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【妄想シリーズ】妄想の相席

店は静かだった。雨が降るわけでもないのに、空気だけが妙に湿っている夜だった。私はゆったりとした四人掛けのテーブル席に一人で座り、本を開いていた。正確には、開いているふりをしていた。文字は目に入っているのに、一行も頭へ入ってこない。

彼女が、私のテーブルの前に立ったからだ。

「この席、いいですか」

彼女はそう言った。私はうなずいた。 その瞬間、胸の奥が不自然に大きく脈打った。

四人掛けの広いテーブルだ。相席を受け入れるにしても、普通なら距離を取るために真向かいの席を選ぶか、あるいは対角線上の最も離れた席に座るはずだった。それが、互いの視線を外しながら、最も穏やかに空間を共有するための暗黙のルールのはずだ。それなのに、彼女が椅子を引いたのは私の真横、右隣の席だった。

店内の他のテーブルがすべて埋まっているわけではない。他にも空間はある。この広いテーブルの上だって、前を遮るものは何もない。それなのに、なぜ前ではなく横なのか。なぜ、肘が触れ合いそうなこの位置をあえて選んだのか。たまたま深く考えずに座っただけかもしれない。それだけのはずなのに、私の中ではすでに引き返せない暴走が始まっていた。意味のない偶然に、致命的な意味を与えてしまう性質が鎌首をもたげていた。

彼女が椅子を引く。香りが揺れる。ページをめくる。文字は読んでいない。代わりに考えている。なぜ隣なのか。この距離は何センチだろう。肩が触れるには近すぎる。触れないには近すぎる。つまり、一番まずい距離だった。

私は孤独だから彼女を見ているんじゃない。彼女が四人掛けの席で私の真横を選んだから、孤独になったのだ。

彼女がアイスコーヒーを飲んだ。氷が鳴る。その音だけで、私の妄想はまた少し先へ進んだ。同じグラスを使ったら、同じ部屋だったら、同じ夜だったら。何ひとつ起きていないのに、私の頭の中ではもう何十通りもの未来が生まれていた。相手を知らないまま、横にいるという事実だけで勝手に狂っていく、もっと静かな毒。

カウンターの木目は、長年の油と誰かの体温を吸って鈍く光っている。手のひらを乗せると、じっとりとした湿気が皮膚の溝に這い上がってくる。雨は降っていない。それなのに、喉の奥に張り付く空気はひどく重く、吸い込むたびに、この店に満ちている夜の重みが奥深くに沈殿した。

吐き出された息は、私の胸元から数センチ先の空間で、立ち上る紫煙と混ざり合いながら、彼女の座る右側へと流れていった。彼女の肩を包む薄いリネンの繊維が、私の呼気を受けてほんのわずかに微動したように見えた。それだけで、胸の奥が不規則に跳ね上がる。もう、世界のすべてが彼女という存在そのものの気配に占拠されていた。開いている本の白い紙が、じわじわと結露の水滴に染まっていき、文字の輪郭が意味を失っていくのを、ただ見つめていた。一文字も読めない。目で追うことすらできない。

彼女がストローに唇を寄せた。 乾いた唇が、透明なプラスチックに触れる。 彼女が、小さく飲み込む。

その瞬間、ただの透明な筒が、世界の何よりも残酷な境界線に見えた。数秒前まで彼女の唇に触れていたものが、今は何事もなかったような顔をしてグラスの中に沈んでいる。彼女が口づけたその場所と、私の唇との間には、ほんの十数センチの距離しかない。その透明な筒を奪い去りたい。彼女が残した熱の残滓を、自分の唇でなぞってしまいたい。そんな浅ましい、けれど止めようのない衝動が私を支配した。

触れていない。肩と肩の間には、まだ十センチ以上の空間がある。しかし、その隙間に満ちている空気は、すでに二人の体温と呼気で飽和し、沸騰寸前の熱を持ち始めていた。この空間に手を伸ばせば、彼女の境界線に触れてしまう。

私の中で、まだ見ぬ数十通りの夜が、そのストローの先端から溢れ出るようにして勝手に生まれ、勝手に私を追い詰めていく。彼女は何ひとつ仕掛けてきていない。ただそこに座り、静かに息をしているだけだ。それなのに、私は彼女の横顔をただ見つめているだけで、一人で勝手に溺れ、勝手に壊れていく。

「この本、面白いですか」

突然、彼女がチラッとこちらを振り向きながら、不意に声を落とした。

その瞬間、不意に衣服の薄い生地を突き抜けて、彼女の肩が私の肩に触れた。

彼女の焼き印が、私の肩に刻まれた。

ジリジリとした熱い錯覚が、触れた部分から音を立てて体中へと広がっていく。それは消えない傷痕だった。彼女が首を傾げた拍子に、剥き出しになった彼女の冷たい手首が、私の手の甲にほんの少しだけ擦れる。その冷たささえも、私の世界の中では激しい火傷の熱さへと変わった。

すべての思考が完全に停止する。胸の奥が張り裂けんばかりに激しく脈打った。

向けられた彼女の瞳の奥に、引き返せないほどの深い夜が広がっているのが見えた。彼女の唇の端が、ほんのわずかに動く。肩に残る生々しい焼き印の熱さと、その一瞬の近さだけで、周囲の湿度はさらに跳ね上がり、ただ肩に残る熱だけが、いつまでも消えなかった。

喉の奥が激しく乾き、私はかすかな音を立てた。言葉になる手前の、ただの熱い空気の塊が、彼女の顔と私の顔の間にある、もう完全に決壊してしまった隙間へ向かって滑り落ちていった。

私をこれほどまでに狂わせていたのは、彼女の言葉ではない。肌が触れ合うまでの、あの焦れるような距離でもない。肩に刻まれたあの熱い焼き印に対して、一生消えない致命的な意味を勝手に感じてしまっている、私自身の引き返せない想像力だったのだと、狂おしい熱の中で私は思い知っていた。



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