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【ヨルシカ】言葉の砂漠から、宝石を見つける旅へ――書簡型小説「二人称」感想

封筒や便箋、切手といったものは日頃あまり見かけなくなり、手書きのメモを読むことさえ珍しくなりつつある令和現代。
そんなある一日、目の前のテーブルに封筒が32通も置かれている光景というのは、かなり、奇妙だ。

封筒の中には手紙が約170通収められている。中には写真が同封されているものも。
便箋が1枚、1枚とていねいに三つ折りされている様子から、相当手の込んでいることが分かる。これを「出版」という形で実現させるのには、講談社の多大なる尽力があったに違いない。
そう簡単に手が出せない値段ではあるが、納得だ。

https://sp.universal-music.co.jp/yorushika/nininshou/

ヨルシカの書簡型小説、「二人称」。
大きな紙袋の中に収められた封筒32通には、学校へ行かず詩を書く「青年」と、文学について教えてくれる「先生」との文通が記されている。

青年が詩を書き、
先生が添削・返信をする

というやり取りの記録だ。

「チラシを拝見しました。もしよろしければ、僕の作品を添削していただけないでしょうか?」

そしてデジタルリリースのアルバム「二人称」。
青年の書いた詩が、22の楽曲となって世に出ている。
読者は手紙を読みながら、青年の書いた詩を目で追いながら、それぞれの楽曲を味わうことができる。

それだけではない。特筆すべきは、圧巻の物語構成だ。
手紙を読み進めていくと、徐々にその書きぶりに不自然な点が現われ始める。
読者を驚かせる仕掛け、手紙の外で何が起こっているのかと想像させるフック、ミスリード、何気ない言葉に隠された伏線の数々。

私も序盤の方で違和感を覚え、「先生の正体」に気づくと少し高揚した。
しかし期待はさらに裏切られる。n-bunaさんはもう一段階の仕掛けを用意していた。
読後、物語のすべての整合性が合うと、また最初から楽しめる仕組みになっており、「考察できた」と高を括っていた自分は、ぐうの音も出ない。
彼の筋書きにひたすら踊らされる、ぜいたくな時間だった。

重大なネタバレは避けて書いているので、よかったらこの感想を読んでいただけると嬉しい。


オマージュと、文脈の無い引用

これは主人公の青年が抱く「恐怖」の話。青年は文学からの引用ありきでしか詩を書けないことに悩んでいた。

たとえば「花も騒めく」という曲では、白妙・雲・袖という言葉が使われており、万葉集から着想を得ていることがわかる。
文学に詳しい先生は、もちろん青年の引用元を見抜く。

まそ鏡照るべき月を白たへの雲か隠せる天つ霧かも

万葉集 第7巻 1079番歌

青年は、文学に精通している先生に勧められた本やテーマから、引用し、詩を書きあげていく。その姿は、これまで"文学オマージュ"の印象で知られているヨルシカの楽曲と重なる。

「魔性」の「唐紅に水くくれ」という歌詞も、在原業平からの引用。
そして青年は「魔性」の歌詞の中でこんなことを言っている。

オマージュと、文脈のない引用を見間違える

魔性

先生が言うには、世界の言葉はすべて"借り物"で"何かのオマージュ"に過ぎない。オリジナルなんてもう、どこにも存在しない。だからこそ、ただの引用ではなく「創作」をやるには、どうしたらいいのか……。

物語では、青年が「千鳥」という曲を書いたとき、一つの答えに辿り着いている。
青年はそのとき、溢れ出す想いを書き留めようと、メモにペンを走らせる。
脳裏に駆け巡ったのが、宮沢賢治の「風がおもてで呼んでゐる」だ。
それまでとは違う、原稿用紙のマスから飛び出すほどの疾走感で書かれた千鳥の詩は、青年が殻を破った瞬間なのだろうと理解した。

引用のための引用からの脱却。初めて、自分の気持ちを表現するために引用をした青年。このテーマはオマージュを多用するn-bunaさんが(昔の)自分に向けて書いたものだと思われたし、私たちへのメッセージとも取れた。

私はよく考える。
自分の表現はn-bunaさんやほかの表現者からの借り物、それに無駄な味付けをしたものに過ぎないのではないか。それを果たしてオリジナルと言うか、創作と言えるか。n-bunaさんが朔太郎から言葉を借りてくるときも、この気持ちに近しいのだろうか。

いっぽう、青年が「千鳥」を書いたときのあの浮き立つような感覚は、身に覚えがあった。
とにかく、言葉が滑るように浮かんでくるあの瞬間だ。羽が生えてどこにでも飛べそうな全能感、思わずマス目を忘れるほどの力強さ。
今すぐにでもこの想いを言葉にしたいと手を走らせる、病的な衝動に駆られるあれだ。

あの感覚を大事にすべきなのだ。青年と自分を重ね合わせて、言葉に対してまた向き合えるような気がした。

先生はこんな言葉を青年に残している。
「君はこれから、途方もなく広い砂の海から、たった一粒の琥珀を見つけなければいけない」

かつて、(ヨルシカの物語中の主人公)エイミーがエルマに残したのにも似た言葉がある。
「今、君は想像力という名前の海の中にいる。大きな言葉の砂漠が広がる。君はそこから、自分の思う宝石を取り出す方法を学ぶんだよ、エルマ。」

一貫してn-bunaさんが伝えたいメッセージ性が表れている。
引用の溢れる世の中で、人の言葉をリポスト・シェアするだけでは、宝石を見つけ出す方法を学ぶことができない。

自らのある意味「獣性」とも言える生々しい感情を、醜いものを、曝け出そうとする勇気を身に着けたい。青年の書いた「千鳥」の詩は、また私を遠くへ連れて行ってくれた。
もっと飛びたい、色んな景色を見たい、宝石を見つけたい、そう思った。


ヨルシカはこれまで、私にとって不定形の体験であった。
1stフルアルバム「だから僕は音楽を辞めた」から続く、独創的な音楽アルバムの形。
・木箱に収められた手紙と写真
・日記帳と写真
・小説とカセット
・NFTアートを意識した音楽画集
そして、今回の書簡型小説。

多くのアーティストはタイアップやシングル曲のリリースありきで、その詰め合わせを"アルバム"として数年に1回出す。

しかしヨルシカはある意味逆を行っている。
「物語のプロット・アルバムコンセプト」が先行し、タイアップ曲はタイアップとしての役割を果たしながらも、ちゃんとアルバムコンセプトに則っており、違和感なく収束する。
n-bunaさんが構築するプロットのブレなさ、一貫性。これがヨルシカの土台を支える強みだ。

そしてそこに掛け合わさるのがsuisさんの表現力だ。
suisさんは、n-bunaさんの構想(物語のプロット)を意図的に把握しないようにしているらしい。デモ音源と歌詞をもらって、suisさんの解釈で歌うそうだ。

彼女は、ヨルシカに無数の解釈を生み出す「余白」だ。
敢えてプロットの意図を汲まないことで生じる、"ズレ"によって楽曲は深みを帯びるように思う。
ヨルシカの音楽はいつも、開かれている。


他にもたくさん書きたいことはあったのだが、話題自体が物語のネタバレと関係してきてしまうため、今回は省略した。
一方、「二人称」のデジタルアルバムの方は、また1曲ずつ感想を書きつづりたいと思う。
この作品を手に取ってくれる人が少しでも増えてくれれば嬉しい。
文学や詩の意味は分からなくてもいい。すべて貴方が感じたことが正しい。

お読みいただきありがとうございました。


●二人称 公式サイト(試し読みできます)

●二人称 Album Trailer

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