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《平成異聞、短編小説⑤》《傷心の片道切符、慟哭鉄道トラベルミステリー》   『砂丘、遥かに——』  歳池若夫・作   


《平成異聞……それ、御内密に。》シリーズ⑤ 《2026年フル改訂版》
《作品内容》
 片道切符を握り締め、以前に恋人と連れ立った〝幸せ祈願旅行〟の地を独り再訪する失意絶望ハートブレイク青年。
京都市内国宝三十三間堂——丹後半島の名勝天橋立あまのはしだて——兵庫県但馬の名湯城崎きのさき温泉——鉄道名所余部橋梁あまるべきょうりょう——山陰海岸国立公園鳥取砂丘とっとりさきゅう
 昏く切なく、る瀬ない文章が長々と続く……それが、最終章に至って、いきなり怒涛の超絶反転する、異形驚愕の鉄道ミステリー。(物語ラストの5行には、万感の想いを込めました)

《 ↓ これより本編になります》


⦅今のぼくのポケットには、片道の切符しかない――⦆
 それは、終着駅で何もかも完結してしまう一筆書き乗車券。
 後戻りできない、ひとりぼっちの行路。
 感傷旅行sentimental journeyではない、想いをすべて断ち切る——死出の旅。

 朝早く出た新幹線のぞみから下車した京都駅は、古都の玄関口らしからぬ近代的な巨大屋根を梅雨空の下に晒していた。
 腕時計に目をやれば、次に乗り換える天橋立あまのはしだて行き列車まで一時間半ほど空いている。それまでの間、駅を出てちょっとだけ寄り道をさせてもらおう。
(たぶん駆け足になるだろうけども……服も靴も濡れて、ぐずぐずになるかもしれないな)
 ぼくは旅行カバンを探り、奥から折りたたみ傘をひっぱり出した。足元も心の底もびしょびしょにさせる霖雨の中にあっても、ぼくには、どうしても行っておきたい場所があるのだ。

 駅前真っ直ぐに続く烏丸からすま通りから七条通りを右へ曲がり、東に向かって歩く。大小幾つもの交差点を渡って行く。
 すれ違う多くの傘の中に、可愛い蛇の目模様が混じったりする。色とりどりのゴム長靴を履いて歩道の水溜りではしゃぐ子供たちの歓声も、ぼくが東京で聞くものに比べて語尾がほわんとしてるように感じる。
⦅ほわんと――か。つまり、生き急いでないのかもな。こういった歴史ある街並みや家々で生活してる子供たちって⦆
京童部きょうわらはべって言ったっけ。あ、それだと少しというか、だいぶ意味が違ってしまうのか――⦆
 やがて、鴨川に架かる七条大橋に足を踏み入れれば、前方に地雨に煙る東山の稜線が見えて来た。電車の向こうの案内標識板に、これから目指す有名な寺院建造物の名前が見えた。

『見て見て。入口の売店に並べてあるお守り袋、すごく素敵だね』
『ほら、袋の表に弓矢の絵が描いてあるよ』
『ここのお寺では、通し矢といって、昔のサムライなんかが、三十三間、つまり120メートルもある細長いお堂の軒先で矢を射る技を競ったんだって』
『見てごらん。お堂の内部には、向こうまでびっしり仏像が安置されてる。あれは千手せんじゅ観音立像といって、それぞれ十一の顔と四十本の手を持ってるんだって。そういった仏像がなんと千一体もあるんだってさ。昔の人はすごいもん造ったんだね』
『ぜひ、観音仏像に手を合わせて行こう。君とぼく二人が幸せになれるよう祈願して――』
『あぁ、偉大なる千手観音様。あなた様のたくさんある手の中のほんの一本だけでいいですから、ここにいる幸薄いアベックに差し伸べてください。どうか、どうかお願い申し上げます』
 
 〝山陰線福知山経由天橋立行き特急はしだてー、および舞鶴線西舞鶴経由東舞鶴行き特急まいづるー、間もなく発車いたしますぅ〟というアナウンスが何度も繰り返されている。
 ぼくは、長いホームを息切らして走り、ドアが閉まる直前に最後部車両デッキに駆け込んだ。雫が垂れる傘を折りたたんで丸める。車内通路を大股で歩いて先頭車まで進み、切符に記された座席番号を探す。
 腰を降ろしたのは、東寺の五重塔を間近に眺められる進行方向左側の席だ。
 シート背を倒し足を思い切り延ばす。まずは、駅売店で急いで買って来たプラスチック容器のお茶をぐい飲みで口に運ぶ。
 先ほど見た蓮華王院れんげおういん三十三間堂の物言わぬ仏像群は、以前見た時とまったく変わらぬ光沢を放っていた。たった一時間ぽっちでは駆け足参拝になってしまったけれど、神々しい御仏たちにまた首を垂れることが出来たのは感無量だった。
 そして、境内入口にあった出店で買ってしまったのは、
(やっぱり、通し矢のお守り袋……人々の願い事を貫き通してくれるという)
 ぼくはポケットに手を入れて、弓矢のイラストが描かれた白い封筒を指先で撫でた。
(ありがたい千手観音様にも、ぼくの『弁明』、というか『報告』を。そして、強い『決意』を申し上げて来たんだけど……)
 列車は、音も無く滑らかに動き始めた。
 ねっとり雨粒が張り付く車窓。樹々の緑を薄墨色に染めて美しい古都の街並みが流れて行く。列車は梅小路で右にカーブを切り、嵯峨野線と呼ばれるようになった山陰本線の高架に上がった。

『ほら、見てごらん』
『日本海ってさ、もっと暗鬱で荒ぶれたものだと思ってたのに、目の前に拡がる若狭湾は一面青く、明るくて優しそうだ』
『波も穏やかだし。夏になれば海水浴が出来るのかな』
『見て見て。向こうの方にあるのが有名な日本三景の一つ天橋立あまのはしだてだってさ』
『こうして列車の窓から見てもよく分かんないね。ただ横に細長い松林があるだけみたい』
『日本三景ってのは、この天橋立と宮城県にある松島と、広島の安芸の宮島の事をいうらしいね』
『記念切手の図案にもなった天下の名勝だね』
『天橋立ってのは、地理学的には、細長く繋がった砂州さすのことなんだってさ。山の上に登って見れば、形がはっきり判って、なかなかの絶景かな絶景かな~って』
『しかも、山上展望台では、足拡げて股の間に首入れて逆さまに見ると、空と海が上下ひっくり返って不思議アートになるらしい。ぼくたちもやってみようか』
『あっ。でも、君はミニスカート穿いてるから、股覗きなんて、はしたないし恥ずかしいってか。あはははは――』

 京都府北部にある大きな都市の駅のホームを離れ、身を大きく揺らしながら右カーブを切った列車は、不吉なくらいどす黒い雨雲の下に鼻先を向けた。
 幾つか小さなローカル駅に停車した後、進行左手に広い川が寄り添って来た。流れが緩くて沼池みたいに静かな水面に雨粒が当たり、無数の泡を立てている。
⦅ああ、怪談話なんかで聞く〝三途の川〟ってのは、たぶんこんなもんなんだろうな。もうすぐこのぼくも渡る事になるだろうけど――⦆
 頭の中も同じく恐怖世界になっているぼくは、お先真っ暗な呟きを吐き出そうとしては吞み込んで、喉と鼻の奥で情けない溜息に換えている。
 やがて、ガラ空き車内に検札の車掌がやって来た。ぼくはジャケット胸ポケットを探り、東京からの片道切符を取り出した。
⦅おっとっと⦆
 焦っていたので、切符と一緒に写真を一枚取り落としてしまった。すぐに拾ってポケット奥に仕舞う。
 写真は、つい数週間前にぼくと彼女が〝幸せ祈願旅行〟で訪れた地で撮ったスナップショット。観光地日本三景天橋立をバックにして、展望所土産物店の人にシャッターを押してもらったもの。
 定番の股覗きポーズなどはせず、二人手を繋いでにっこり笑ってピースサイン。ぼくより頭一つ半小さい、小鳩のような華奢な体。ぼくが好きになった大学の同級生。ぼくを愛してくれた同い年のカノジョ。ぼくにとって誰よりも大切な女性ひと。その名は――美智子みちこ

『結婚させてくださいっ!』
『な、な、何だって! 藪から棒に――キ、キミぃ、東條君だっけか?』
『いえ。西條です』
『どっちだっていいッ!! キミは突然人の家に押し掛けて来て、何てこと言い出すんだッッ!?』
『ぼくは、お嬢さん、美智子みちこさんを好きです。心から愛してます。一生大切にしたいと思ってます。絶対幸せにします。なので、ぼくたち二人の結婚を認めてください』
『ば、馬鹿言ってんじゃない!! キミ、東——西條君は、まだ学生の身分だろう。しかも、娘に訊いた話じゃ、キミは勉強よりもアルバイトばっかりやってて落第してしまったそうじゃないか。そんな有様で、女房一人ちゃんと養って行けるってのか?』
『それはその、ぼくは、大学を辞めて働きます。きちんとした仕事に就いて、美智子さんには苦労させないようにしますっ』
『何を世迷言を言ってる。大学中退なんかしたら、まともな会社に入れるわけないだろうがッ。そもそもだいいち、当家と、キミ西條君では身分が釣り合わん。美智子は当家の一人娘の跡取りだ。江戸中期から代々続く商家で戦前まで爵位も持っておった当家には、しかるべき所からしかるべき男子を婿にとると決めておるッ』
『ぼくは、きちんとした真面目な男です。結婚して、夫として家庭を持って、美智子さんを幸せにできる自信を持ってますっ』
『ふざけるな! キミ、西條ッ、いや貴様ッッ! 世の中を甘く見るんじゃない。愛してるだの幸せにするだの自信があるだの、そんな蟻が這い寄って来そうな甘っちょろい考えで、貴様は夫婦生活や家計維持をできると思ってるのかッッッ』
『だったら、お嬢さんに聞いてみてください。美智子さんはぼくをちゃんと理解してくれてるはずですっ』
『黙れ! どこの馬の骨だか判らんチンピラめがッ。うちの大切な娘をたぶらかしおって。世間知らずの美智子を言葉巧みに騙しおって、貴様という奴は、よくもよくも』
『そ、そんなっ。誑かしてなんかいません。騙してません。ぼくたちはずっと真面目に真剣にお付き合いして来たんです』
『ふざけるなッ。許さん。絶対に許さん! 貴様にはもう、うちの娘は会わせんッッ』
『そんな。そんなっ。ぼくは彼女の事を――』
『やかましい。今すぐ出て行けッ。青二才のゴロツキめがッッ! 西條だか東條だか湯川だか知らんが、貴様みたいな穀潰しは当家の敷居を二度と跨ぐなッ! 金輪際、貴様なんぞは顔も名前も見たくないわッッッ!!』

『逃げよう。美智子』
『このまま、どこかへ行ってしまおう』
『親戚や知り合いの人がいない、誰にも邪魔されない、遠い遠い別の街へ行こう』
『そこで暮らそう。誰の助けも借りず、力を合わせて』
『ね、そうしよう。美智子とぼくと、二人だけで生活して行くんだ』
『え? 嫌だって? お父さんやお母さんを裏切れない? そ、そんな――』
『じゃ、じゃあ、それじゃ、このぼくはどうなるの? 君のために、君と二人で生活して行くために、ぼくは今日、大学に退学届けを出して来たのに』
『ぼくは、君のために、美智子のために、ぼくの大切なものを投げうって来たのに。それなのに、君はぼくと別れるというの? 切り捨てるっていうの?』
『美智子、君はぼくを信じてくれたんじゃなかったのか。ぼくの事を理解してくれてたんじゃなかったのか?』
『嘘だろ。わかれるだなんて、そんなの嘘だろっ!?』
『嘘だと言ってよ! 美智子、美智子ったら!!』

 ――そうして、何もかも失ってしまったぼくは、失意と悲嘆と憤怒と絶望をひとまとめにして、帰りの切符を持たない片道単独行に出てしまった。
 心を許し合った女性と一緒に巡った〝幸せ祈願婚前旅行〟を頭に呼び戻し、記憶の順番通りに同じ行程を辿りつつ、後戻りできない一方通行の道を突き進む。
⦅くっ、どうしようもない大馬鹿野郎だ。よく考えもせず一人で先走ってしまって。彼女の親族を怒らせてしまって。しかも大学まで辞めちゃって。さらに、自分の実家からも勘当されてしまったし。もはや、ぼくはまともな仕事に就けなくなってしまった。さらに、肝腎の美智子の心まで離れてしまって――独りぼっちになっちゃって――ボロボロ。もう最悪だ⦆
⦅うぅぅ。哀しい。空しい。辛いよ。無念だ悔しいというより、自分が情けないよっ。本当に駄目な男だよ。こんなんじゃもう、生きてたって意味が無いっての⦆

 やがて、線路と並行する濁り川の行く手に、海らしき青い水面と、白波らしき横線が見えて来た。
 列車は川のどん突き近くで直角に左に曲がり、河口の水面すれすれに架かった長い鉄橋を渡った。対岸にあるひなびた駅のホームに滑り込んで行った。
 ぼくには、その古ぼけた小さな駅舎が、黄泉よみの国の入り口に見えて仕方なかった――。
 
 京都府北方の丹後半島入口にある宮津駅で乗客を半数近く降ろした列車は、数分間停車後に終着天橋立に向かった。
 ぼくは、ガラ空きになった車内で座席をくるりと回す。海が間近に見えるようになり、窓下に白波が迫って来た。
(いや、呑気に景色なんか見てる時間はないんだ。すぐ最後の駅に着いちゃうから。降りる準備をしとかないと……)
 ガラス窓の向こう、相変わらず雨が止む事は無い。列車はやや波荒い海辺の鉄路を粛々と進む。
 水幕に煙る灰色の宮津湾の彼方、海上に浮かぶ緑色の横一線が見えて来た。名勝天橋立、網膜に深く刻まれた風景が大きく拡がる。

 天橋立駅を出て、傘も差さずにびしょ濡れのまま歩いた。
 観光客が群がる文殊もんじゅ堂は素通りして廻旋橋を渡り、砂嘴の中央を貫く狭い砂利道をさくさく進んだ。
 両側には緑鮮やかな松並木が続いている。左に目を向ければ、湖のように静まり返った阿蘇海。右に首を曲げれば、木々の間に見える白い砂浜に宮津湾の猛々しい波が。
⦅ふうぅ。あれだけ大きな波に呑まれれば、ひと思いに天国に行けるだろう。いや、地獄へ一直線かな――どうだっていい。ぼくの決意は、もう揺るがないんだから⦆
 彼方まで続く白い砂浜に足を向けたぼくは、震える自分の両足に、握った両拳で喝を入れた。

 雨はまなかった。
 人気ある笠松公園山上にはケーブルカーに乗って登った。定番の股覗きはするまでもなく、日本三景天橋立は、雨雲の下に隠れてしまって姿を現さなかった。
(……結局、決意ってやつも、歩いてるうちにびしょびしょになって萎れてしまうんだよな。まったくまぁ、ぼくって根性なしというか、まるで駄目男君というか)
 濡れてぐずぐずになった靴で帰りの砂利道を歩くのは酷と判断し、ぼくは、帰りは天橋立の駅までタクシーを奮発する事に決めた。
 乗車したタクシーの運転手さんは、寡黙な老人だった。関東イントネーションで話す顔色悪い乗客に対する余計なお節介や、無駄な観光案内が無かったのは実にありがたかった。
 『北近畿タンゴ鉄道』という洒落た看板が掲げられた駅に着くと、待合室に鉄道会社の大きな宣伝ポスターが貼ってあった。ご自慢らしき特別観光列車の写真や記事に目を配りつつ、ぼくは、土産物店で買った熱いコーヒーを冷えた胃袋に流し込んだ。

 山陰本線の列車がホームに滑り込んで行く。
 ぼくを含めて殆どの乗客が腰を上げ、網棚から荷物を下ろし始めた。
 途中下車したここ城崎きのさき駅の待合室には、喧騒が渦巻いている。歴史ある温泉街の玄関駅は、また、あらゆる旅人の人生の十字路でもある。
 観光ホテルや温泉旅館の名前入り法被を着た人たちが、改札口前で宿泊客を出迎えている。皆、盛んに声を出している。もちろん、死にぞこないの野良犬みたいな汚い若造には誰も声掛けてくれないけど。
 しばらくして、喧騒は潮が引くみたいに去った。
 待合室内はぼく一人だけになった。天井スピーカーから流れるBGMがはっきり聞きとれるようになった。ぼくは、その曲が昨年秋からテレビやラジオでやたら流されているコマーシャルソングである事を知っている。
⦅うん。当代一だもんな。歌ってる女性ひとが。今やすごい売れっ子になっちゃって。ぼくと歳がそんな違わないのに――⦆
 耳奥に貼り付いたサビ部分を鼻声で反芻しながら、ぼくはようやく気持ちに踏ん切りをつけた。とにかく、本日は結論を先送りし、ここ城崎の街のどこかで宿を取ろう。疲れた体と心を休められる場所を探そう、と。


 トンネルを出ると、360度近い展望パノラマが拡がった。
 右車窓には群青色の日本海。砕け散る白い波。
 ディーゼルカー二両編成の列車は、エンジン音とレールジョイント音を轟かせながら、海沿いの山と山の間に架かる鉄道橋をゆっくり渡って行った。
 ぼくは開け放った窓の外に首を突き出した。真下には畑や道路や幾つか建物が見える。
(ふぅ。何度来ても感動するな。ここ有名な余部あまるべ鉄橋を渡るの。あと何年か後には、コンクリートの橋に架け替えられるらしいけど)
(新しい橋になったら、こんな素晴らしい景色は拝めなくなるのか。それはそれとして、今ある古い鉄橋は、線路脇の防護柵がけっこう低い。こんな柵では、列車から飛び降りれば首の骨を折るか全身打撲で、まず間違いなくあの世行きだろうに……)
 そういった不謹慎な言はすぐ喉奥に呑み込んだ。鉄橋を渡り終えた列車は、対岸にある餘部あまるべ駅の小さなホームに滑り込んで行った。
 ちょうど下校時ということで、海沿い集落の高台に設けられた小駅にも高校生が何人か降りて行く。
 中には、お互い制服姿のまま手を繋いでいる仲好しアベックの姿も見受けられた。だけど、男子生徒の方を見れば、学生服ズボンのベルトを緩めてもっさりしていて、すごくだらしない恰好だ。
 さらに、相手の女子生徒の方なんか、
(うわぁ。髪を茶色く染めちゃって! マニキュアや派手な化粧までしてるよ。あれで高校生!? ずいぶんだなぁ)
(しかも、やたら短いスカートで。恥ずかしくないのかね、あんなの穿いて。あれじゃ、風が吹いたら下着丸見えになっちまうだろうが)
 いちゃいちゃしながら改札を通り抜けて行く田舎の高校生男女に眉を顰めながらも、ぼくは、そんな彼らを全面否定する気にはなれなかった。
 そう、もしも、この二人みたいな大胆さと思い切りの良さが我が身にあったなら、ぼくは、心から愛する人、小鳩のように華奢な美智子の体をお姫様抱っこして、何も考えずに日本中どこへでも世界の果てまでも逃げて行っただろうに。

 山陰の県庁所在地都市は、冷たい雨に濡れている。
 月も星もない餡色夜空には潮気を含んだ風が舞い、ひと気ない駅前広場や街路樹はひゅうひゅう音を立てている。まるで外国のSF映画に出て来る魔界の街のようだ。
 鳥取駅構内にある小綺麗な待合室の隅っこで、ぼくは何時間もベンチで背を丸めてじっとしていた。床に映る自分自身の影と向き合っていた。
 砂丘行き始発バスが出る時間はずっと先だった。だから、外が少しでも明るくなったら、自分の足を使って向かおうと決めていた。駅の外は、雨音がさっきまでより鎮まっている感じがする。
 ふと、左手首に痛みを感じた。二枚貼り重ねたバンドエイドにはうっすら血が滲んでいる。
 それは、夕べ城崎温泉で泊まった安宿で、風呂に浸かりながら剃刀を当てた時の傷。あと少し力を入れればすべてが終わったはずなのに。
⦅情けないよ。本当に根性無しの意気地なしだ。まるでどころかまったくダメ男だ⦆
 でも、もうグスグズしていられない。一筆書き片道切符の終着点は、今ベンチに座っている鳥取駅。当駅からそれほど遠くない所にある観光地鳥取砂丘が、以前に美智子と旅した〝幸せ祈願旅行〟の最終訪問地だった。 
 なので、これ以上先送りや引き延ばしはできない。二人の想いが沸点に達したこの地で、ぼくは、自分が引き摺ってる重石おもしから解き放たれよう。
⦅そう、すべて終わりにするんだ。思い出あるあの砂の丘のてっぺんから駆け降りて――⦆

 ぼくは、旅行カバンから一冊のノートを取り出した。表紙には、ぼくが手首から流した血で幾つもの赤い染みができている。
 ページを捲れば、何度も書き損じてはやり直し、消しては書き足した、ぼく自身の弁明弁解の言葉がある。どういう理由があってこの旅に出てしまったのか。なぜ誰にも伝えずに一人で来てしまったのか。
⦅ごめんね、美智子。君を抱いて逃げる勇気がなくて⦆
⦅短い人生だったけど、君と一緒にいた時間は楽しかった。とっても充実していた。本当にありがとう⦆
 最後のページに、一枚の写真を挟んでおいた。
 名勝鳥取砂丘をバックに寄り添うぼくたち二人。ぼくの腕の中にいる小鳩のように華奢な体。ぼくが好きだった美智子。短い期間だったけど、ぼくを心から愛してくれたひと。
 裏返しにすれば、「H&M」二人のイニシャルと撮影日付が手書きでくっきり。
 ぼくは唇を噛み、その写真をまっ二つに破った。
 重ねて引きちぎった。両手で思い切り丸めた。紙屑にした。
⦅もうこれでお仕舞だ。さよなら――だね。本当に⦆
 待合室の壁時計を見上げると、午前五時を回っている。ぼくはノートを旅行カバンに仕舞い、ベンチから立ち上がった。

 山陰海岸国立公園の名勝鳥取砂丘にぼくが到着したのは、午前八時を回った頃だった。
 明け方まで降っていた雨はすっかりあがった。たちこめた低い雲の切れ間には青空が見え隠れしている。
 タクシーを降りたぼくは、急がず慌てず四方を見渡した。バスターミナル周辺にひしめく土産物屋には、既に観光客が三々五々やって来ている。
(さすがにすごい人気だな、ここは。湿気もすごい。急に暑くなって来たみたいで、早くも梅雨明けか……)
 両頬を撫でる熱微風が吹いて来る方角に、ぼくは爪先を向けた。砂が踏み固められた観光客用散策コースを、一歩一歩足元を確かめながら進んで行った。

『うわぁ! 見て見てっ、ヒデちゃん。海がとんでもなく大っきい!! 空との境目が見えないわ。全部海みたいに見える。いや、空が海に溶け込んじゃってるのかも!? 初めて来たけど、鳥取砂丘ってすっごく感動の場所ね』
『うん。海と空にも目を見張っちゃうけど、足元の砂の大地にもびっくり。丘の斜面にはストライプ文様が浮かんでて、素敵なアートになってる。風紋ふうもんっていうのかな? あれ』
『強風に晒されて、アートは常に描き直しされてる。風紋は刻々と変化するみたいよ』
『だね。ここには、海と空と砂の大地を支配する人智を超えた不思議な芸術家がいるんだろう。砂の丘におわす〝聖なるぬし様〟ってか』
『こんなの観たら、卒業前にまた来たくなっちゃう。もちろん、ヒデちゃん、あなたと一緒にね。今度は、空と海が真っ青に繋がった日にぜひ』
『ははっ。エーゲ海ならぬ日本海に魅せられて――ってかい。オンナは海とは、よくぞ言ったもんだよ』
『ふっ。わたしの方が先に社会人になっちゃうんだった。ヒデちゃんと一緒に卒業旅行ってわけには行かないかぁ』
『うん。ごめんな。なんとかぼくも再来年あたりには卒業するよ。その前に、就職をきちんと決めなくちゃ。君のために』
『頑張ってね。でも、あまり無理しないで。いざとなったら、わたしがヒデちゃんを養ってあげるんだから』
『いやいや、そんなわけには行かないよ。ぼくはこれでも日本男子のヤングマンだ。憂鬱なんか吹っ飛ばし、何でもできるって。可愛い奥さんひとり、必ず幸せにしてみせるさ』
『よろしくお願いしま~す。うふ。感激っ。わたしの未来の旦那様になる、二文字違いのヒデキ!!』

 首を振り振り溜息ついてるうち、やがて散策道コースから外れ、柔らかい砂の大地に足を踏み入れる。
 風紋が少しだけ残るまっさらの砂のキャンバスに、ぼくは規則違反など気にせず靴先を筆にして、中身が乏しい我が人生の軌跡を描いて行った。
 幾つもの砂の丘を越えた。
 最後にあった馬の背と呼ばれるひときわ大きな頂のてっぺんに登ると、
(あぁ……来てしまった。ぼくは再びここに……いや違う。これで三度目になるのか)
 眼前に、左右180度いっぱいに広がる日本海があった。
 群青と墨色が入り混じった海面。大迫力ステレオで聞こえてくる荒波の音。人間が持つ感情の全てを呑み込んで、咀嚼し嚥下し、何もかも消化してしまうであろう深淵の海。

 馬の背丘の頂上に、ぼくは別れた恋人美智子へ綴ったメッセージノートとカバンを置いた。
 震えが止まらない。足首は砂に埋まったように重い。でも、この期に及んで根性無し意気地なしの丸出駄目男君でいるわけに行かない。
 ぼくは、体内に入れられるだけの空気を思い切り吸い込んだ。
⦅——行くぞ。今さら、足踏みなんかしてられないッ⦆
 目を瞑り、両足で砂を蹴った。

『うおおぉぉおおおっ——』
 大声をあげ、ぼくは斜面を駆け下りた。重力に任せるまま、波打ち際に向かって突進した。

 すぐに、鋼鉄のように硬い水の壁がぼくの体を打ちのめした。
 目の前で白いものが爆発し、鼻と口と耳に一気に海水が押し入って来た。
 両の瞼は開いているはずなのに、何の光も見えない。耳も感覚が無い。波の音も水音も、何も聞こえて来ない。
⦅あぁ、これで死ぬんだ。ついに僕は。それじゃ、さよなら――美智子。君は幸せになるんだよ⦆
 痛みや恐怖など消え失せている。なのに、水の冷たさだけははっきり感じられる。
 と、突然、ぼくは両腕を強く引っ張られた。

    ※
 
「……で、結局、死ななかったんだ。ぼくは。『さよなら』はしなかったんだよッ!」
 砂の斜面下で唸りを上げて砕け散る波濤に向かって大声で叫んだ。
「死ぬことはできなかった。間一髪で救助された。生きる世界に引き戻されてしまった……というか、そもそも、ぼくは死のうなんて最初から考えなくてもよかったんだ。あまりにも短慮で浅はかだった。だけど、それをぼく自身が知るには、実に二十七年もの長い時間が必要だった……」

 そうなのだった。
 実をいうと、ぼくが人生の終着地として定めた眼前の海に身を投じたのは、遥か昔のまだ年号が平成にもなっていない時代、昭和五十四年(1979年)六月の出来事であった。
 当時二十三歳だったぼくは、氷のように冷たい海中で彷徨を続けていた。死がすぐそこまで迫るうち、かの地を支配する姿無きぬし(ぼくはそれを『砂の精霊』と勝手に呼んでいる……)が、めったにしないであろう奇蹟を起こしてくれた。
 神の力を持つらしいそのぬし様は、波間に見え隠れするぼくの体を、沖にいた漁船漁師の目に捉えさせたのである。
 ぼくは海中から救い出され、通報で駆け付けた救急隊の手で懸命の蘇生措置が取られたらしい。停止していたぼくの心臓は、死亡判断まであと数秒という土壇場で鼓動を再開したと、後々になって聞かされた。
 しかしながら、その時酸欠で仮死状態になっていたぼくの脳髄は、ダメージが甚大だった。
 以来、病院のベッドで植物人間状態でずっと眠り続け、ようやく最新医療技術により奇蹟的覚醒して社会復帰できるまで、ぼくは、通常の人間の一生の三分の一近い期間二十七年間を費やしてしまったのだった。

「つまり、ぼくという個人は、二十一世紀平成の世に現れ出た『浦島太郎』ってわけだ。昭和の時代から時空を二十七年も飛び越えて。しかも、甦った今浦島は、こうやって、最新社会の中で人生三度目になる京都や丹後地方や山陰鳥取の旅を続けている……」
「もしも、事情を知らない赤の他人が、これまでのぼくの独白や告白を聴いていたら、違和感を持たれただろう。いらぬ誤解や混乱を招いてしまったかもしれない……」
「そう。自分でも解ってるんだ。ぼくには、過去の記憶と目の前にある現実光景がごちゃまぜになるときがある。なんせ、ぼくは、世間一般の人が持つ人生行路の途中部分がごっそり抜け落ちている人間だから……」
 そのため、生活上の思考や立ち居振る舞いや独白ひとりがたりの中に、時間的ズレや時代錯誤や習慣上の矛盾が紛れ込んでいた事に後になって気付き、自分自身ヒヤッとしてしまう。
 例えば、覚えているだけでも、ここに来るまでにぼくが心の内や口奥で発した、こんな言葉や表現や行動の中に。

●【あの日、京都市内で見た――或る光景】
 遠い遠い昭和の昔、二十代前半だったぼくと美智子みちこの二人が幸せ祈願で訪れた古都の街並みや三十三間堂千手観音立像は、二十七年後の平成の世でも、変わりなく美しい光沢を放っている。
 けれど、京都市内鴨川に架かる七条大橋を渡った場所は、二十一世紀の現代では電車でんしゃを見ることはできない――。
 そう、いまだ我が記憶に鮮明に残っている京阪電車地上線路踏切と京阪七条駅の地上ホームは、ぼくが知らない昭和の終焉頃に地下移設工事が施され、鴨川に沿った川端通り直下に潜ってしまったのだった。
 つまり、現世平成時代ではありえない《電車の向こうの案内標識板に、これから目指す有名な寺院建造物の名前が見えた》という表現は、今浦島太郎の記憶の断片、つまり過去の七条交差点周りを脳内に投影したぼくの回想だったのである。
 振り返ってみれば、平成より前の昭和後期では、鴨川の畔に敷かれた地上線路を、鳩マークを掲げてテレビカーを連結した特急電車が颯爽と行き交っていたっけ。マンダリンオレンジとカーマインレッドで彩られた京阪のモダン車輛は、寒色一辺倒の古都の風景画に、温かみあるアクセントを添えてくれたものだ。

●【回想――名刹三十三間堂で口にした、時代遅れの言葉】
 思い起こせば、若かりし昔、初めて〝幸せ祈願婚前旅行〟に出かけた道中、三十三間堂で通し矢のお守りを買ったぼくと美智子は、自分たちの事を《アベック》という古い言葉で呼んでいたと記憶している――。
 これが二十一世紀に生きる若い男女の現在進行形型会話であれば、そういう時はカップルという単語を使うらしい。

○【今の今、二十一世紀における……京都発天橋立行き列車は】
 長いホームを走り、発車間際に列車に駆け込み乗車した平成に実在するぼくは、車内通路を駆け抜け、指定席を取っていた《先頭車輛》まで進んだ。
 実をいうと、その列車「特急はしだて1号」の先頭車は、グリーン車であった。
 つまり、永い眠りから覚めた後の実社会においては、ぼくは生活環境ががらりと替わり、優等列車の特等席に座れるほどの経済的余裕を持った人物になっていたわけである……。

○【そのグリーン車座席にて……】
 背中を倒せるふかふかリクライニング・シートに身をあずけた現代時間軸を往く旅人は、《プラスチック容器の》と表現した熱いお茶を飲んだ。
 古い感覚を未来世界に持ち込んでしまった浦島太郎は、ペットボトルという現代用語をなかなか学習できずにいるわけである……。

●【回想の中で――記念切手が】
 恋人と二人で行った最初の鉄道旅車中で、窓外に見えた日本三景のひとつ天橋立《記念切手の図案》になったものだと口走っていたぼくは、その時間軸においては明らかに昭和の人間だったのだろう――。
 二十一世紀の平成社会に生きる若者であれば、記念切手に興味はないだろうし話題にもしないはず。だいいち、現代では、人々は手紙や郵便ハガキなんかほとんど出さず、電子メールと呼ぶ無線通信機能を使って情報送受信をするそうだ。

●【昭和の世にはあった、旧国鉄路線——】
 1979年(昭和54年)を振り返る回想にて。
 恋人と破局して奈落の底に堕ちたぼく。その後、絶望の死出の旅に出て乗車した天橋立行き列車は、グリーン車を連結した電車特急「はしだて」ではなかった。
 当時、国鉄山陰本線綾部駅から舞鶴線のローカルディーゼル列車に乗り継いだぼくは、途中、《京都府北部にある大きな都市の駅》西舞鶴から旧国鉄宮津線のローカル普通列車に乗り換えた。
 そして、片道だけの一筆書き切符と一葉の写真を胸ポケットに収め、進行方向左側に寄り添って来た《三途の川》みたいに思えた一級河川由良川の川面をじっと見つめていた――。

○【現代における、第三セクター移行鉄道は……】
 平成に蘇った昭和生まれ浦島太郎が乗車した京都発天橋立行き特急列車「はしだて1号」は、JR山陰本線綾部から分岐したJR舞鶴線の西舞鶴方面には進まなかった。また、若狭湾に注ぐ《河口の水面すれすれに架かった長い鉄橋》つまり由良川橋梁も渡らなかった。対岸にある黄泉よみの国の入り口》に見えた鄙びた小駅丹後由良駅のホームにも滑り込んで行かなかった。
 二十一世紀現代に発行される時刻表で見ると、平成十八年六月の朝に京都駅を出発した特急「はしだて1号」は、JR山陰線の福知山から第三セクター「北近畿タンゴ鉄道宮福線」なる新設路線を経由し、若狭湾海べりにある宮津までショートカットで直行する。その宮津からは、スイッチバックで進行方向を変えて終着天橋立駅に向かう。
 つまり、二十七年の時を隔てて鉄道旅に出た乗客は、宮津でグリーン車の《座席をくるりと回し》《海が間近に見える》姿勢に座り直したわけである……。

●【日本のどこかで――うち萎れた若者の耳に届いた、あの名曲】
 心傷つき片道切符の旅を続けた昭和五十四年(1979年)、二十三歳の負け犬青年が一人佇んでいた旧国鉄山陰本線城崎きのさき駅》の待合室では、当時《当代一》の人気歌手だった山口百恵やまぐちももえが歌う『いい日旅立ち』がBGMで流れていた――。
 かの曲は、前年秋から旧国鉄が始めた国内旅行キャンペーンのイメージソングだった。だいたい、《コマーシャルソング》と当時表現していたぼく自体が、1970年代の匂いがぷんぷん昭和ボーイだったのかも。
 
○【二十一世紀現代社会の若者風俗。JR山陰本線餘部あまるべ駅ホームでは……】
 数年後には近代的なコンクリート橋に架け替わるという古い鉄骨造り余部橋梁あまるべきょうりょうをローカル列車が渡り終え、対岸にある駅ホームでぼくが見かけたのは、手を繋いで下車する現代高校生男女二人組
 ぼくが連中とほぼ同じ歳だった昭和時代では、そういった野放図な行為は、やろうとしてもやれるものではなかった。十代の男女が人前で密着したりいちゃいちゃするのは、世間が許さなかった。だいいち、髪を染めてマニキュアして丈の短いスカートを穿く女子高校生なんて、昔は都会でさえあまり見られなかった。
 目の前にいる大胆で不謹慎な平成《仲良しアベック》を見て、ぼくがついつい《眉をひそめて》しまったのは、若者気質の激変を知らずに年齢だけ重ねてしまった今浦島太郎が、カビ臭い前世紀の感性をいつまでも引き摺っているという証左なんだろう……。

●【昭和晩期——死出の旅路終着駅にて】
 人生最期の夜を過ごすはず――だった二十七年前の駅待合室
 昔むかしの1970年代後半、県庁所在地にふさわしい高架駅舎に建て替えられたばかりの旧国鉄鳥取駅は、当時まだ走っていた夜行列車の旅客のために構内に終夜灯りがともっていた。
 新築ほやほや《小綺麗な待合室》のベンチに座って夜明けを待っていたぼくは、その時点では確かに昭和の臭いを発散する垢まみれの若者だったに違いない。

●【その時代を映す、ヒデキ——カンゲキッ!?】
 お互いに親に内緒で出掛けた〝幸せ祈願婚前旅行〟の一番の思い出。
 回想の中で甦った1979年(昭和五十四年)の有名観光地鳥取砂丘は、当時はあいにく曇天の下にあった。
 荒波打ち寄せる砂浜を見下ろしていた若い純愛の男女。二人の甘ったるくて他愛無い会話の中では、その年の大ヒット歌謡曲が乳繰ちちくり合いネタに使われていた。そう。当年大晦日には日本レコード大賞も受賞したジュディ・オングの『魅せられて』が――。
 さらに、新御三家などと呼ばれたスーパーアイドル西城秀樹が熱唱した『YOUNG MAN(Y.M.C.A)』も――。
 あの時、永遠の愛を誓った恋人の前で、かの大人気男性ポップ歌手に個人的にも親近感を持っていたぼくは、結婚も家庭生活維持も憂鬱なんか吹っ飛ばし、何でもできる、なんて調子こいて吠えてたっけ。

    ※
 
「あなたっ! 秀機ひできさん!!」
 背後で、ぼくの名前を呼ぶ声がした。
 振り返れば、小鳩のように華奢な体型の女性が一人そこに。
「君か……よく判ったな。この場所が」
「あなたったら」
 彼女は、化粧もせず慌てて飛び出して来たといった顔だ。目は尖って血走り、ルージュを引いてない唇はわなわなと波打っている。
「いったいどういう了見です? わたしに何も言わず、一人で宿を抜け出すなんて」
「ごめんごめん。うん。実はね、一刻も早くこの場所を見たくなってね。ここに来るのは三度目なんだけどね……いやぁ、黙ってて悪かった。ごめん」
 ぼくは素直に頭を下げる事にした。
 でも、激情に震える彼女の口は到底許してくれそうにない。
「困りますッ。そんなの困ります。そもそも、大昔にわたしたち二人で旅した思い出残るコースを今に再現してみようとあなたが言い出した時から、わたしは、秀機さんあなたの目的が、ここ鳥取砂丘の海にあるんじゃないかと心配してました」
「ははは。何言ってるんだ。ぼくがそんなこと考えるわけないだろう」
「でも、わたしは本当に心配したんです。だって、ここに来るまでの途中、京都の有名なお寺でも、特急電車の車内でも、天橋立を二人で歩いて行った時も、城崎温泉のホテルに泊まった夜も、秀機さんったら、わたしに言い聞かせるわけでもなくあれこれ独り言をぶつぶつ呟いてて……それに、何でもさっさと勝手に決めてしまって。まるで自分一人だけで旅してるような感じだったから……」
 厳しかった視線が揺らいだ。「だから……だから本当にわたしは」
 血走っていた目の端に水滴が浮かんだ。睫毛が濡れて光った。鼻は膨らんで真っ赤に染まっている。「……大切な秀機さんを、一人にして海の方に行かせたくなかったんですッ!」
 涙腺ダムはもう崩壊寸前だ。
「ああ、ごめんごめん。確かにぼくが悪かった。何度でも謝るよ。だけど、心配しなくたってよかったのに。だって、ぼくは、もう二度とここの海に身を投げる事なんかしないんだから……ぼくはただ、この地にいるであろう大恩あるぬし様に、きちんとご挨拶を申し上げたかっただけなんだから。ようやく覚醒して社会復帰が出来たという『報告』と、今後長生きして必ず幸せになりますというぼくの『決意』を伝えに来たんだから……」
 言ってから、首を大きく縦に振ってあげた。
「うん。でも、わかった。よくわかったよ。これからは、ぼくの悪い癖である独り言ぶつぶつや勝手に先走る行動はしない。絶対にしない。うん。大恩あるこの地の〝砂の精霊様〟に対して誓う。いや、何よりも、君に対して誓うよ」
 聞き終えるや、彼女は、今度こそ本当にわーっと泣き出した。

 実に四半世紀以上もの長い間、ぼくが寝息を立ててる病院ベッドの横で、奇蹟を信じてずっと待ち続けてくれたというこの律儀な女性と、ぼくは、先だって婚姻届けを役所に提出して来たのだった。
「本当にごめん。いっぱい迷惑掛けてしまって。永い間待たせてしまって。とにかく、君のご親族からも和解と深いご理解をいただいた。すごく感謝してる。うん。ありがとう……愛してるよ、美智子みちこ
 
 彼女と、ぼく西條秀機さいじょう ひできは、共に髪に白い物が目立つよわい五十歳同士の出遅れ出直しハネムーン・アベック……いや、現代風にいえば、プラチナムーン・カップルだ。
 この最愛のひとが側にいるかぎり、今浦島太郎の残り少ない人生は、きっと有意義で密度の濃いものになるに違いない。

――了
@平成十八年(2006年)に聞いた?風説

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《※作中に登場する特急名・路線名・駅名は、平成十八年(2006年)六月当時のものを引用しております》
《※兵庫県北部にあった「城崎きのさき」という文学的な響きを持つ山陰本線の駅名は、平成十七年(2005年)に、観光客に判りやすいそのものズバリ『城崎温泉きのさきおんせん』駅に改称されております》
《※また、作中に出て来る京都府北部を走る第三セクター『北近畿タンゴ鉄道』は、平成二十七年(2015年)に、WILLER TRAINS株式会社が鉄道事業を受託継承しました。令和八年の現在では、路線名称が『京都丹後鉄道』に替わっております》

●歳池若夫・作 《平成異聞……それ、御内密に。》シリーズ。平成時代に聞いたとされる風説!?をまとめた、ミステリー・アラカルト短編集。
⇒ シリーズ第①話 『狛 刀blanc sabre〝シロイカタナ〟』 
 バイクアクション・本格ミステリー。東京奥多摩の山村で起きた自動車密室殺人事件の謎を解く、異色白バイ警官安楽椅子名探偵譚。
⇒ シリーズ第②話 『助手席に、いるっ!』 
 カー・ホラーミステリー。ハイスペック・フルタイム4WDスポーツ車を駆使し、日本横断違法脱法キャノンボールレースに挑戦した走り屋小僧が体験した、恐ろしい怪異の世界。
⇒ シリーズ第③話 『ハマノマサゴハツキ(ク)ルトモ……』 
 平成円熟期のゴルフ場を舞台にした、二十一世紀の義賊を気取る怪盗が活躍?する悪漢小説ノワール??
⇒ シリーズ第④話 『点々と線々 ~青春の旅立ちと謎の暗号~』
 鉄道暗号ミステリー。まだ時刻表に北陸「本線」の表記があった平成時代、慣れないリクルートスーツを着て、金沢を早朝に発つ特急電車で就活面接先の京都へ向かう乗りテツ大学生が車内で遭遇してしまった「テロ事件」?
⇒ シリーズ第⑤話 『砂丘、はるかに——』 
 ひと筆書きの片道切符を握り締め、京都・丹後但馬地方・鳥取砂丘を往く失恋自殺願望ハートブレイク青年の――切なくて遣る瀬無い、鉄道旅ミステリー。
⇒ シリーズ第⑥話 『a fantastic voyage 而立じりつの航海』
 平成元年、四駆ヤドカリ仕様トラックに乗って自分探しの旅に出た三十男が、南九州、熊本、西九州&日本海山陰石見地方で大冒険? 前半は物見遊山のスチャラカ旅日記風だったものが、後半になって雲行きが怪しくなって……ラスト9行に至っては、いきなり視界が単色モノクロに反転する衝撃怒涛のロードドライブ・ミステリー。
⇒ シリーズ第⑦話 『山梔子dollと旅する男』(最新投稿)
木枯らしが舞う冬の或る寒い夜、東京は上野駅不忍口しのばずぐちガード下で——
 ギターケースと重い旅行カバンを両手に下げてタクシーを降りた疲れ顔の若者は、帰宅客や酔客で混み合うコンコースを足早に突っ切る。改札口を抜けて、構内奥にある場末感漂う地平ホーム13番線へ急いだ。
 今宵、大都会からこそこそ逃げ出していく哀しい旅人の宿は、北へ向かう古臭い寝台特急列車ブルートレイン
 深夜、狭くて固いB寝台席ベッドで、寒さと振動と他の乗客の大鼾で眠れなくなった若者は、気晴らしで煙草でも吸おうとデッキの洗面所スペースに向かった……と、そこで、怪しく不思議な「父娘おやこ」に出会う。
 父親は、やたら慇懃無礼で、笑うせぇるすまん顔をした小太り坊主頭男。糊のきいた着古しワイシャツを着こなし、細いサスペンダーでズボンを吊り上げている。そして、傍らにいる娘の方はというと、女子高校生らしき制服を着て、瞳がきらきら輝く絶世の〝美少女〟……なのか!?
 古き良き、悪しき妖しき平成官能ロマン。令和の今では乗ることも叶わぬ夜行寝台列車内で起きた、めくるめくスリラー・ナイト。

★別のシリーズ作品。「カラス&マーロウ」シリーズ。
迷?推理を開陳する男川正朗とカラスのおっちゃんの凸凹コンビが活躍するドタバタ探偵譚。
『19th holeナインティーンス・ホール』(全3部構成)
 推理小説のジャンルではあまり例が無い「ゴルフ・ミステリー」中編。(全3部構成) 一応、フー・ダニットとダイイングメッセージを扱ったオーソドックススタイルの名探偵トリック暴き本格ミステリー小説です。
⇒ 『京都発鳥取・倉吉行き、振り子式DC特急『スーパーはくと』殺人事件』
 鉄道トラベル・ミステリー。業界人仲良しゴルフを兼ねた山陰への慰安旅行に出掛けるカラスのおっちゃんと賑やかなお仲間たち。スポーツカーみたいにカッコいい特急列車『因幡の白兎号』の車内で発生した陰湿な毒殺事件。超特殊な凶器と、犯人の意外な動機とは?
⇒『左翼外野席レフトスタンド
 後楽園の東京ドームで行われた伝統の一戦。熱狂的虎党であるカラスのおっちゃんに連れられてレフトスタンドの特等席に座る羽目になった隠れ巨党派の男川正朗。二人の前席には、何やら妖しげな老カップルがいて……白熱の試合が続く中で発生した猛虎軍団の外国人監督の不審死事件。プロ野球と本格ミステリーを愛する男川正朗は、必死に謎を解こうとするが……
⇒『岩槻IC北方15キロの地点』(前編&後編)
 埼玉県東部を縦に貫く東北自動車道。その下り車線上で発生した走行車狙撃殺害事件。走行車の後方で警戒護衛に就いていたヘタレ私立探偵は、事件の経緯を小説にして文芸SNSに投稿するが、独自の推理考察や真相については、すべて読者諸兄姉に丸投げしてしまい……