえよな」
由美は隣を歩きながら、胸の奥に冷たい影を感じていた。
(……この人は体だけじゃない。心にも深い傷を負っている。
でも、その深い傷を……私に癒すことができるのだろうか)
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