ヨルシカ 『二人称』
書簡型小説「二人称」を読み終えて。
デジタルアルバム「二人称」を聴き終えて。
ヨルシカという、n-bunaさんやsuisさんという存在がなくなったように感じられた。
もちろん「二人称」の著者はn-bunaさんで、歌を歌っているのはsuisさんで、これはヨルシカの作品としての「二人称」だ。
けれどそこには僕が存在していて、僕の詩があって、先生の言葉があって、封筒の束がある。
文通の跡が、時間の流れがある。
そこには他の何者も入り込む隙間はなくて、ただ僕の主観の世界が広がっているだけで。
suisさんの歌声も、n-bunaさんの思考も感情も演奏も、その他ヨルシカとなる全ての要素も、この物語の中でそれは“僕”の感情で、葛藤で、行動で、言葉なのだ。
「二人称」という作品がn-bunaさんの手を離れた瞬間からそれは“僕”の人生であって、著者であるn-bunaさんでさえ、その人生に触れることはできないのだろうと思う。
言ってしまえば、ヨルシカは「二人称」という作品に於いて、黒子のような存在ではないか。
語弊があるかもしれないが、私はそう感じた。
これまでヨルシカは、エルマとエイミーや、音楽泥棒とその妻など、ある特定の人物らの人生が描かれた作品を生み出している。
「二人称」もその例に漏れず、僕と先生の人生が描かれているが、これまでの作品と違う部分があるとすれば、それは“やり取りがあること” ではないだろうか。
エイミーもエルマも、それぞれが手紙と日記帳に互いへの想いを書き綴っているが、それを互いが生きている間に伝え合うことはなかった。音楽泥棒についても、描かれているのは妻亡き後の、ただ一人孤独を抱える彼の人生だ。
一方的に、伝える相手が傍にいないまま、言葉にしていることが多かったように思うのだ。
しかし、「二人称」では僕と先生の“今”のやり取りが描かれている。
距離こそ離れているが、今を生きているふたりが、言葉を交わし合っているのだ。
だからこそ、ヨルシカは代弁者ではなく、伴奏者としてひっそりと存在している。
なくてはならないけれど、決して自らを前に出そうとはしないような、そんな存在として。
今までにない表現を聴いたような気がして、新しいヨルシカの一面を見たような気がしている。なのに、その楽曲たちをあくまでも作品の伴奏のように受け取っている。
すごく不思議な心地だが、これが初めて「二人称」に触れて得た感覚だった。
その感覚は、今後楽曲を聴いていくうちに変化していくのかもしれないし、二度と訪れないものかもしれない。
そう思うと、じっくりと作品に向き合えたあの時間は、とても貴重なものに思えてくる。
また彼らを思い出しながら、「二人称」を聴き返したいと思う。
