#炭酸
弘美は風呂から上がると、ドライヤーを早めに切り上げてリビングのドアを開けた。
クーラーの冷えた風が熱のこもった体に心地よくて、思わずふうっと息を吐く。40歳を過ぎてから、暑さがすっかり苦手になっていた。
冷たい水を飲もうと冷蔵庫を開けた弘美は、見慣れないペットボトルを見つけた。夫の和也は甘いジュースは飲まないし、この家には自分たち夫婦と飼い猫のミイしかいない。
「ねえ、このキリンレモンどうしたの?」
ダイニングテーブルのいつもの席、目を細めてスマホを見ていた和也は、顔を上げて小さく笑う。
「ああ、それ、なんかコンビニのクジで当たった。弘美が飲んでいいよ」
甘い液体が喉を通ることを想像しただけで、弘美は自分の身体のラインが更に緩むような気がした。ミネラルウォーターをタンブラーに注いで一気に飲むと、カウンターに置いておいたハンディファンを手に取る。スイッチを入れると、ぬるい風が頬に当たった。
ふと二十年以上も前の夏が弘美の脳裏に蘇った。
今よりももっと青い空と眩しい太陽。日焼けも人目も気にせずに肩や脚を出し、素足にサンダルで歩く自分と、顔も思い出せない元彼。
彼は砂利道の脇の自動販売機で飲み物を買う。チャリンというお釣りの音と、ペットボトルが落ちるガシャンという音。
彼は先に一口飲んで、弘美に「ん」とボトルを渡す。無遠慮に差し出されたボトルは、もうびっしょり水滴が付いている。口に含むと、さっき買ったばかりなのに何だかぬるくて、気が抜けて、甘ったるい。蝉がうるさいくらいに鳴いている。弘美がボトルを返すと、彼はまた一口飲んで笑う。日に焼けた彼の額に、汗が一筋流れた。
弘美はハンディファンを消して、カウンターの元の位置に戻した。リビングのソファで眠っていたミイが、顔を上げて辺りを見回すと、また体を丸めた。
弘美は夫のタンブラーを棚から出して、自分のタンブラーと並べて置いた。氷をたっぷり入れてキリンレモンを注ぐと、シュワッという音が広がり、細かい泡が弾けた。弘美は冷蔵庫から四角い容器を取り出し、スライスしてあったレモンを一枚ずつ飾るように載せた。
弘美がタンブラーを和也の前に置くと、和也は弘美の顔を見上げてから、レモンのスライスに視線を落とした。
「お、何これ、おしゃれだな。飲んでいいの?」
弘美が頷くと、和也は嬉しそうに一口飲んで、ぷはっと息を吐いた。
「うまいよ、これ。甘過ぎないし。大人の味だ」
弘美も向かいの席に座って一口飲んでみる。レモンの酸味とほろ苦さのおかげで、口の中には甘さよりも爽やかさが残る。弘美が思わず微笑むと、目が合った和也は「な?」と笑った。
氷を多く入れたからだろう、炭酸の泡はタンブラーの中で、さっきよりも少しだけ優しくふつふつと弾けていた。
#風まかせ文芸部 様 「#炭酸」
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