《平成異聞、短編ミステリー⑥》《平成元年、失業三十歳自分探しの旅。四駆ヤドカリ車で西九州、山陰石見地方をロードドライブ》 『a fantastic voyage 而立の航海』 歳池若夫・作
《平成異聞……それ、御内密に。》シリーズ⑥ 《2026年フル改訂版》
《作品内容》
昭和から御代替わりした平成元年(1989年)11月、国産四駆トラックベース・ヤドカリワゴン車に乗って自分探しの旅に出た失業ほやほや而立男。
長距離フェリーから降り立った南九州の大地には、晩秋とは思えない強烈な紫外線が降り注いでいた。
旅の始めはフーテン物見遊山。その後、あっちこっちの名所名跡を観て回り、いろんな物を食べて呑んで、いろいろな事に出くわして……
鹿児島県指宿から霧島神宮を通って宮崎の高千穂へ――熊本県阿蘇山を観光して天草諸島に――有明海を渡って、長崎から佐世保を経て平戸島まで足延ばし――さらに、肥前唐津から博多市街に立ち寄り関門トンネルを潜り抜けて本州の地へ――山口県下関からは秋芳洞と秋吉台と萩城下を堪能し――東山陰地方は島根県石見の日本海国道9号線を東上する――
そうやって、のんびりスチャラカ漫遊旅に見えたコース終盤に差し掛かり、主人公の〝彼〟が体験した、唖然驚愕の出来事とは!?
物語のラスト9行で視界が突如単色に反転する、衝撃怒涛のロードドライブ・ミステリー。
《 ↓ これより本編が始まります》
前日
「うぅむ、残念だ。実に無念だ。忸怩たる思いしか浮かばない。だが、七年間よく頑張ってくれた。一所懸命働いてくれた。本当に御苦労さまでした。これは少ないけれど、当社規定によるキミの退職金だ」
「ありがとうございます」
胸を張って顎をぐいっと引いた〝彼〟は、中学の卒業式みたいに両手を揃えて前に差し出した。数刻前まで禄を食んでいた会社のナンバー3で総務部門を統括する取締役部長氏から、表に何も書いてない茶封筒を受け取った。
厚さから見て、中には給料二か月分、プラス慰謝料代わりに慰労金でも入っていそうだ。こんなもん、一円も残さず全部使い切ってやらぁ――彼は封筒を折り曲げポケットに捻じ込み、片足を半歩引いた。
「かような路傍の石がごとき若輩には勿体ない御厚志です。大切に使わせていただきます」
「うむむ。惜しい。実に惜しい。何もこんな形で会社をいきなり辞めなくたって……なんにせよ、あまりに急だったので、離職票はまだ出来てない。後日、キミのご自宅に郵送する」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「で……キミは、明日からどうやって生計を立てて行くのかね。次の仕事は決まっているのかね?」
「いえ、何も」
「自分の中で、何かあてのある勤め先でもあるのかね?」
「いいえ。まったく全然、微塵もありません」
「だったら、今からもう一度考え直すという選択肢も残ってるんだがね……」
四角い顔に四角い黒縁眼鏡、奥にある目だけがまん丸い取締役部長氏は話を終わらせようとしない。というか、逆上して突然退職届を叩きつけて来た無謀社員を最後の最後まで気に掛けてくれたのだ。
「いえ、結構です。総務部長さんの優しいお気遣い、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。短い間でしたが、この会社には大変お世話になりました。では、失礼いたしますッ!」
前傾135度に腰を折った彼は、両足を二歩半下げて踵を返した。背筋伸ばして胸を張り、下げた両手を振り子みたいに動かしながら総務部の部屋を出た。
営業部や宣伝部がある事務職フロアを突っ切る時、これまで苦楽を共にして来た同僚たちが全員顔を伏せて、反逆退職者を黙って見送った。拍手もねぎらいの言葉も無い悲しい別れだった。彼が永年敵対して来た狐目ワンレン・ボディコンの社内ナンバー2取締役宣伝部長女史は、デスクにふんぞり返ってそっぽを向いていた。
顎を上げて仰角15度で中空を見据えながら社屋玄関を出た彼は、一度も振り返る事無く、路上に停めておいた自分の車に飛び乗った。
ふんんっふんんむぅと鼻息荒い彼が運転する国産四輪駆動ピックアップトラック・ワゴンは、夜の首都高3号線をオラオラどきやがれと爆走する。渋谷や六本木のネオン煌めくビルの谷間を真一文字に突き進んで行く。
白地に赤のめでたい日章旗イメージにライトアップされた東京タワーを頭上に眺め、都心環状線から湾岸羽田線に合流。東京港を一気に跨ぐ現在突貫工事中のドデカい吊り橋を横目に、勝島出口まで走駆。
一旦下に降りて勝島橋を渡って反対方向にターン。対岸の高速湾岸線に入り直し、北東に向かう。
東京港の海底を最新片側三車線トンネルで一気に潜り抜ければ、長距離フェリーターミナルはすぐそこだ。
会社を去る際に断言した通り、今後の身の振り方なんか考えてない。先々の生活設計なんて、何もない真っ白けのけ。確たる人生目標など何も持たない、なりたて失業者アンチェイン而立一人旅が、たった今始まったのだ。
(へんっっ。いい大人がプータローになって、明日からどうやって食って行くかだって? 余計なお世話だっての。バッキャロー)
(四角四面顔の総務部長さん、他人の心配する前に、自分の身を案じなさいって)
(だいたいが、こんな謀反人に肩入れしてたら、お人良しのハンペン顔取締役なんか、足元掬われて潰されてしまうぞ。ふたつみっつにちょん切られてオデンの具にされちまうかも。なんてったって、前からも後ろからも下からもナナメからも、包丁突きつけられて刻まれちまう超ヤバヤバ企業なんだから)
自分一人しかいないヤドカリ・トラック車内は、妄言暴言虚言何でもありのアナーキー空間だ。
(とはいえ、何だかんだですべては過去形で語られる事になっちまった。去る者はサル。ウッキッキー。今のオレは、檻から解き放たれた一匹の野性児よ)
(いざ行かん。進め、我が愛艇ハイラックス・サーフ号よ。さぁ、帆を高く上げよ。向かい風も追い風もすべて受けろ。我らの眼前には、果てしなき大海原が拡がってるぞよ)
(そぅれ、どけどけぃ。トロトロ走ってる周りのザコども、邪魔すんじゃねぇっ。前を空けんかい。がおおおおっ!)
西暦1989年、御代替わりで平成という新しい元号になった年の十一月の半ば、勢いだけで爆走を始めてしまった而立男子なりたての彼は、自分自身の耳だけに届く遠吠えをしていた。
行く手で待ち受けるのは、まだ見ぬ未知の世界か。もしくは短慮無謀行為に伴う大きな代償か?
初日
午前八時十五分、定刻より一時間以上遅れて大型フェリー「さんふらわぁ」は、九州は鹿児島県東部志布志港に接岸。
降車スロープを降りれば、眼下に観る大地には、晩秋時とは思えない強烈な濃い紫外線が降り注いでいる。
初めての日本南国大陸を目にした彼は、四つのタイヤで航行する陸クルーザーの舳先を西の方角に向けた。まだナビ・システムが標準化されてない時代、アナログ道路地図と勘だけが頼りの行き当たりばったりロード・ドライブのスタートである。
ステアリングを握る愛車『トヨタ・ハイラックス・サーフ』は、当時はまだ珍しがられた国産ピックアップトラック・ベースの四駆ワゴン車だ。運転席の後ろは強化プラスティック製の大型カーゴで覆われていて、車内後部で足延ばして寝泊まりが出来る「ヤドカリ」仕様になっている。燃費が悪い4ナンバー・ガソリンエンジンとごつい四つのブロックタイヤは、シラス台地に伸びる国道220号線路上に濃いCO2と騒音を撒き散らして行く。
(そんじゃま、音楽のボリューム上げて、ブイブイ走るとすべぇか)
(どの曲を掛けっか。やっぱ、今をときめくプリプリの『Daiamonds』かな? それとも『世界でいちばん熱い夏』?)
(いやいやー、せっかく熱く燃える地九州鹿児島にやって来たんだし。ご当地が生んだ人気ミュージシャンをオープニングに据えなきゃいかんでしょう)
座面が高い運転席で独りDJやりつつ、グローブボックスから音楽カセットテープを一本取り出す。センターコンソールに鎮座するカロッツェリア製カーコンポにぶち込んだ。
薩摩っぽシンガーソングライター長渕剛の大ヒット曲、『とんぼ』が流れて来た。
(おうお、おぉおうー、ナイスだぜぃ。よぉしっ。おいもガンガン行くでごぁんどー!)
一時間も経たないうち、鹿児島県東部大隅半島の中核都市鹿屋市街を通過。
行く手真正面に、紺碧の海が見えて来た。おお、あれはおそらく錦江湾ですたい。対岸に横たわってるのは、偉大なる薩摩半島でごわす――ぐたぐた吠えながら、蘇鉄並木が続く海岸沿い国道220号線を北上。遠い東国武蔵の国からやって来た埼玉県ナンバー4WD車は軽快に走る。
やがて、前方にどデカい山が現れた。
(うおっ、あれは桜島だ。すげーすげー。海にどどんと浮かぶ現役活火山ってか。噴煙モクモク、山全体がカッカカッカと燃えてるみたい。まるで会社を辞める前のオレみたいだな……)
道路脇には溶岩が流出した跡があちこちにあった。噴火に備えた避難シェルターまで設置されている。異境異世界じみた光景を横目に、東日本からやって来たフーテン男は、胸わくわく物見遊山の旅に没頭する。
三十分ほど走り、桜島地区西端にあるフェリー乗り場に着いた。波静かな海面には渡し船が行き来している。
航跡の彼方に大きな街が見えた。大中小のビルが建ち並ぶ東洋のナポリ、鹿児島市だ。明治維新の英傑西郷隆盛が若き日に志を立てた薩摩藩城下町。そして、英傑が徳川幕府を打ち倒した後、日本最後の内戦を経て波乱の生涯を終えた地でもある。
(西郷どんって、スゴい……オレ、地元の人間じゃないけど尊敬しちゃうよ。ちぇすとぉお)
俄か薩摩隼人に変身した彼は、市内城山公園に車を停め、展望台のお立台にて桜島全景を改めて仰ぎ観た。園内にある犬を連れてない軍服姿の英傑立像にも拝謁し敬礼した。
その後は坂を降り、市中心の繁華街に向かう。
賑やかな天文館近くに4WD車を停め、歩いてアーケード街を散策する。カップ麺やパンやスナック菓子や缶詰糧食類を数日分買い込む。GSにも寄り、ヤドカリ号愛艇にも燃料をたらふく飲ませた。

熱線のごとき西日が眼球に突き刺さって来る時刻、彼は噴煙たなびく桜島を背に市内を離れた。
錦江湾岸を縦に貫く国道226号線、通称頴娃街道を南下する。渋滞もなく順調に進み、南国の太陽が東シナ海に沈む頃、鹿児島県南部指宿温泉に到着した。
九州上陸後初めての夜は、名物砂風呂に首まで浸かって旅の疲れを癒し……とはいかず、薩摩半島最南端長崎鼻という岬の無料駐車場に錨を下ろすことにする。
なお、先に述べた通り、ハイラックス・サーフ号のキャビン後部座席と荷台部分は簡易宿舎仕様になっている。後部座席を倒してフルフラットにすれば、あら不思議、そこは二畳スペースのベッドルーム。寝袋と毛布と厚手のカーテンとポータブルTVがあれば、長丁場の車中泊旅行も可能ってわけだ。
(こりゃあ、車輪が付いたキャンプ用テントみたいなもんだ。または自走式のバンガロー?? 昼間は道路上を走行し、夜になったらエンジン止めて車内で休憩団欒。ついでに、食事や晩酌やテレビ視聴までできちゃう)
(むろん、呑んだら運転しない。そのまま就寝して、朝になれば酔いも醒め、顔洗って気分はスッキリ。お目目パッチリにしてハンドルを握る)
(そうやってあちこちを廻るわけだ。そういうチープなヤドカリ・車中泊旅行人は、今でこそ奇人変人扱いされるけど、あと何十年か経った時には、小粋な孤高の風流人として持て囃されるかもな)
後々になって、いわゆるソロ・キャンプやキャンピングカー・トラベルがアウトドア・レジャーのスタンダードスタイルになるなんて、呑気なフーテン旅鴉だった当時の彼は知るはずもない。
二日め
翌朝、後部寝台スペースで寝袋に頭を埋めたまま、孤高の彼は目を覚ました。
ジッパー開けて上半身を起こせば、視界いっぱいに飛び込んで来たのは、日本一の霊峰富士山――ではなく、南九州の名峰開聞岳。
南国に聳える御当地フジサンは、山容は本家そっくり生き写しなものの、裾を長く伸ばした先にあるのは、駿河湾ならぬ東シナ海だ。
フォッサマグナの東側からやって来た東胡男は、起き抜けのぼーっとした頭を振り振り、しばし薩摩富士に観入ってしまった。気分が高揚してしまい、ついつい昔に国語の授業で習った某文豪大センセイを真似て、豪快に放屁を決める。
ぶぶ、ぶっ。
日本全国津々浦々、どんな土地にあっても、富士を名乗る山には大きな空と青い海、そして長く伸びる裾野がよく似合ふ――と感じた。

旭光を浴びてみるみる赤富士に替わって行く開聞岳に軽く二礼二拍手一礼した彼は、イグニッションキーを右に回した。
九州大陸上陸二日目は北東に転舵し、鹿児島県北東方面に向かう予定だ。
有名な薩摩半島池田湖の怪物?イッシー君にご挨拶してから尾根伝いを進み、信号がほとんど無い指宿スカイラインは通行料を節約するため避けるようにし、狭い県道の裏道に分け入った。
鹿児島市内は渋滞してたので大きく迂回し、くねくねした砂利の悪路を通って錦江湾北岸国分の街に到達。
さらに、荘厳な空気が漂う霧島神宮に参拝し、観光地霧島温泉郷は混んでそうなので素通りし、面舵いっぱい、そっからは神々が住まわれると言われる九州中央部宮崎県高千穂山系に舳先を向けた。
高千穂峡名所真名井の滝や、パワースポットとして有名な天岩戸神社の天安河原を散策し、さらに外輪山のサミットを越えて、熊本県阿蘇盆地に入った。

やがて、何頭もの野馬が草を食む草千里ドライブインにて小休止。
昼食タイムを摂る。朝イチで腹に入れた焼きそばパンだけじゃ身が持たないので、安い熊本ラーメン大盛りと白飯をかっ込む。
一息ついた後、売店でNTTのテレホンカードを買った。レストラン脇にあった緑の公衆電話ボックスに入る。
そろそろ人恋しくなった彼は、辞表を叩きつけて飛び出して来た古巣にダイヤルしたくなったのだ。元同僚で友達以上恋人未満、飲み会の後にお互い酔っ払って一回だけラブホに入った事ある〝彼女〟に、「旅先から愛してるよコール」を送ろうと思った次第。
呼び出し音六回くらい待たされ、抑揚ない女性の声が耳に届いた。
《はい。株式会社××××、営業部でございます》
「おっ、ラッキー。本人がストレートに出てくれたよ。うん。はい。オレです、オレ。仕事中に電話してゴメンね」
《……何だ。アンタか》
「うん。うれしい。久しぶりにハニーの声聞けて……って、久しぶりも何も、まだ辞めてから二日しか経ってないか。で、オレ、今どこにいると思う? なんと、九州は熊本、阿蘇山にいるんだよーん!」
《……あ、そう》
「おおぅ。ベタな鉄板ギャグ返しでありがとう。ハニーも元気そうで何よりだ。ところで、オレがいなくなって会社は困ってない? 上役がバカばかりだから、業績が悪化してない? 倒産しそうになってない? 社員たちは挫けず負けず、リゲイン飲んで24時間戦ってますかぁ?」
《んー。ま、なんとかね。ぼちぼち》
「いやぁ、こっち、九州っていい所だぜ。十一月なのにやたら暖かい。夜でも半袖シャツにパンツいっちょで過ごせるんだから」
《ふーん……》
「オレさ、本当の事言うと、ハニーを連れて一緒に旅に出たかったんだけどな」
《はぁ……何それ? それで、次はどうするの?》
「次? うーん、ここんとこ山道ばかり走って来たからね。また海が見たくなっちゃったな。オレってほら、海無し県の生まれ育ちだからさ。次は有明海とか天草とか島原とかを回って、びゅーんっと長崎まで行っちゃおっかね」
《そんなんじゃなくって。わたしが聞いてるのは、アンタ、次の仕事どうするかってこと。どうすんのよ、失業者になっちゃって。職安……じゃなくて最近はハローワークっていうんだっけ。そこ、行ってるの?》
「いんや、行ってない。オレ、会社辞めてすぐ長距離フェリーに飛び乗っちゃったから。まあ、後で実家がある埼玉に戻ってから役所に行くよ。何とかなるだろ。新聞やニュースでも、世の中はこれからすっげー好景気になるって言ってるし」
《呑気ね。というか、お話にならないほどのノーテンキよ、アンタ》
「ノーテンキでけっこう毛だらけ、猫なんとかだらけ」
《ふんんッ。じゃ、ひとりで楽しくやってれば。日本中、旅から旅、フーテンのナントカさんの真似して》
「うん。旅先で見つけたお土産は、ハニーにちゃんと買って帰るからさ」
《いらない。そんなモン……それに、もう帰って来なくていい。来なくていいから。それと、辞めた会社に電話をズケズケ掛けて来ないでッ》
「何だよ。それー。ずいぶんじゃんかよぉ」
《ずいぶんも何も……アンタのせいで、わたしは社内で針の筵に座らされちゃってんだかんね。アンタのオンナって烙印押されちゃってさ……大迷惑だわ。このままじゃ、わたしもアンタと同じ反逆者にされちゃうかも》
「えっ? ハニーが? そりゃずいぶん理不尽な話だろうよ」
《理不尽なのはアンタの方でしょ。よっく考えなさいよ! それと、わたしはアンタのマドンナじゃない。柴又で待ってる優しい妹でもない。もちろん恋人でも婚約者でも何でもないんだからね》
「おいおい、待てよ。待てって。切ないこと言うなよ。おい、ハニー。ハニーったら……」
《じゃ、そうゆうわけで、さよならッ! もう、わたしをハニーなんて馴れ馴れしく呼ばないでくれる。このバーッ――》
ブッツンと電話は切れた。500円度数のテレホンカードなんてあっという間に使い切ってしまう。
通話が切れる寸前、彼女の口から出た《バーッ》の後に続いたと思しき発音《――カッッ!》が、彼の耳奥でいつまでもリフレインしていた。
その日夕刻、熊本県西部天草諸島南端にある牛深という港町に彼はいた。
漁港岸壁脇に愛艇の錨を降ろし、ステアリングに頬杖ついたまま、曇天で夕日も望めない暗褐色の東シナ海を眺めてる。
日本列島西端近くにあるこの地では、緯度や経度が違うためか、彼の出身地埼玉県よりも一時間ほど日没が遅い。
故郷の実家では、今は晩秋真っただ中、夕餉の支度中であろう。台所に立つ母や食卓に座って夕刊を拡げる父はどんな気持ちでいるか? 三十過ぎて定職も持たずフラついてる一人息子の将来を気に掛けてるだろうか?
(帰ろかな……帰るの、よそうかな……)
二時間ぐらい、彼は唇の端で同じフレーズを捏ねくり回していた。
フロントガラスの向こうには、月も星も無い闇。波の音だけ聞こえるまっ黒い海。
(はあぁ、これじゃ寅さんどころか、モブキャラの通行人以下の下っ端役者風情だな。情けない。ふふぅう。でもま、あれこれ考えるのはよそう。こんな気分の時には、やっぱし)
呑むべし。酔うべし。そして、放歌高吟しなくていいから、さっさと寝るべしっ!
溜息を深く三回ついて、ヤドカリ号後部キャビンに移った。
熊本市内で仕入れた肥後の名酒「美少年」五合瓶を取り出す。ラッパ呑みで胃袋に直接投入。肴は、近くの漁港市場で売ってた白ウニ「ガンガゼ」。
旨いっっ! ポン酒にドンピシャで合う。ちゅぽんぽんっと思わず舌鼓。そして、最近せり出して来た下っ腹をぽぽーんと打った。割り箸を切らしていたので、ワイルドに手掴みで口に投げ入れる。
(ふふふのふんんっ。てやんでぇ、べらぼうめぃ。オレだって、一応は埼玉の『美青年』なんだぞぉ。うぃいっ)
呷るほど、酔うほどに、彼の肩と背中と頭の中は軽くなった。対して、両瞼と下顎は地球の引力に従順になる。
(あーはぁあ、どうだっていいや。オレ、もう頭ん中が奈良漬けになりそ……)
服なんぞは着替えない。そのまんま寝っ転がればよし。万年床の寝袋に入って目閉じればOK。目覚ましアラームも掛ける必要なし。トイレ行きたくなったら、車のドア開けて、外に下半身突き出してシャーシャー放流すればいい。
(そうゆーこと。オレは天下の野良犬さ。あっち向いてワン。こっち向いてワン……何か文句あっかぁああ!)
「美少年」の字が、白ウニが……桜島の噴煙が、開聞岳が……取締役総務部長氏の四角い顔が、ワンレン・ボディコン宣伝部長女史の狐目が……サヨナラを宣告された勝手に自称元カノの艶めかしい姿態が……彼の視界の中でぐるぐるぎゃんぎゃんべろんべろんと廻った。
(うひゃひゃあ、いい気持ちだぜぃ。人生、これでいいのだ。自由って最高だぁ。はい、ええ。皆なバカヤロー。そう。オイラも大馬鹿野郎なんれ~ す。……ではでは、今夜はこれでお開きにいたしますぅ。おやすみなしゃ~~い。ワオォ。ワオオォ~~~ンン!)
三日め
翌朝、彼は重い瞼をうんうん力入れて持ち上げた。窓の薄いカーテン越し、空のてっぺん近くまで昇った眩しいお天道様を見た。
車外に出て、ごりごりに硬まった首と背中と両足を伸ばす。
キャンプ用携帯ストーブで湯を沸かした。豆コーヒーを出して袋ごとスパナで叩く。超粗挽き粉にしてドリップで淹れる。カップは、アルミ製コッヘルを代用。ミルクが無いので濃厚ブラックのまま胃に流し込む。頭も目も鼻も耳も口元もシャキッとなった。
キャビンに戻り、乾電池ポータブルTVのスイッチを入れた。日本全国どこからでも見られるNHK総合チャンネルで朝のニュース番組を観る。
しかめっ面した年配男性アナウンサーが、地球のほぼ反対側にある東ドイツで「ベルリンの壁」が民衆によって破壊されているという特報を伝えていた。崩れ落ちた破片を踏み越えて、東側市民が西側地区にどんどんなだれ込んでいるという話も。
(あれあれあれぇ。じゃあ、東西のドイツが一緒になるってわけ? 二つに分断されてた国が、ついに統一される?)
(すごい大ニュースだな。切っ掛けを作ったのは、どこのどいつ……って、そりゃやっぱり、ペレストロイカを断行したソ連大統領ゴルバチョフだろう)
(うむむ。ヨーロッパと世界は大きく変化して行くのかも。我がニッポンだって、今年初めに国の象徴の顔と元号が替わったばかり。歴史は刻一刻と書き換えられて行く……ううん。オレも、こんな日本の隅っこで負け犬の遠吠えしてる場合じゃねえよな)
冷えて硬くなったフランスパンを齧り、苦いコーヒーと一緒に胃に流し込んだ。血中アルコール成分が残存してないよう願ってイグニッションキーを回す。サーフ号の錨を上げた。
彼が現在いる場所は、天草下島のドン突きにある港街。
これから、昨日走って来た道を逆戻りする。戻るといっても、故郷に帰るんじゃない。帰らない。帰れない。帰ってたまるもんか――
そう。道はまだまだ先があるのだ。三十路男の冒険一人旅は終わる事はない。
その日午後――
ヤドカリ・サーフ号は天草下島を貫く国道266号線を北に向かっている。
捲り過ぎてボロボロになってしまった全日本道路マップを繙き、彼は、西に向かう国道389号線が分かれる三軒家という交差点で舵を左に切った。
すぐ小ぶりの湾内に出る。湖みたいに波の無い海岸沿いに急カーブと隘路が続く。
しばらくステアリングを右に左に回しているうち、
(あ、あれはっ!?)
急ブレーキを踏んでしまった。
左前方に、小さな入り江があった。
奥には何軒かの民家。全国どこにでもある鄙びた集落。でも、黒瓦が連なる屋根と屋根の間には、
(う、うそでしょお。こんな所にキリスト教の教会があるなんて! 普通なら神社やお寺があるはずの小さな漁村のド真ん中に、白い十字架がバーンと……)

息を呑むとはこの光景か――まさに、彼は二の句も三の句も継げなくなっていた。
真正面には、山々をバックにして凛と佇むゴシック風の尖塔。周囲には、漁船数隻と海面を舞う海鳥たち。建物の手前にある船着き場には、漁師らしき人の姿も見えた。まるで、北欧バルト海か地中海沿岸のごとき見事な風景画だ。
でも、目の前にあるのは、我がニッポン国九州熊本県の西の端、日本人が住み、日本語が話され、黒い瓦屋根が並ぶ日本国内の実景なのである。
脳内がギンギラと冴え渡った彼は、教会入り口近くまで車を進めた。
『崎津教会』という案内標識があった。《※熊本県崎津地区、現・天草市。現在は世界遺産に登録されているキリスト教施設》
ゴシック様式の美しいチャペルは、村の鎮守様みたいな存在感を放っていて、それでいて言いようのない威厳と親近感を持っている。
(あいや、知らなかったぁ。参った! 我が国にこんなスゲー所があるなんて。九州ってめっちゃ奥が深いよ。大したもんだぁ)
(来て良かった。うん、見事だ。心が晴れる。晴れ渡る。最高に、ハレルヤ!)
それまで腹の奥に泥みたいに溜まっていた澱が、一気に雲散霧消した。
念のため申し添えておくと、彼はキリスト教徒ではない。通夜や葬儀に出る際は黒スーツ黒ネクタイ姿で数珠を持ち、読経に合わせて香をひと掴みふた掴み。お正月やお祭りの日には神社に行って二拝二拍手一礼し、お賽銭あげてお御籤引いて大吉だ小吉だと一喜一憂。
それでいて、年の暮にはワインやシャンパンを呑み、ケーキやフライドチキンを頬張って、歌うのは「きよしこの夜」ではなく「サイレント・ナイト」。
(はい。でもぉ、たった今、オレは生まれ変わったのでありまっす)
(キリスト教の教会ってビューティフル。ジーザス・クライスト万歳! マリア様に敬礼っ! はいぃ。この先も事故に遭わずに良い旅続けられますように……エイメンッッ‼)
胸の上でたどたどしく十字を切った。
こうして、軽佻浮薄な付和雷同型即席カトリック信徒??が誕生したのであった。

四日め
それからというもの、手前勝手に受洗した成り切り信徒がステアリングを握るコワモテSUV移動式バンガローは、西九州一帯に存在するキリスト教施設や隠れ切支丹史跡を廻りながら、オド・メーター走行キロ数を増やして行く。
――大江天主堂《※熊本県天草町(現天草市)にある現世界遺産》/天草ロザリオ館/富岡切支丹供養碑/原城址《※長崎県南有馬町(現南島原市)にある史跡。現世界遺産》/雲仙普賢岳/大浦天主堂《※長崎県長崎市にある日本の国宝・現世界遺産》/史跡グラバー邸/長崎市平和公園/長崎原爆資料館――

五日め――
――カトリック黒崎教会《長崎市上黒崎町》/ド・ロ神父記念館《長崎市西出津町》/針尾瀬戸/西海国立公園佐世保湾/瀬戸山天主堂《※カトリック田平教会。長崎県田平町(現平戸市田平)にある国の重要文化財》
――キリスト教墓地/平戸大橋/平戸城《長崎県平戸市》/聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂《長崎県平戸市》/カトリック紐差教会《長崎県平戸市》/等々――

六日め……
四つのタイヤで航行する陸クルーザーは、長崎県北西部にある平戸島中央部、玄界灘を見渡せる丘の上にやって来た。
時刻は、日が落ちてもまだ空の三分の一くらい明るい午後六時前。シーズンオフで静まり返った無人キャンプ場。
(……今夜はここに停泊、だな)
受付所が管理人不在なので、やむを得ずゲートを手で開けて無断で中に入った。
彼は愛艇サーフ号の錨を下ろし、動力を切った。後部キャビンに移り、寝袋を拡げた。アイスボックスからいつものように缶ビールを取り出す。
月明りと乾電池ランタンの下で呑む酒は効きが早かった。気持ちがふわふわして来た彼は、酩酊する前に寝床に入ることにする。
(今日はくねくねした狭い道で一日中ワッパ回してたからな。肩も背中もパンパンだよ。でも、なんだかんだで人生は楽しい。実に楽しいぜぃ)
(オレ、三十にしてようやく何か悟ったかも。女にフラれてウジウジしてたってしょうがないって。負け犬根性で尻尾巻いて故郷に帰らず、大正解だったぁ!)
窓カーテン越しに丸い月が見えた。
目を瞑れば、輪っかの中にいるのは聖母マリア様と一羽のウサギさん。一緒になって十字架の杵でとんとん餅を搗き――彼女らの後方には、満天を埋め尽くす神々の星があって――
だがしかし、寝袋にくるまって銀河系宇宙旅行を楽しんでいた彼は、間もなくリアルな地上世界に引き戻されることになる。
夜もだいぶ遅い時刻だった。
外で車の気配がした。忍び足みたいにして近寄って来た。
彼は頭を起こし、寝ぼけまなこで窓のカーテンをめくった。
月明かりの下、ハイラックス・サーフの横に、白と黒のモノトーンボディの車がいた。ドテッ腹には、デカデカと「長崎県警察」の文字がある。
(げっ。やばやばぁ。パトカーが来ちまった。オレ、無断侵入の罪で捕まるんだろうか? 車ん中で酒も飲んじゃってるし……)
制服姿の警官が二人降りて来た。
「——もしもし。もしもーし。ちょいとええかな」サーフ号の窓がコツコツ叩かれた。
彼は息を詰め身を固くしていたが、観念して寝袋から這い出した。手動ウインドウのハンドルを回し、半分だけ窓を下げる。
鬼瓦みたいな顔と懐中電灯の光が、車内に押し入って来た。
「――平戸の警察じゃけど。お宅さん、ここで何ばやっちょる?」
「え、えぇっと、すみません。オレ、いやワタクシは、今、車の中で野宿してます」
「どっから来たと?」
「ワ、ワタクシ、埼玉県の方から来まして、一人で九州廻る旅してます」
「ナンバーに大宮って字入っちょるけど、埼玉に大宮なんて場所あるんか?」
「ええ。は、はい。大宮市は埼玉県で一番大きな街です。いや違う、二番目かな。あ、三番目だったか」
「こん車、珍しい形してるばい。外車か?」
「はあ。いや、国産のトヨタ製小型トラックですけど。後ろの荷台部分がちょっとした小部屋になってまして、寝られるようになってます」
「——なるほどな。キャンピングカーちゅやつか……そいじゃ、恐縮じゃけど運転免許証と車検証見せてくれんかの」
割って入って来たもう一人の鬼瓦に言われ、彼は免許証と車検証を取り出した。
「ほほう。遠い関東の方からわざわざ来たとね。九州ば車で廻っちゅって、こんな長崎県の端っこに来る前はどこに?」
「ええっとぉ。はい、ワタクシ、このキャンプ場に来る前は、平戸市内にあったフランシスコ・ザビエル神父を記念した聖堂にお参りして、その前は、海の見える丘の上にあった教会やキリスト教墓地を見学してました。それより前は佐世保にいて、昨日訪れた長崎では、国宝大浦天主堂やグラバー邸なんか見に行き、おとついは熊本県の天草を走ってて、漁村にあったちょっと小ぶりの綺麗なチャペルなんか観て回ってました」
「教会が好きなんか?」
「いや、九州の西の方にやって来て、あちこちにあるキリスト教施設にハマってしまいまして……って、もともとは真言宗の寺に先祖代々の墓がある田舎の小せがれなんですがね。あはははは」
「お仕事は? お宅さん、何ばされちょる?」
「えっとぉ、今は無職です。実は、勤めてた会社を辞めて退職金貰って飛び出して来たんです」
「ほう……ええ身分じゃの。ところでお宅さん、車の中でお酒飲んでたの?」
「はぁ。まぁ、寝酒を少々……でもワタクシ、今夜は運転しませんので。もう寝るだけなんで。この車はタイヤが付いた走るカプセルホテルみたいなもんですから。無断でキャンプ場に入ったのは申し訳ありませんが、明日の朝には宿代をちゃんと受付所に置いて行きますんで、勘弁してください」
「わかった。それじゃ……戸締りば、じゅうぶん注意するように!」
二人の長崎県警警察官は言葉強く言い放ち、揃って敬礼をした。
「それとな、車からはなるべく外に出んように。トイレ行く時は、車から遠く離れんようしてな……なぁに、それもこれも全部、お宅さんの身の安全のためばい」と、忠告だか警告だかみたいな言葉を残して踵を返した。
「はぁ……あ?」
パトカーが行ってしまうのを彼は釈然としないまま見送ったけれど、緊張と疲労が大脳に血液を多くは送り込んでくれず、深く考えるのをやめた。後部寝台キャビンに戻ってすぐに横になってしまった。
七日めの朝
目を覚ますと、雲ひとつ無い見事な秋空が――
彼は敷地内のトイレで顔を洗い、キャンプ用携帯ストーブを取り出してお湯を沸かした。
買い置きしてあった御当地長崎ちゃんぽんカップ麺で朝食を摂る。ドリップで淹れためちゃくちゃ濃いコーヒーで、口の中と目と脳髄を覚醒させる。
一服した後、エンジンを掛け、タイヤで走行する小部屋を移動させた。無人の受付所に一泊キャンプ料金を置いて、ゲートを出た。平戸島を縦に貫く国道383号線へ向かう。
赤信号で停まったら、交差点の向こうの空き地にパトカーが一台駐車してるのを見た。車内には警官が二人乗っている。
(あれぇ。あいつら、夕べの鬼瓦どもだ……)
彼は不審に感じたけれど、あえて知らんぷりすることにした。無賃キャンプしたわけではないし、ゴミも捨ててない。夜中に大声出して騒いだり迷惑を掛けたのでもないのだから、頭下げたり挨拶する必要はないと判断したのだった。
ハイラックス・サーフのヤドカリ号は西国街道を快走し、佐賀県北部にある史跡名護屋城址や、呼子の玄海海中公園などを廻った。
名城唐津城から虹の松原を通り抜けて福岡県域に入り、元寇防塁跡などを訪ねた後、九州一の大都会福岡・博多の街に入った。
彼は、昼に中洲地区に立ち寄ってとんこつラーメン屋をみつけて腹を満たし、生体エネルギーと気合いを全身に注入した。
そして、北九州の門司まで突っ走り、関門海底国道トンネルを突き抜けて本州西端下関市に到達した。
八日め
その後の彼の進路は、愛艇サーフ号の舳先を山口県の北東部日本海側方面に向けて行く。
有名観光地秋芳洞を覗いてから秋吉台カルスト台地を駆け抜け、萩の城下町へ出た。幕末明治の志士を生み育てた松下村塾や松陰神社を訪れた。
先に訪れた薩摩・肥前に続いて、いざ長州の地からも日本男児の気概を頂戴し、サーフ号にも燃える闘魂を注入した。気持ちをぐぐいっと引き締め、日本海沿いに真っ直ぐ伸びる国道9号線を北東に向かって突き進む。
九日め……
「これより島根県」という県境標識を頭上に仰ぎ、彼は、益田市という日本海に面した市域に入った。
季節は晩秋である。陽はつるべ落とし。宵闇濃くなる中で、今夜の停泊地を探さなければならない。
現在走っている国道9号線には、至るところに無料パーキングエリアが設置されている。長距離トラックドライバーたちには恰好の休息施設だ。さすがはつい最近まで政府トップにいた御仁の出身県だな――と首肯してしまった。(その御仁とは、島根県が生んだ第74代内閣総理大臣竹下登氏)
海岸と並行する広い二車線国道の左手に、ちょいと小ぶりのフリー・パーキングスペースがあった。彼は四駆ヤドカリ号を乗り入れ、エンジンを切った。
窓のカーテンを閉めて後部キャビンに移り、取り出すのは、例によって缶ビール。プルトップを引き、ひとり寂しい宴を始める。
何本か缶を開けて酔いが回って来た頃だった。
突然、キキキキーッというタイヤを鳴らすけたたましい音が聞こえた。
一台の乗用車が、ヘッドライトをハイビームにしてパーキングスペースに入って来た。
傍若無人きわまりない来訪車は、彼のハイラックス・サーフ号の真正面に停まった。というより、進路を塞ぐような形で停車した。
白いカローラセダンだった。
四つのドアが一斉に開き、中からドヤドヤと男たちが降りて来た。皆、ジャンパーを着たラフな格好。若いのと年寄りの混成部隊である。
中の一人、童顔の上に似合わないパンチパーマを載せた目つき悪い若造がサーフ号に駆け寄って来て、運転席の窓を叩いた。
後部キャビンで身を縮める彼は、相手は暴走族か地元の不良連中だと感じ取った。カツアゲでもされるんだろうか――
警戒されていると見たパンチは、片手に何かを持って窓ガラスをバシバシ叩き始めた。叩きながら、「益田の警察や。開けてくれんかい」と言う。
諸国漫遊旅がらすドライバーは、慌ててウインドウの手動ハンドルをぐるぐる回す。
二本の腕がぐいっと伸びて来た。ひとつは黒い手帳を掲げている。五角形の金色旭日マークが見えた。もう一方の手はハンドルの横にさっと伸び、イグニッション・キーの穴をがちっと塞いだ。
「――お宅さんっ、今ここで何やっとる?」
「え、ええぇっと。オレ、車ん中で野宿してます」
「こん車、ナンバーに大宮って字を掲げてるの。大宮っちゅうと、どこや? 北九や広島じゃなかろ。神戸か? 大阪か? それとも、京都?」
「い、いえ。大宮って、関東にある埼玉県のナンバーです」
「ほう、そうか。埼玉からわざわざ島根まで来たんか」
「え、ええ……じ、自分は、西日本の方を車に乗って旅してるもんで」
「――埼玉県から来た4ナンバー貨物車に乗ってる運転手さん。ちょっと恐縮じゃが、免許証と車検証を見させてもらえんかね」
後ろから別のスタジャン男が首を伸ばして来た。広島カープの赤い野球帽をアミダに被った垂れ目の太っちょだ。
言われるまま、彼は、グローブボックスから取り出して相手に渡した。
「ふんふん。埼玉県の大宮市に本籍と現住所があるとね。埼玉っちゅうと、東京の北側にある県だな。そうか、海が無い所か。そういう土地でお宅さんは生まれ育ったわけだ……昭和三十四年生まれっちゅう事は、今年ジャスト三十歳。あれ? 何かいい匂いするね……お宅さん、車ん中で酒飲んじょったな?」
「はぁ。ス、スイマセン。オレ、今日はもうアガリなもんで。もうこの後は運転しませんので。はい、後は朝までグーグー寝るだけなもんで」
「このアメ車の小型トラックは、キャンピングカーになってるんか?」
「はい。アメ車じゃなく国産の安いトヨタ車ですが。自分で手作りで改装しちゃいました。改装っても、後ろの座席を倒してフラットにして、マット敷いただけの簡易寝台ですけど」
「――おいおい、屋根に付いてるアンテナは? この車は無線機積んでんかッ?」
突然棘々しい声で割り込んで来たのは、三人目の焦げ茶革ジャンを着た目の細い男。黒くて短い警棒のようなものを右手に握っている。
「え? あ? 屋根の上に載ってるアンテナですか? いえ、あれはただの飾りです。見せかけです。恰好つけて取り付けたイミテーションの偽物です」
「そうか。オモチャか。確かにコードが車内に伸びてないわ。マイクやアンプも積んじょらんようだし。なるほどな、了解了解。ところで……お宅さん、島根県のここ益田へ来る前は、どの辺りを走ってた?」
「ええっと。昼間は、隣の山口県にある萩市に寄って、午前中は秋吉台や鍾乳洞を観光してました。それより前の日は九州をあっちこっち廻って、鹿児島から宮崎、熊本から長崎、佐賀、福岡の順で走って来ました」
「どこかの警察で、何か言われんかったかい?」
「ええっとぉ、長崎県にあった平戸島って所のキャンプ場で野宿してて、夜中にパトカーに捕まりました。事情をよく説明したら許してくれましたけど……」
「そうか。そうだろうな。どこの警察も、今は気ぃ張っとるけん……まあええがや。それじゃ、日本のあちこちを走り廻ってる旅行者さん、せっかくのお休みのところを失礼しましたね。ここから先は、じゅうぶん気ぃ付けて行くようにしてくださいよ」
「は、はぁああ……??」
間延びした声しか、漂泊の旅人は返す事ができない。
すると、それまで三人の後ろで黙っていた灰色ジャンパー着た年配警官がすっと前に出て来た。
「――埼玉から来たお兄さん。悪かったの、寝てる所を起こしちまって。ところでな、お兄さんはさっき、私ら警察が来て声掛けたら、すぐ窓から顔出してくれたけど、あれ、まずいのう。実にまずい。相手が警察手帳見せたからゆうて、簡単に窓開けたりしたらいけん。世の中、何が起きるか分からんけんのぅ」
「は、はあ……」
「とにかく、気ぃ付けちょって。それと、今夜はもう運転せんでも、ガバガバ飲み過ぎんようにな。そんじゃ失礼」
言い捨てて、ラフな私服姿警官たちは軽く敬礼をした。ささっと車に乗り込んでしまった。
呆然と見送る彼を尻目に、地味なカローラを派手にサイド・ターンさせて、パーキングゾーンから出て行った。
十日め以降
陸を往くキャンピング・クルーザーは国道9号線を東進し、出雲大社や松江城や小泉八雲記念館などに立ち寄った。宍道湖名物しじみ汁にも舌鼓を打った。
さらに山陰の名峰伯耆大山や名勝鳥取砂丘や城崎温泉や天橋立などを堪能してから京都市内まで一気に南下した。
旅の締め括りは、国道1号線旧東海道を東進する逆五十三次膝栗毛を楽しみつつ、武蔵の国にある生まれ故郷に帰還した。無職無預貯金素寒貧の旅がらす男にとって、実に内容の濃い而立の航海であった。
しかし……
彼は旅の途上で、無人のはずの平戸島キャンプ場や日本海沿い国道パーキングスペースになぜ警察車両がすっ飛んで来たのか、深く考えはしなかった。
どこの誰が通報したのか、どんな理由があってのことなのか、何も知らず何も気づかず、何も理解していなかったのだ……
そして、十三年後に、
二十世紀末にあると噂された有名な大予言が見事に外れ、世界が滅びるでも無くミレニアムを迎えてから数年経った、平成十四年(2002年)初秋のある日のこと。
日本海の遥か彼方にある某共和国の空港に、我が日本国政府の勇気あるベートーベン・ヘアー宰相が、政府専用機ジャンボジェットで堂々降り立った。
既に四十三歳の社会人として中堅企業で働いていた〝彼〟は、TVニュース画面に映った両国首脳の喧嘩腰みたいな握手シーンを観て、かなり昔に聴いた或る言葉を思い出していた。
今から十三年前、西日本漫遊旅の途上、日本海沿い国道9号線パーキングスペースに於いて、島根県警益田署の年配私服警官から言われた言葉――〝相手が警察手帳見せたからゆうて、簡単に窓開けたりしたらいけん。世の中、何が起きるか分からんけんのぅ〟。
今や分別ある不惑男子である彼は、瞬時にすべて合点が行った。
そうなのだった。言われた通りであった。あの時、灰色ジャンパー着た年配警察官から受けた忠告警告は、けっして冗談や与太話ではなかったのだ。
もしも、あそこの場所であの時刻、無自覚無警戒だった当時三十歳の旅人が、まったく別の種類の人間に対してクルマの窓を開けていたら?
海を越えて忍び込んで来た何者かに、昏い波間に連れて行かれてしまったら??
今いる次元、平成時間軸における〝あなた〟の人生クルーザーは、世界のどこで、どんな社会を航行してるのであろうか……
――了
@平成元年(1989年)と、@平成十四年(2002年)に聞いた?風説

(文・写真)ⓒToshiike Wakao 2026
《※この作品は、風説というよりも「小説」であって、〝所説〟です》
《※現実に起きた『拉致事件』に遭われた被害者御本人様と、御親族の皆様方には、一刻も早く解決と安堵の報が届けられますよう、心より祈念申し上げます》
●歳池若夫・作 《平成異聞……それ、御内密に。》シリーズ。遠い昔のようで古くない平成時代に聞いたとされる風説!?をまとめた本格ミステリー短編集。推理小説世界のいろんなジャンルを楽しむことができます。
⇒ シリーズ第①話 『狛 刀〝シロイカタナ〟』
バイクアクション+本格謎解きミステリー+警察バディ物語。東京奥多摩の山村で起きた自動車「密室殺人」事件の謎を解く、異色の白バイ警官安楽椅子名探偵譚。
⇒ シリーズ第②話 『助手席に、いるっ!』
カー・ホラーミステリー。ハイスペック・フルタイム4WDスポーツ車を駆使し、日本横断違法脱法キャノンボールレース、通称「チョコボール・ラン」に果敢に挑戦した走り屋小僧が体験した、恐ろしい怪異の世界。
⇒ シリーズ第③話 『ハマノマサゴハツキ(ク)ルトモ……』
平成円熟期のゴルフ場を舞台にした、二十一世紀の義賊を気取る怪盗が活躍?する悪漢小説?? ゴルフが大好きな人も、そうでない人も、共に楽しんでいただけます。
⇒ シリーズ第④話 『点々と線々 ~青春の旅立ちと謎の暗号~』
鉄道暗号ミステリー。まだ時刻表に北陸「本線」の表記があった平成時代、慣れないリクルートスーツを着て、金沢を早朝に発つ特急電車で就活面接先の京都へ向かう乗りテツ大学生が車内で遭遇してしまった「テロ事件」?
⇒ シリーズ第⑤話 『砂丘、遥かに——』
ひと筆書きの片道切符を握り締め、京都・丹後但馬地方・鳥取砂丘を往く失恋自殺願望青年の――切なくて遣る瀬無い鉄道旅ミステリー。全体的に暗くて重い話がダラダラ続きますが、最後には衝撃の結末が……(物語のラスト5行には、万感の思いを込めました)
⇒ シリーズ第⑥話 『a fantastic voyage 而立の航海』
平成元年、四駆ヤドカリ仕様トラックに乗って自分探しの旅に出た三十男が、南九州、熊本、西九州&日本海山陰石見地方で大冒険? 前半は物見遊山のスチャラカ旅日記風だったものが、後半になって雲行きが怪しくなって……ラスト9行に至っては、いきなり視界が単色に反転する衝撃怒涛のロードドライブ・ミステリー。
⇒ シリーズ第⑦話 『山梔子と旅する男』(最新投稿)
木枯らしが舞う冬の或る寒い夜、東京は上野駅不忍口ガード下で——
ギターケースと重い旅行カバンを両手に下げてタクシーを降りた疲れ顔の若者は、帰宅客や酔客で混み合うコンコースを足早に突っ切る。改札口を抜けて、構内奥にある場末感漂う地平ホーム13番線へ急いだ。
今宵、大都会からこそこそ逃げ出していく哀しい旅人の宿は、北へ向かう古臭い寝台特急列車。
深夜、狭くて固いB寝台席ベッドで、寒さと振動と他の乗客の大鼾で眠れなくなった若者は、気晴らしで煙草でも吸おうとデッキの洗面所スペースに向かった……と、そこで、怪しく不思議な「父娘」に出会う。
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古き良き、悪しき妖しき平成官能ロマン。令和の今では乗ることも叶わぬ夜行寝台列車内で起きた、めくるめくスリラー・ナイト。
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推理小説のジャンルではあまり例が無い「ゴルフ・ミステリー」中編。(全3部構成) 一応、フー・ダニットとダイイングメッセージを扱ったオーソドックススタイルの名探偵トリック暴き本格ミステリー小説です。
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埼玉県東部を縦に貫く東北自動車道。その下り車線上で発生した走行車狙撃殺害事件。走行車の後方で警戒護衛に就いていたヘタレ私立探偵は、事件の経緯を小説にして文芸SNSに投稿するが、独自の推理考察や真相については、すべて読者諸兄姉に丸投げしてしまい……
