見出し画像

何度でも語りたい『二人称』の奥深さ

先日、2026年上半期に出会ったアルバムを何枚かを主題とした記事を執筆した。その中にヨルシカの二人称があり、特に印象に残っているアルバムである。

他のどのアルバムとも体験の質が違っていた。腰を据えて静かな部屋にこもり、原稿用紙を1枚、また1枚とめくりながら物語を読み進めていく。指先には紙の手触りが残り、折り目を開く小さな音がする。

そうやって文字を追いながら椅子に座ってヘッドホンをつけ、音だけに意識を沈めていったあの時間を私は今も体ごと覚えている。

その頃に書いた記事で、私はこの作品を「ヨルシカの最高到達点だ」と評した。

▼非常に多くの方に読んで頂きありがとうございます

22曲の緻密な設計も、封筒に詰められた物量も、特定のジャンルに縛られない多様な音楽性とその融合。たしかにそう呼ぶにふさわしいものだった。

それともうひとつ。二人称の発表を最初に知ったとき、皆さんも同じだと推測するが、ヒッチコックのリレコが必ずこのアルバムに入ると、なぜか確信していた。ヨルシカがこの物語をずっと前から温めてきたことはn-buna自身が繰り返し語っている。だとすればあの1曲が呼び戻されるのは必然のように思えたし、実際、リレコーディングされたヒッチコックは終盤の18曲目に置かれていた。


読み終えたあとに残ったのは、奇妙な感覚だった。この作品には、ヨルシカがいるようでいない。物語の中心にいるのは詩を書く「僕」であって、n-bunaでもsuisでもない。手紙を読み、詩を追い、音を聴いているあいだ、作り手のことは頭からきれいに消えている。言ってしまえばこれは、「ヨルシカ」という名前がなくても成立してしまう物語なのではないか。

その一方で、この作品は絶対にヨルシカでなければ生まれなかったという確信も、同時に自分の中にある。作り手が消えているのに、その作り手でなければならない。この矛盾がずっと引っかかっていた。

ほどく手がかりは、いくつかある。なぜヒッチコックが物語の終わり近くで鳴らし直されたのか。「人称」というフレームワークが照らす自分と他者の関係。そして孤独。この3つをたどっていくとあの矛盾の正体に触れられそうな気がする。

この記事では、そうやって見えてきた私なりの二人称の読み方を今回の記事の主題としたい。


二人称がリリースされたのは今年の3月上旬。もう7月になる。それだけの時間が経っても、この作品は私の中で鳴りやまず、初めて聴いた夜の高揚がいまも鮮明に残っている。

普通、音楽はもっと早く体から抜けていくものだと思う。何度か聴いて良さを飲み込むと、次の新しい曲へ移っていく。配信のプレイリストはそうやって私たちを絶えず先へ運んでいくから、半年前にいちばん聴いた曲さえ、気づけば思い出せなくなっている。

二人称はそうならなかった。理由を自分なりに探っていくと、ひとつの手触りに行き当たる。この作品は聴くたびに違う像を結ぶ。

たとえば晴る。私がヨルシカをしっかりと聞くようになったきっかけの楽曲であり、葬送のフリーレンの印象が強い。だがアルバムの中に置かれると、見事に少年が先生に宛てた詩へと変貌を遂げる。同じメロディで同じ歌詞なのにそこに流れる温度がまるで違う。封筒をもう一通開けるたびに、前に聴いたはずの曲が少し知らない顔をして戻ってくる。

一度で掴みきれる作品は掴んだ瞬間に消費が終わってしまう。もう一度聴く理由がどこにも残らない。二人称は掴んだと思うたびに指の間から何かがこぼれていって、いつまでも掴みきれない。まるで「うめき」の「砂のお城みたいでしょう」の例えのように。

だからまた聴いてしまう。この掴みきれなさこそが、4ヶ月ものあいだ鳴り続けている理由なのだと思う。

そしてこの掴みきれなさは偶然生まれたものではない。ヨルシカというバンドのいちばん奥にある設計からまっすぐ来ている。


この「作者が消える」感覚を私と同じように受け取った人がいる。あるリスナーは二人称を読み終えたあと、ヨルシカという存在がn-bunaもsuisも、すっと消えてしまったように感じたと書いていた。そこに残っていたのは作り手ではなく詩を書く「僕」であり、作品がn-bunaの手を離れた瞬間からそれは「僕」の人生なのだと。ヨルシカは物語の代弁者ではなく、そっと寄り添う伴奏者のような存在ではないか、と。

私もまったく同じ場所に立っていたので、この言葉には深く頷いた。ただ、うなずいたあとで考えてしまう。なぜヨルシカはこんなにも自分から消えたがるのだろう。

理由のひとつははっきりしている。n-bunaは顔も本名も明かさないまま活動を続けてきて、作品が作家より前に出るべきではないという考えを繰り返し口にしてきた。道端で流れてきて誰が作ったのかもわからないのに、なぜか足を止めてしまう。そういう音楽を作りたいと語ったこともある。作り手の名前や顔が作品の受け取り方を先に決めてしまうことを、彼は注意深く避けている。

でも、それだけではこの徹底ぶりは説明しきれない気がする。もっと構造そのものに踏み込んだ仕掛けがある。

たとえばsuisは、n-bunaが組み立てた物語のプロットをあえて把握しないまま歌っているという。デモと歌詞だけを渡され、正解を知らないまま自分の解釈でそれを歌う。物語の答えを知らされないからこそ、歌には作曲者の意図とわずかにずれた温度が宿る。作り手が全部を握って歌わせるのではなく、途中でわざと手を離しているのだ。

ここには3段の手渡しがある。n-bunaが感情を音とデモに託し、それをsuisが自分の解釈で歌に変え、その歌を私たち聴き手が受け取る。どの段階でも、渡した側は少しずつ後ろへ引いていく。物語の中で少年が主役になり作り手が消えて見えるのは、この手渡しの当然の帰結なのだと思う。

だから「黒子」という言葉は少し足りない気がしている。黒子はあくまで主役を引き立てる裏方で、いてもいなくても物語自体は成立する。でもヨルシカの場合、消えること自体が作品の骨格になっている。作り手が引いた分だけ空いた場所に聴き手が入り込めるようになっている。消えるのは奥ゆかしさではなく設計なのだ。

では、その消えた先で何が起きているのか。


あるリスナーがsuisのことを「ヨルシカの余白」と呼んでいた。非常に的確な表現である。n-bunaの構想を意図的に汲まないことで生まれるずれが、そのまま曲の奥行きになっている、と。この「余白」という言葉が消えた先で何が起きているのかをきれいに言い当てている。

n-bunaは言葉について独特の考え方を持っている。言葉は感情そのものではなく、感情のある方向を指し示す矢印にすぎない、というものだ。矢印の先には確かに何かがあるけれど、矢印自体はその何かではない。だから言葉で感情を定義しきろうとするとその瞬間に感情のほうが死んでしまう。

この考え方をヨルシカの作り方に重ねてみる。n-bunaがデモに込めるのは、感情そのものではなく、感情を指す矢印だ。その矢印をsuisが受け取り、正解を知らないまま自分の声で歌う。すると矢印はもう一度、少し違う方向へ揺れる。そして最後に私たち聴き手が自分の記憶や痛みでその矢印の先を埋めていく。

こうして立ち上がる感情は、誰のものでもない。n-bunaの意図でもなく、suisの解釈でもなく、私の記憶でもない。3人の間にだけそのとき一度きり現れる何かだ。掴もうとすると指のあいだからこぼれていく。前の章で書いた「掴みきれなさ」の正体はこれだったのではないだろうか。

そしてここが肝心なところだ。その感情は誰のものでもないからこそ、私のものになれる。持ち主がはっきり決まっている感情には私の入り込む隙間がない。作り手が「これはこういう気持ちの曲です」と全部埋めてしまえば、私はそれをただ受け取るしかない。でもヨルシカは途中で手を離すから、最後の余白に私が入れる。作品がn-bunaの手を離れた瞬間にそれが「僕」の人生になるというあのリスナーの言葉はこの構造をそのまま指している。

物語の中で、先生は少年にこう言っていた。観客のいない作品に上達はあり得ない、と。他者の目に触れて初めて、作品は育っていく。ヨルシカの手渡しは、この言葉を制作の仕組みそのものに組み込んでいる。渡す相手がいなければ、あの余白の感情はそもそも生まれない。

ここまで来て、最初の矛盾に答えが見えてくる。ヨルシカは、「これは私が作りました」と前に出る作り手の名前ではない。誰かから誰かへ手渡していく、その受け渡しそのものの名前なのだ。だから作り手は消えられるし、消えられるからこそ、その感情は私のところまで届く。名前が要らないほど作者が消えているのに絶対にヨルシカでなければならない理由は、ここにある。この手渡しの構造そのものが、ヨルシカという名前だからだ。

では、その手渡しで運ばれている中身、物語が本当に届けようとしているものは何なのか。


表向きの二人称は、わかりやすい物語だ。少年が詩を書いて先生に送り、添削してもらいながら、少しずつ自分の詩を掴んでいく。成長の話であり、喪失の話であり、文学からの引用に彩られた美しい書簡の話だ。けれど何度も聴き返すうちにその下にもう一つの層が透けて見えてくる。

少年は最初、自分の言葉を持っていなかった。本から借りたテーマ、先生から与えられたテーマがないと、詩が書けない。引用は言い訳だと彼は書く。誰かの言葉の陰に隠れていれば、自分の内側を差し出さずに済むからだ。この感覚は、ヨルシカがずっと抱えてきたものと地続きにある。かつての盗作という作品で、音楽を盗む男はこう言い放っていた。現代の音楽作品は1つ残らず全てが盗作だ、メロディもコード進行もとうの昔に出尽くしている、と。オリジナルなんてどこにもない。すべては誰かの模倣でしかない。これはある種の絶望の宣言だった。

二人称はその絶望に一つの答えを返す。物語の後半で先生の言葉が書き換えられる。世界は引用で成り立っていると言っていた先生が、引用は世界の一部でしかない、ただの筆先のインクにすぎないと言い直すのだ。そして少年はある瞬間に初めて自分の詩を掴む。引用するために言葉を探すのではなく、今の自分の心を表すために言葉を探してその結果引用した。本当にこれが初めてだった、と。

あるリスナーはこの転換を「模倣を経由して、自分に戻る運動」と名づけていた。的確な言葉だと思う。引用そのものは否定されていない。ただ、順番が逆転している。技法が主語だったのが、心が主語になる。借り物の言葉を通り抜けた先で、少年は初めて自分の輪郭に触れる。

別のリスナーは先生が少年に残した言葉に目を留めていた。途方もなく広い砂の海から、たった一粒の琥珀を見つけなければいけない、と。この一節は、ヨルシカのもっと昔の物語でエルマエイミーが交わした言葉とそっくり重なる。

想像力という名の海の中で、大きな言葉の砂漠から、自分の思う宝石を取り出す方法を学ぶんだよ、と。引用が溢れる世界で、人の言葉をただ共有し流していくだけでは、宝石を見つける方法はいつまでも学べない。同じメッセージが、何年もかけて別の物語の姿で繰り返されている。

ここで1つ問いが残る。なぜ借り物の言葉を通り抜けると自分に戻れるのか。ただ一人で言葉をこねくり回していても、たぶんそうはならない。鍵は、その言葉が誰かに向けられていることにある。

人は根本的に孤独だけれど、その孤独の中に閉じこもることと、孤独なまま誰かへ言葉を伸ばすことは、まるで違う。少年が自分の詩を掴めたのは、読んでくれる先生がいたからだ。宛先のない手紙は、そもそも書けない。

先ほどのリスナーは、タイトルの二人称をこう読み解いていた。

孤独の中に閉じこもることが一人称、相手を神のように仰いで遠ざけることが三人称、そのどちらでもなく、関係の中で自分を見つめ直すことが二人称なのだ、と。

少年にとって先生は、最初は遠くの神秘的な存在、つまり三人称だった。それが先生の罪や弱さを知った瞬間に、手の届く一人の「あなた」に変わる。神ではなく、対等に苦悩を抱えた人間として少年の人生に食い込んでくる。

物語の最後で少年は先生が罪を犯した人間だと知る。優しい言葉を書く先生と、罪を犯した先生。その二つはうまく重ならない。作品と作者は切り離せるのかという問いに、物語は明確な答えを出さない。代わりに少年が掴むのはこういう結論だ。自分を許すのは社会でも道徳でもなく、9ヶ月かけて書いてきたこの封筒の束なのだ、と。先生がいなければこの詩は生まれてこなかった。差し出し続けた結果として手元に積み上がった「もの」、その質量だけが彼を彼にする。

人は一人では自分になれない。もう会えない誰かへ言葉を差し出すこと、たとえ借り物の言葉でも、たとえ届かなくても、その手つきの中でだけ、人は自分になれる。

一人称の「私」は二人称の「あなた」がいて初めて成立する。ヨルシカがデビューから手を替え品を替え描いてきたのは突き詰めればこの一つのことだったのだと思う。

そしてこの主題は二人称のためにあらためて発明されたものではない。たどっていくと、初期の1曲に行き着く。2018年のヒッチコックだ。


ヒッチコックはヨルシカのキャリアの中で何度も呼び戻されてきた。2018年に世に出て、ミニアルバム負け犬にアンコールはいらないに収められ、そして今回、8年越しに二人称へとリレコーディングされた。

なぜこの曲が。理由はこの曲が置かれる場所ごとにまるで違う意味を宿すからだと思う。

単体で聴くヒッチコックは、思春期の少女の歌だ。雨の匂いに懐かしくなるのはなぜか、夏が近づくと胸が騒めくのはなぜか。少女は「先生」に、答えの出ない問いを投げ続ける。先生、人生相談です、と。そして最後に、それまでと毛色の違う一行が来る。

あなただけを知りたいのは我儘ですか、と。人生相談だったはずのものが、そのまま淡い恋の告白の形をとる。ここでの「先生」は、少女が想いを寄せる年上の誰かだ。

ところが、この曲を負け犬というアルバムの文脈に戻すと、「先生」の顔が変わる。あるリスナーは、こんな読み方をしていた。負け犬のキーワードである「アンコール」を、エイミーがもう一度音楽を始めることだとするなら、この負け犬とは、花緑青を飲んで死んだあとに生まれ変わったエイミーのことではないか、と。

アルバムは、転生したエイミーの視点で歌われている。この読みに沿ってヒッチコックを聴くと、問いを投げているのはエルマで、「先生」とは前世の自分、つまりエイミーになる。恋の告白だったはずの「あなただけを知りたい」が、もう会えない前世の自分への呼びかけへと反転する。同じ歌詞が、生きた誰かへの恋から、死んだ自分との対話へと、意味をすっかり変えてしまう。

そしてもう1つの文脈がある。盗作から二人称へと続く「私」と「先生」が手紙を交わす物語だ。ここでの「先生」は、恋の相手でも前世の自分でもなく、詩を読んで返事をくれる生きた師だ。

少年は先生とのやり取りの中で、借り物の言葉を通り抜け、少しずつ自分の輪郭を掴んでいく。これは、ここまでこの記事で追ってきた主題そのものだ。同じ「先生、人生相談です」という一行が、ここでは自分を形づくるための、対話の入り口になっている。

恋の相手、死んだ前世の自分、生きた師。同じ曲の、同じ「先生」という宛先が、置かれる文脈ごとに、まるで違う「あなた」で埋まる。面白いことに、この曲のMVで、先生には口がなく、顔の造作もほとんど描かれていない。

宛先の輪郭がはじめから空白なのだ。だからこそそこにはどんな「あなた」も入れる。これはこの記事で何度も出てきた「掴みきれなさ」や「余白」の一曲まるごとでの実演だと思う。ヨルシカが意味を一つに固定せず手渡すからヒッチコックは置かれる場所ごとに、違う相手を宿す。

n-bunaはリレコーディングされたヒッチコックに、こんな解説を添えている。

昔に作った曲の再録です。この曲から始まったアルバムであるとも言えるし、このコンセプトアルバムをいずれ作るために、前もって作られていた曲とも言えます。それを今の自分たちが演奏するならという音にしました。

n-buna(Apple Music『二人称』全曲解説)

「前もって作られていた」という言い方に私は思わず息をのんだ。

2018年のあの問いかけは8年後にこの物語へ帰り着くために、あらかじめ置かれていたことになる。ヒッチコックがずっと問うてきたのは、突き詰めれば1つのことだった。「先生、人生相談です」。

つまり、誰かに問いを差し出すことで自分を確かめるという身振りだ。宛先が恋の相手でも、前世の自分でも、生きた師でも、人は「あなた」に問いを投げることでしか、自分をつかめない。

ヨルシカがずっと描いてきた主題のいちばん最初の芽がこの1曲にあった。だから私と先生が手紙を交わす二人称の物語の中へこの曲が呼び戻されるのは、私にはどうしても必然に思えたのだ。

そしてヨルシカというバンド自体がこの「あなたへ差し出す」形をしている。n-bunaがsuisへ差し出し、suisが聴き手へ差し出す。作り手が消えるのは、その先に「あなた」の椅子を空けておくためだ。

物語が語っていることと、その物語の作られ方と、ヒッチコックという一曲が宿してきたいくつもの意味とが、すべて同じ一点を指している。誰かに差し出さなければ人は自分になれない。


この作品にはヨルシカがいないという奇妙な感覚から、この記事は始まった。

いま思えば、あの夜に私が受け取っていたのは、ヨルシカではなかった。作り手が消えた余白に立っていたのは私自身だったのだと思う。少年の詩を追いながら私は知らないうちに、自分がもう会えない誰かのことを考えていた。

手紙を読んでいたはずがいつのまにか自分が誰かへ手紙を書いていた。作品がn-bunaの手を離れた瞬間にそれが「僕」の人生になるというのは、こういうことだったのだ。

だから二人称は聴き手の数だけ違う顔を持つ。持ち主のいない感情がそれぞれの余白でそれぞれの誰かの形をとる。私が長い間この作品に魅了されているのはそのたびに違う「あなた」が立ち上がってきたからだった。掴みきれないのではなく、掴むたびに相手が変わっていたのだ。そしてこれからも聴くたびに違う「あなた」が立ち上がってくる。

あなたが二人称を聴くときにその余白に立っているのは誰だろう。あなたが言葉を届けたいと願う、もう会えない「あなた」は誰なのだろう。その問いに自分なりの答えが浮かんだとき、この作品はもう、ヨルシカのものではなくなっている。それはあなたの二人称になっている。

参考文献


インタビュー・制作背景

リスナーによる考察(note)

公式


いいなと思ったら応援しよう!