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「手のひらの宇宙」長編小説に挑戦してみます。第1章 心臓と同じ速さで鳴るものについて

第1章 心臓と同じ速さで鳴るもの

 朝の七時四十分の電車には、この街のほとんど全員が乗っている。

 少なくとも私にはそう見える。ホームの階段を降りてくる人たちは、みんな同じ速さで歩いている。歩幅も、腕の振りも、だいたい似ている。誰も指揮をしていないのに、全員が同じ拍子で動いている。

 その拍子に、私は乗れない。

 半拍だけ遅れる。ほんの半拍だ。それでもその半拍のせいで、私はいつも人にぶつかりそうになるし、ドアが閉まる直前に駆け込むことになるし、切符を入れる場所を探して改札で立ち止まる。後ろで誰かが小さく息を吐く音が聞こえる。私は謝る。謝らなくていいところで謝る癖が、たぶん中学生のころからついている。

 六月の月曜日。私は大学一年生で、名前は長谷川紬という。十九歳になったばかりで、この街に来て三ヶ月で、まだ一度も、この街と同じ拍子で歩けたことがない。

              ◇

 一限の「基礎演習」は、二十人が円形に座らされて、順番に何か喋らされる講義だった。内容は何でもいいことになっている。何でもいいと言われるのが、私にはいちばん難しい。

 その日、私の三つ前に座っていた深山玲が、日曜日にテレビで見たサッカーの話をした。

 先月開幕したばかりのリーグの話だ。開幕戦の日、国立競技場が花火と紙吹雪で埋まっているのを、私も家のテレビで見た。フィールドの選手たちはやたらと足が速くて、髪が長くて、外国人の名前がたくさん出てきた。街のスポーツ用品店には、青と赤と緑のユニフォームが並んでいる。駅前の文房具屋にまで、選手のカードが吊るしてある。

 玲は昨日の試合の後半三十分について、身振り手振りで三分間喋った。教室が少し明るくなった。私が喋ると、少し重くなる。それは私の気のせいかもしれないけれど、たぶん気のせいではない。

 順番が回ってきて、私は先週読んだ本の話をした。声が小さいと言われて、もう一度言い直した。二度目も小さかったと思う。

 講義のあと、玲がノートを閉じながら言った。

 「紬っていつも、なんか、遠くから喋るよね」

 「遠くから?」

 「うん。ガラス越しっていうか。届いてはいるんだけど、なんか一枚あるの」

 「そうかも」

 「まあいいけど」と彼女は言って、鞄を肩にかけた。「昼、学食行く?」

 悪気はない。彼女はそういう人だ。思ったことをそのまま言って、それで人を傷つけたりしない。実際、私は傷つかなかった。ただ、うまいことを言うと思った。

              ◇

 学食で日替わり定食を食べた。三百八十円で、その日は鶏の唐揚げだった。

 玲はサークルの人間関係の話をした。彼女はすでに二つのサークルに顔を出していて、両方で名前を覚えられている。私はどこにも入っていない。

 「入んないの?」

 「考えてます」

 「三ヶ月考えてる」

 「そうですね」

 彼女は笑って、味噌汁を飲んだ。私は相づちを打ちながら、自分がちゃんと相づちを打てているかどうかばかり気にしていて、話の中身はほとんど頭に入らなかった。そういうことが、私にはよくある。

 窓の外で、学生が三人、サッカーボールを蹴っていた。芝生ではなくて、コンクリートの上だ。ボールが跳ねて、植え込みに入って、一人が取りに行った。

              ◇

 午後の講義はなくて、三時前に大学を出た。

 電車に乗ると、この時間でも席は空いていない。私はドアの横に立って、鞄からウォークマンを出した。

 私が音楽を聴くのは、音楽が好きだからというより、たぶん、世界の音を一枚遮るためだ。ヘッドフォンをつけると、車内の音が遠くなる。誰かの咳も、アナウンスも、隣の人のイヤホンから漏れる高い音も、全部が水の向こう側みたいになる。

 ただし、曲は選ばなければならない。

 速い曲は駄目だ。速い曲を聴くと、心臓が曲に追いつこうとする。すると、世界に追い立てられているときと同じことが、頭の中でも起きる。逃げ場がなくなる。

 遅すぎる曲も駄目だ。周りの人がみんな早送りに見える。自分だけが取り残されているみたいで、これはこれで具合が悪い。

 ちょうどいい速さがある。自分の心臓と同じ速さで鳴っている曲。それを聴いているあいだだけ、私は世界とうまくやれる。半拍の遅れが、消える。

 その日入っていたのは、レンタル屋で借りたCDから録ったテープだった。いま街のあちこちで鳴っている曲だ。喫茶店でも、コンビニでも、駅前の電器屋の店先でも、同じ曲が流れている。悪い曲ではない。ただ、私の心臓には少し速かった。

 二曲聴いて、止めた。

              ◇

 電車を降りて、商店街を歩いた。

 肉屋があって、クリーニング屋があって、シャッターの降りた元・書店があって、パン屋がある。パン屋の名前を、私は知らない。看板を見れば書いてあるのだろうけれど、見上げたことがなかった。

 おもちゃ屋の前で、小学生が三人、しゃがみこんでいた。ガラスケースの中に、カードが並んでいる。サッカー選手のカードだ。一枚百円くらいのものだと思う。三人は真剣に指を差して、何か言い合っていた。

 その隣の店には、テレビゲームのソフトが並んでいる。白い箱が積み上げてあって、値段が手書きで貼ってある。中古で四千八百円。新品で九千八百円。子供がひとり、その値段を見上げて、しばらく動かなかった。それから、何も言わずに帰っていった。

 私はそういうものを、ぼんやり見ながら歩いていた。

              ◇

 角に、レコード店がある。

 「アンダーグラウンド・ライフ」という名前で、これは覚えている。名前が長くて、少し変だからだ。ショーウィンドウにはジャケットが三枚並んでいて、そのうち一枚は日に焼けて何も見えなくなっている。

 いまどきレコードを売っている店を、私はほかに知らない。街の音楽屋はどこもCDに変わってしまった。この店だけが、まだ黒い円盤を並べている。

 私はこの店の前を、たぶん七十回くらい通っていた。

 その日、初めて中に入った。

 特別な理由はない。強いて言えば、月曜日で、玲に遠くから喋ると言われて、テープの曲が速すぎて、それくらいのことだ。

              ◇

 ドアを押すと、上のベルが鳴った。埃と紙とビニールの匂いがした。

 店は狭かった。木の箱が四つ並んでいて、その中にレコードが背中を向けて詰まっている。奥のカウンターに、緑色のコートを着た男の人が座っていた。六十歳くらいだろうか。もっと上かもしれない。六月なのにコートを着ていた。彼はスポーツ新聞を読んでいて、私が入っても顔を上げなかった。

 私は箱の前に立って、指でレコードを一枚ずつ倒していった。

 知らない名前ばかりだった。半分は英語で、半分は読めない。私はジャケットの絵を見ていた。海の写真。誰かの後ろ姿。ただの青い四角。

 どれくらいそうしていたのか、わからない。

 「探し物かい」

 顔を上げると、彼は新聞を畳んでいた。一面に、髭を生やしたサッカー選手の写真が載っていた。

 「いえ」と私は言った。「べつに」

 「べつに、で三十分いる人は珍しいよ」

 三十分も経っていたのか、と思った。

              ◇

 「あの」と私は言った。自分でも何を言うつもりなのかわからなかった。「速さって、選べるんですか」

 彼は少し黙った。それから、意味を取り違えたようには見えない顔で、こう言った。

 「テンポのことかい」

 「たぶん」

 「一分間に何回鳴るか、って数え方がある。BPMっていうんだ」

 彼はカウンターの下から一枚のレコードを出して、ターンテーブルに乗せた。針を落とすと、少しノイズがして、それから曲が始まった。

 速くはなかった。遅くもなかった。

 「これは百二十五だ」と彼は言った。「速いと思うだろ。でも、人間が気持ちよく歩けるのがこのへんなんだよ。心臓の倍。二拍で一歩」

 「二拍で一歩」

 「そう。だから歩ける。歩けるものは、だいたい踊れる」

 私は立ったまま、それを聴いていた。自分の呼吸が少しゆっくりになっているのが、自分でわかった。

 「歩くのが世界と合わない人は、どうしたらいいんですか」

 言ってから、質問が間抜けだと気づいた。彼は答えなかった。針が溝を走る音だけがしていた。

 曲が終わって、彼が針を上げた。急に静かになった。

 「そのうちわかるよ」と彼は言った。それだけだった。彼はまたスポーツ新聞を広げた。

              ◇

 何も買わずに店を出た。六月の夕方は長い。まだ明るかった。

 途中の電器屋の店先で、テレビが五台、同じ画面を映していた。夕方のニュースだ。音は消してあったけれど、映っているのがサッカーの映像だということはわかった。前を通る人が二人、足を止めて見上げていた。

 私も少し見た。

 選手たちは走っていた。全員、速かった。誰も半拍遅れていなかった。

              ◇

 アパートに帰って、パスタを茹でた。百グラム。袋には九分と書いてあるけれど、私はいつも八分でざるにあける。硬めのほうが好きだった。オリーブオイルと、にんにくと、鷹の爪。作るのに十五分かかって、食べるのに七分で終わる。

 洗い物を済ませてから、明日着るシャツにアイロンをかけた。

 母はこの習慣を変だと言う。十九の女の子が毎晩アイロンをかけるなんて聞いたことがない、と。たぶんそうなのだろう。でも私にはこれが必要だった。皺のある布に、熱と重さをかけると、皺が消える。かけた分だけ、確実に消える。世界にはそういうものが、あまり多くない。

 襟に沿って、アイロンを二回往復させた。

 電話が鳴った。実家からだった。母が三分だけ喋って、切った。私は受話器を戻して、コードを指で伸ばした。ねじれていたのを、まっすぐにした。

 それからベッドに座って、ヘッドフォンをつけた。

 再生ボタンは押さなかった。押さないまま、しばらくそうしていた。中には何もなくて、遠くで誰かのテレビの音がしていた。

 明日も同じ電車に乗って、同じ改札を通って、同じ商店街を歩くのだろう。半拍遅れたまま。それは別に、耐えられないことではない。

 私はヘッドフォンを外して、机の上に置いた。

 その夜、雨が降りはじめた。

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