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ドラゴンズが優勝した夜 昭和57年の日本はなぜ「異様なほど元気」に見えたのか


ドラゴンズ優勝の夜

昭和57年(1982年)10月18日、中日ドラゴンズがリーグ優勝を決め、横浜スタジアムは熱狂に包まれていました。

グラウンドに乱入し、監督・選手の帽子を奪いながら、選手たち胴上げをする熱狂的なファン。

果ては彼らが優勝インタビュー中の近藤貞雄監督の背後を埋め尽くす始末。

プロ野球史の名場面として語られることの多いシーンですが、社会保険労務士という立場では、この映像は昭和末期の日本の感覚を凝縮した資料と感じます。

今回の記事では、昭和57年という時代を、懐古でも断罪でもなく、労務管理の観点から冷静に読み解くことを目的とします。

あの夜、何が映し出されたのでしょうか。共に振り返りましょう。

決戦がおこなわれた昭和57年の横浜スタジアム

長時間労働が前提だった昭和57年の日本社会

昭和57年当時、日本の年間総実労働時間は2,100時間を超えていました。

常用労働者1人平均年間総実労働時間数 1951年~2025年 年平均(JILPT資料)


現在の日本(約1,600時間台)と比較すると、想像し難い長時間なのが分かります。

また、この時代には、時間外労働の上限規制も、勤務間インターバル制度も、過重労働に対する健康確保措置も、ほぼ存在していませんでした。

優勝の夜、名古屋の建設コンサルタント会社では、残業をしながらラジオで試合を聴く会社員の姿がありました(優勝直後のNHK名古屋放送局の映像より)。

この時は、当時の価値観のもとで、「24時間働ける漢(おとこ)たち」として肯定的に描かれていましたが、それは、慢性的な長時間労働が「美徳」とされていた、昭和末期の日本社会の構造が映し出されたワンシーンと言えるでしょう。


従業員は「家族」という思想

昭和57年当時、多くの企業は人材確保と定着を目的に、終身雇用制度を前提とした経営を行っていました。その結果、従業員を単なる労働力ではなく、「家族」や「運命共同体」と見なす意識が、企業と労働者の双方に共有されていたのです。

名古屋の建設コンサルタント会社では、ドラゴンズ優勝決定直後、海外赴任中の社員に、時差を顧みず電話で優勝を伝える場面がありました。

管理職らしき男性が
「おい、ドラ吉、ドラ吉に電話してあげて」
と。

【注】ドラ吉とは、中日ドラゴンズを熱狂的に応援する方の愛称です。

これは当時の価値観を現す象徴的なシーンです。

そこには決して悪意はなく、「家族と喜びを分かち合いたい」という純粋な感覚から生まれた行為だったのでしょう。

しかし、労働法の視点から見れば、この「家族意識」は別の側面も併せ持っていました。

当時は、私生活と労働時間の境界は極めて曖昧であり、労働者の生活時間にまで会社が当然のように介入し、そうした関わりを断る自由は、制度として十分に保障されていなかったのです。

現代では、業務時間外の連絡を拒否する「つながらない権利」が議論され、法制度化も検討されています。これに照らせば、昭和57年当時の日本の労働現場において、労働者の私的時間を守るという発想自体が、ほとんど意識されていなかったと言わざるを得ません。


首脳陣や一部ベテラン選手から見る当時の現場

昭和57年の中日ドラゴンズは、「野武士軍団」と称されるほど、荒々しさと結束力を併せ持つチームでした。そこには、厳しい上下関係と、結果を最優先する独特のチーム文化が存在していました。

野武士軍団の兄貴分 星野仙一

星野仙一投手は、チーム内で強い影響力を持つ存在であり、自らが形成したグループの後輩たちを「弟分」として可愛がっていたことで知られています。

弟分であった牛島和彦投手が、肘の激しい痛みに耐えながらシーズンを投げ抜いた際には、「こいつがいなかったら優勝できなかったよ。しっかり治して、また来年頑張ろうな。」と目を潤ませて称賛しました。

そこには、単なる上下関係ではなく、昔ながらの情の深さと責任感が存在していました。

厳しいオヤジたち 近藤貞夫監督と権藤博投手コーチ

一方で、近藤貞夫監督は、「オヤジ」として慕われる存在であった反面、ときにはマウンド上で宇野勝選手を罵倒し、対戦チームも驚くような口論になっていたと、後年の証言で語られています。

当時はそれが「勝つための指導」「男の世界の常識」として、広く受け入れられていました。

また、ドラゴンズがリーグ優勝を決めた試合は、東海ラジオの特別番組「ドラゴンズスペシャル」でも生中継されていました。その放送では、当時のドラゴンズ投手陣を鍛えた権藤博コーチの厳しさを、ラジオならではの生々しさで伝えています。

実況の犬飼俊久アナウンサーは、若手投手が多かった当時の投手陣を振り返り、次のように語っています。

若いプレイヤーが多い投手陣をですね、権藤コーチが“鬼コーチ”になってですね、引っ張っていきましたね。権藤コーチの、激しすぎるくらいの気合の入った引っ張り方に、影でプレイヤーたちが不満を漏らす時もありましたけどもね。しかし、それくらいの激しさで引っ張ってきて、やっぱり今のドラゴンズの若い連中には、ちょうど良かったんだと思うんです。

東海ラジオ ドラゴンズスペシャル

続けて、解説を務めていた中山俊丈さんも、こう応じています。

そういうことは言えますね。もう本当に、何と言いますかね、“なあなあ”ではこれはダメですよね。だから、“恨まれるようなコーチ”。これが、今の中日の投手陣には必要だった、ということが言えるでしょうね。

東海ラジオ ドラゴンズスペシャル

ここで使われている「鬼コーチ」や「恨まれるようなコーチ」という言葉は、現在の感覚では極めて刺激的です。しかし当時は、それが若手を鍛え上げ、勝つために必要な役割として、肯定的に受け止められていました。ラジオ越しに伝わる語り口からも、権藤コーチの厳しさが、単なる感情的叱責ではなく、「勝利のための覚悟」として共有されていたことがうかがえます。

現代では許されないハラスメントの数々

ここまで挙げてきた、チームの雰囲気や指導は、現代の労働コンプライアンスや厚生労働省の指針、判例の蓄積に照らせば、公然とした叱責や威圧的な言動、上下関係を背景にした精神的圧力(支配)に該当し、典型的なパワーハラスメントと評価される行為が含まれていたことは否定できません。

スポーツの世界であっても、「勝利のため」「伝統だから」という理由でハラスメントが許される訳がなく、指導とハラスメントの線引きは、時代とともに明確化されてきました。

実際、中日ドラゴンズでは、第二次星野仙一監督時代まで色濃く残っていた精神主義・威圧的な指導文化は、平成16年(2004年)に落合博満氏が監督に就任し、合理性と個の能力を重視するマネジメントが導入されるまでつづいたのです。

野武士たちの証言

ドラゴンズOBの谷沢健一さん、田尾安志さん、宇野勝さんが、当時のチームの様子についてYouTubeで語っています。星野仙一さんを中心とする強い人間関係の輪の外にいた選手たちが、事実上、「無視」や「人間関係からの切離し」の憂き目に遭ったことや、些細な理由により外出禁止令が出されたことなど、今ならハラスメント認定される事例をお話されています。


女子保護規定「保護」の名の下の排除

昭和57年当時、労働基準法には、いわゆる「女子保護規定」が存在していました。この規定は、深夜業の制限や時間外労働の制限などを通じて、厳しい労働環境下における女性労働者の安全と健康を守ることを目的とした制度でした。

ドラゴンズ優勝の夜、名古屋の建設コンサルタント会社の残業風景に、女性の姿が見当たらなかったのは、「働きたくても、男性と同じ条件では働けない」という法制度による明確な線引きが存在していたからです。

この規定により、女性は「守られる存在」と位置づけられる一方で、長時間労働や責任ある業務、昇進・配置転換の機会から、制度的に遠ざけられていったのです。

しかし「女子保護規定」は時代の変化とともに、女性の職業生活における差別的な効果を持つという認識が広がり、20世紀末には、その役割を終えました。

「女子保護規定」の影響は、男女の賃金格差や管理職比率の低さといった形で、現在に至るまで尾を引いています。優勝の夜に映し出された「男たちだけの職場風景」は、日本社会におけるジェンダー構造を象徴する一場面でもあったのです。


無秩序なスタジアムと施設管理責任

プロ野球はスポーツであると同時に「興行」です。そのため、試合を主催する側には、観客の安全を確保し、秩序を維持するための施設管理責任が課されています。現在のNPB試合観戦契約約款では、主催者の許可なくグラウンドに立ち入る行為や、物品を投げ入れる行為、フェンス等によじ登る行為などが禁止されています。

昭和57年当時は、こうした観戦者とのルールが、現在ほど明文化・共有されていませんでした。その結果、優勝決定直後には多くのファンがグラウンドになだれ込み、監督や選手のキャップを奪うといった行為も発生しています。

下のYouTube動画は、「ベイ1998ジェファン」と称する方のアップしたものですが、当時のテレビ映像でも、近藤貞雄監督がファンから帽子を奪われるシーンが確認できます(クリックするとそのシーンからスタートします)。

なお、現代の野球場をめぐるもう一つの大きな問題として、売り子業態におけるカスタマーハラスメント被害があります。これは、主催者側の販売戦略により、若い女性で占められた売り子と男性観客の歪んだ力関係で生じる問題です。

この問題は、産経新聞が記事として配信していますが、神宮球場楽天イーグルスは、未だに売り子の女性「性」を強く打ち出したプロモーションで、売り子の安全配慮義務を十分に果たしていませんので、関心のある方は下のリンク記事をご覧ください。


「元気だった日本」という言葉への違和感

昭和57年を振り返る際、安定成長期を象徴する言葉として、「日本が元気だった時代」という表現がしばしば用いられます。

しかし、労働法の視点から見れば、その「元気」は、

・長時間労働が美徳とされた働き方
・私生活を含めて会社に帰属することを当然とする企業文化
・男性が稼ぎ手であるとした性別分業と雇用形態(男性は正社員で女性はパートなど)
・精神論や根性論によって正当化される統治

の上に成り立っていました。

実はこの時代は「元気」だったのではなく、犠牲が可視化されていなかったのです。


最後に

それでも、昭和57年の光景を、私は完全に否定することはできません。

あの時代を生きた人々が、一つの出来事を共有し、職場も街も同じ方向を向き、感情を分かち合っていたという事実は、やはり素敵なものです。

コンプライアンスは未熟で、人権意識も今とは比べものにならないほど乏しかった。

それでも、あの時代には、数字や指標では測れない「生身の社会」が確かに存在していました。

今の私は、社会保険労務士として、昭和57年の日本社会を冷静に分析し、その問題点を指摘することができます。

・長時間労働
・職場のハラスメント
・制度化された性別役割分業

これらはいずれも、決して肯定できるものではありません。

しかし、あの夜、テレビの前にいた幼少期の自分の気持ちまで、否定することはできないのです。

普段は疲れた表情を浮かべていた大人たちが、ドラゴンズの優勝に声を上げ、笑い、肩を叩き合い、抱き合っていた。その光景は、社会全体が一つの出来事を、同じ温度で共有していた瞬間でした。

「芸どころ」名古屋らしく、優勝が決まると、ドラゴンズを愛する人々が神輿を担いで街を練り歩きました。

昭和57年中日ドラゴンズの優勝は、日本の労働社会史における矛盾と課題を映し出す出来事であると同時に、幼少期だった私にとって、「目の前の世界が、いつもより少し明るく見えた夜」でもありました。

「批評すること」と「懐かしむこと」は、決して矛盾しません。

むしろ、その両方を引き受けて語ることこそが、この時代と誠実に向き合うということなのだと、今は思っています。

最後に、あらためて

おめでとう、野武士軍団。
ありがとう、野武士軍団。
中日ドラゴンズの未来に、幸あれ。

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