ヨルシカ「二人称」考察
ドーパミンによって毒された脳を一時的であれ正常に戻してくれたのはヨルシカだった。
紙に、文字に向き合うのはいつぶりだろう。もう随分と本を読んでいない。こう見えて昔はよくnoteで文章を書いていた人間だったのだが、いまではすっかり筆に埃が被るようになってしまった。
ヨルシカ、書簡型小説「二人称」。
物語云々以前に、紙の感触、折り畳まれた原稿用紙を開く音、そして、丁寧に封筒に戻していく所作それ自体が心地良い。
久しぶりに筆を取った。結局僕はいつも誰かに感化されて生きている。この文章だってヨルシカの真似事に過ぎない。
というわけで、心の奥底に眠る内向型直感を取り出して、考察とやらを綴ってみることにする。
残念ながら僕は文学には詳しくないし、ヨルシカへの理解度にも自信はない。まあ、少年の詩の文学的解説は「先生」が担っているわけだし、物語の解釈に正解はないから……(三点リーダーは二個合わせて使うのが一般的らしい)と、自分に保険を掛けることにする。
発売して間もないので、あらすじは省略する。
以下、ネタバレ注意。
「芸術至上主義」と「盗作」
本作は、「芸術至上主義」という理想論、「盗作」で語られた現実、その葛藤を乗り越えて作られた物語という印象を受ける。とりあえず、「芸術至上主義」と「盗作」について整理していきたい。
ヨルシカと「芸術至上主義」
「ヨルシカを一言で表せ」と言われれば、僕は真っ先にオスカーワイルドの「芸術至上主義」が思い浮かぶ。
エルマとエイミーの物語ではとりわけ強調されて出てきた概念である。
神様について。
良い作品の中には神様が宿る。 何かものを作る度に、見えない何かに動かされているような錯覚を覚える。
それはもしかすると虚無感だったり、悲しさだったり、喜びだったりの感情や感傷の類いが筆を進めているだけなのかもしれない。でも僕はそれを神様の所為だと考える。
心臓から指先を伝って、この長方形の紙に下りていく。その瞬間が僕が好きだった。
君もきっとそう思うだろう。
ただ一つ、勘違いしちゃいけないのは、神様は作品に宿るわけであって、 僕たち人間に宿っている訳じゃない。そう思うのは、創作家の傲慢だ。
僕はオスカーワイルドに倣う芸術至上主義だからね。 創作なんてのは一種の宗教なんだ。僕の言葉の中にいつも君がいるのと全く同じだよ。
n-bunaさんも、理想論として芸術至上主義を支持しているのは何となく察しが付く。
本名や顔を公開しないことは勿論、度々後書き会員向けのコラムやら何やらで自らの芸術至上主義的な思想を零している。
「道端で流れてきた、誰が作ったのか全く分からないのだけど、何となく惹かれる音楽。誰が描いたのか分からないけれど、思わず足を止めて惹きこまれるような絵。僕はそういう音楽を作りたい」的なことをいつしか彼は言っていたような気がする。
「二人称」における芸術至上主義
「二人称」において、冒頭、先生が正岡子規に倣い、芸術至上主義的な価値観を支持していることが示唆されている。
誰かに習い、先生の価値観に合わせた手直しをしながら書くことは芸術ではなく、芸事です。生花のようにお稽古をつけるようなあり方はきっと詩作には似合わない。勿論、芸事であることをただ悪だと言い切るのはあまりにも乱暴で、浅はかでしょう。お稽古だと嫌味な書き方もしましたが、それでも全ての表現は、高尚、低俗すら問わず、等しく等価値であるべきだからです。
先生の真実を知った少年が当初自分に言い聞かせるように綴った言葉にも、芸術至上主義が反映されていると感じる。
僕にとって先生は、ひらめきと知識と新しい何かをくれる人で、先生がどういう人なのかはきっと関係がありません。
僕にはまだ、これをどう判断していいのかわかりません。作品に罪はないとよく言いますよね。僕たちの書く文章と、作品の境目はどこにあるんでしょうか。美術館は美術家の、他人の日記を展示していますよね。この文通だって、第三者の目に触れた瞬間、美的判断を、その公益性を求められる代物になってしまうのかもしれないじゃないですか。創作と現実の区別は僕にはつけられません。何が言いたいんだろう。だから、僕は先生の罪と先生の言葉を切り離せると思いたいのです。
少年は先生が"神様"であるかどうかを考慮せず、先生の紡ぐ言葉そのものに価値を見出そうとしているわけである。
しかし、そんな理想論である芸術至上主義に相対する存在が「二人称」において強調されている。
それが、「盗作」である。
ファンにとっては釈迦に説法だろうが、一旦説明を入れよう。
ヨルシカ「盗作」
俺は泥棒である。
往古来今、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。
金を盗む訳では無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。
俺は、音を盗む泥棒である。
それはメロディかもしれない。装飾音かもしれない。詩かもしれない。コード、リズムトラック、楽器の編成や音の嗜好なのかもしれない。また、何も盗んでいないのかもしれない。この音楽達からそれを見つけるのもいい。糾弾することも許される。
客観的な事実だけなら、現代の音楽作品は一つ残らず全てが盗作だ。意図的か非意図的かなど心持ちでしかない。メロディのパターンもコード進行も、とうの昔に出尽くしている。
それでも、作品の価値は他者からの評価に依存しない。盗んだ、盗んでないなどはただの情報でしかない。本当の価値はそこにない。ただ一聴して、一見して美しいと思った感覚だけが、君の人生にとっての、その作品の価値を決める。
「盗作品」が作品足り得ないなど、誰が決めたのだろう。
俺は泥棒である。
「盗作」の物語もまた、一部芸術至上主義的な価値観が反映されているものの、ここにはある種の開き直り、自虐、インポスター症候群的なニュアンスを強く感じる。
ヨルシカの音楽は文学からの引用が多い。
作曲の時代はクラシックで終わったとも言われる。
自分は寄せ集めの泥棒でしかない、という感覚がもしかするとn-bunaさんにもあるのかもしれない(やけにライブツアーでn-bunaさんが発した"寄せ集めの盗作"という言葉が強く印象に残っている)。
「二人称」における盗作
さて、二人称において語られる"盗作観"は何だろうか。
これは先生と少年、それぞれに見られるものである。
先生は「世界は引用で成り立っています(19-9)」と述べた。
彼の言葉には、完全なオリジナルは存在せず、言語も技法も過去の蓄積の上にあり、創作というのは本質的には再構成である、という「盗作観」が反映されている。
また、少年は引用によって自己を守っていた。
僕はテーマがないとろくに物が書けません。本から手に入れたテーマ、先生に与えられたテーマ、日常生活という環境に与えられたテーマ。当たり前の話だと言うかもしれませんが、僕の場合はそれがより、ひどい状態にあります。自覚したのは最近です。僕には自分の言葉がありません。今、図書館が心地好いのも他人の言葉があるからです。引用は言い訳です。誰かの言葉を下敷きに、文脈によって自分の言葉を補強する、これを繰り返してしまう。
つまり、少年からすると自分の詩というのは完全なオリジナルは生み出せない、他人の言葉を盗んでいるだけの盗作であると言いたいわけである。
本作の主題
さて、ここからが物語の核心になってくる。
本作を通して感じた洞察を以下に整理していく。全て、芸術至上主義、および盗作のいずれかへの別解を提示するものになる。
①創作とは、模倣を経由して、自分に戻る運動である
これは、「盗作」で語られた世界観へのひとつの別解になると考えている。
先ほど引用した、先生の
世界は引用で成り立っています。
だが、この文章、後半でもう一度修正された形で出てくる。
世界は引用で出来ている。けれど引用は世界の一部でしかない。それは、ただの筆先のインクにしか過ぎない。
世界が引用で出来ているという事実、引用そのものは否定されていない。
ただ、それが世界を構成する全てではない。
初めてでした。引用をするために言葉を探すんじゃなくて、今の僕の心を表すために、言葉を探して、引用をしたんです。本当に、これが初めてだったんです。
順番が逆転する。引用という技法が主語になるのではなく、心が主語になる。こうして初めて、少年は自立する。
すなわち、創作とは、
「模倣を経由して、自分に戻る運動」
であると本作は論じている。
「盗作」で自虐的に語られた引用それ自体は否定されていないものの、自分の内側を通って初めて、引用に血が通うようになるのだ。
②芸術至上主義の再定義
ヨルシカの前提条件とも言える「芸術至上主義」だが、この物語は私たちに問いを投げかけている。
作品に罪はないと言えるのか?
作者と作品は切り離せるのか?
少年は切り離したいと頭では考えていても、感情では切り離せないでいる。
先生は、どんな人なんですか?あれを知った時から僕はずっと考えています。そうして、混乱します。優しい言葉を書く先生と、罪を犯した先生の想像が重なりません。先生と先生の言葉は切りはなせるはずだと言っておきながら、僕はずっと、言葉と人間はひとつであるように感じていました。
私たちだってそうだ。
芸術至上主義を掲げ、アイドル化した権威主義的なバンドを心の中で軽蔑しながらも、ヨルシカという名前があるからその音楽を聴いている。この本を読んでいる。
この矛盾は、作者にとっても、読者にとっても苦しいものである。この物語は、その矛盾に対して明確な答えは出していない。
代わりに出したのは、「結果として生まれたものが答えになる」という少年の結論である。
今、僕の手元にあるのは、この手紙の枚数、質量という結果だけで、僕が費やした時間の価値に他の要素が関係あることなんてきっとない。なんて言ったらいいんだろう、ただ、結果なんです。僕の目の前にあるこの封筒の重みは、僕がこの9ヵ月間書いてきた詩は、先生がいなかったら、きっと生まれてこなかったんです。(中略)だから先生、ありがとう。先生を許すのはきっと、社会じゃなくて、人でもなくて、この封筒の束です。
社会的、法的な赦しでもなく、道徳的な正解でもない。
結果として生まれたものが答えになる。
封筒の束という創作の積み重ね、つまり、作品が正義を証明するわけではなく、作品を通した関係が人間を、現実を変える。
芸術至上主義それ自体もまた、盗作と同様に否定されていない。
ただ、倫理と無関係ではいられない芸術観へと昇華されている。
③「二人称」というタイトル
続いて、タイトルである「二人称」について考察していく。
文学的に言えば、
一人称=私
二人称=あなた
三人称=先生
であり、本作に「あなた」という単語は出てきていない。それなのに、何故本作のタイトルは「二人称」なのだろうか。
まず、本作は夏目漱石の「こころ」のオマージュであると考える。
先生に不思議な魅力があること、先生との対話があること、実は先生は罪を犯し懺悔に苦しんでいる人間であること。
「こころ」と「二人称」には多くの共通点がある。
「こころ」は基本的には一人称視点で物語が進行するが、三章だけ先生からこちらへ語りかけてくる、いわば先生を二人称として扱う。
ある意味神格化していた先生という存在を、弱さを持ったいち人間として扱っている訳である。
その点も「二人称」は同じで、最初、少年にとって先生は三人称的存在になっている。
遠く離れた、神秘的で、作品を評価する権威性を持っていて、文学に精通している人。
しかし、真実を知った瞬間に、先生は急に「先生」ではなくなる。
家族であり、罪を犯し、祖母を死なせ、自分の人生に関わってしまった存在になる。
つまり、観察対象(第三者)から、人生に食い込んでくる存在(第二者)になる。
神格化された先生を、弱さも罪も含んだ「あなた」として受け止める。
これがまさに、芸術至上主義の矛盾を乗り越える瞬間とも言える。
芸術が神であるならば、芸術家は人間である。
その距離の変化をタイトルが象徴しているかのように思われる。
これは現実世界でも同じで、神格化された存在が弱さや罪を零した時、僕たちは手のひらを返して石を投げつける。
でも、彼ら彼女らは、先生でもなく、神でもない。
対等な、苦悩や罪を抱えたいち人間であるのだ。
④母が何を表しているのか
正直に言うと、ここが一番頭を悩ませた。
犯罪者と文通するという事実が少年を傷つけるかもしれないがために、ある種の愛として母がその事実を隠蔽したのは理解できるものの、これは何を喩えているのだろうか?
真実を削除し、届く前に検閲をする存在。
これはもしかすると、「編集者」や「社会」そのもののメタファーに近いのかもしれない。
芸術至上主義は、作品だけが評価されるべきだと言う。
しかし現実には、作品は必ず誰かのフィルターを通って届く。
僕たちの中にも、都合の良い場所だけを切り取って解釈する心の中の「母」が潜んでいる。
少年は最初、加工された安全な先生を向き合っていた。
しかし真実を知ったことで、フィルターの外側にある生身の人間と向き合うことになる。
母は、悪者ではない。
守るという名目で、真実を編集しただけである。
でも、先生が話すように、痛みなしに成長は生まれない。
貴方の息子はこれだけ苦しんでいるんです。これは持って生まれた劣等感じゃない。彼は他人や社会と関わることへの恐怖を詩で埋めているだけです。そして私たち大人が、今も、彼を痛みのない無菌室に閉じ込めようとしているんです!
少年の自立は、大人たちが恐れていた真実という痛みを受け入れて初めて起こったのでだった。
先生の言葉は僕の道標でした。でもそれを頼りにしているままで、本当に僕は自分の言葉を見つけられるでしょうか?知ることはただ知っているだけでは駄目だと先生は言いました。まさに、今の僕はただ言葉を知っているだけです。道標を見て歩くだけじゃ、行き先のわからない旅は出来ないんです。もう僕は一人で歩かないといけない。それが、わかります。
⑤観客のいない作品に上達はあり得ない
最後に、自分が最も心を動かされた部分を考察してみる。
きっと、こうして詩を送るのは勇気のいる行いだったと思います。これは自分の本当の内側を見せるのと同じことですから。だから、ありがとう。また是非詩を送ってください。観客のいない作品に上達はあり得ませんから、他者の目線はきっと君のためにもなると思います。
この部分と、
君には、君自身に価値があるとはまだ思えないかもしれない。誰かの作品を羨み、他人の技巧を羨み、相対的に自分を貶めることをやめられないかもしれない。でも本当は逆です。そこには誰もいない。特別な場所にいる人間なんて一人もいないんです。それは才能の多寡でも、社会の立ち位置でも、人格や人となりでも決まらない。君は人間単位で見れば孤独です。でもそれは、同時に全人類にも当てはまります。
この二つは、一見矛盾の関係になっている。
人間は孤独であるが、同時に創作は孤独では成立しない。
少年は「引用」で自らを守ってきた。引用とは他人の言葉の中に隠れる技法である。
しかし、本当の孤独とは、
他人の言葉の陰に隠れず、自分の言葉を他者に向けること
にある。
この物語は、孤独であることを否定はしていないものの、(不登校によって喩えられた)孤独の中に閉じこもることを否定しているのだ。
以上を踏まえると、
一人称:孤独の中に閉じこもること(距離が近すぎる)
三人称:神格化すること(距離が遠すぎる)
二人称:関係性の中で自分を見つめなおすこと
と整理できる。
ここでもタイトルが回収されているのだ。
まとめ
本作は、①技法を超えて主体に戻り、②芸術の神話を解体し、③他者を人間として引き受け、④痛みの中で成長し、⑤孤独の中で関係を選ぶ物語であると考えた。
神様ではなく、人間が言葉を紡いで出来上がった物語であるともいえる。
いい物語だった。
僕を許していないのは、社会でもなく、ヨルシカでもなく、僕だけなのかもしれない。
おしまい
p.s.
九割方意図せずにだとは思うけれど、n-bunaさんと親しかった、消えてしまった某アーティストに対してのメッセージにもなっていて、こんなことを言っていいのか分からないけれど、被害者でも加害者でもない第三者がこんなことを言える立場でもないけれど、
正直言って、嬉しかった自分がいる。

